俺と狛村が知念家の屋根の上に降り立った時、夜の九時を回っていた。
初めて見るその家は、普通の住宅に比べると、三人で住むにはかなり立派に見えた。
少なくとも、流魂街でばあちゃんと雛森と俺で住んでいた家の何倍もある。
部屋の燈はいくつかついていたが、シンと静まり返っていた。

「霊障が起こる家なら、何かしら気配がありそうだが……何にも感じねぇな」
狛村は、答えない。
かまわずあたりを見回すと、玄関とは逆側に、犬小屋がいくつも見えた。
犬の第六感は普通の人間より、桁外れに強い。人間では俺たち死神の姿は見えないのに、すでに気配を察知したようだ。
次々犬小屋から出てきてこちらを見て、よほど人懐っこいのか尻尾を振っている。
もしかすると、あの五匹の子犬の匂いが、これくらい離れていても分かるのかもしれない。


「なにも不審な点はねぇな。……狛村?」
俺はふと、はるか頭上の狛村を見上げた。
無口な奴だが、それにしてもここについてから、一言も発していないのは不自然だった。
狛村が俺を見返してくる視線を感じるが、高すぎてどんな表情をしているのか分からない。
「……お主、何も感じないと言ったな。本気なのか?」
「……え?」
「これほどの負の気配が、あたりに満ちているというのに。分からぬお主ではあるまい」

低めた狛村の声が、強張っているのを感じる。
まさか。俺は改めて気配を探ってみたが、何も感じないのは同じだった。
俺が黙って首を振ると、狛村はこっちが不安になるくらい黙っていたが、不意に口を開いた。
「なるほど。そういうことか」
「どういう意味だよ?」
「……分からぬなら、それでいい。お主はこの件に、これ以上関わるな」
続けられた言葉に、俺は耳を疑う。

わずかに、混乱していた。黒崎は俺に来いと言い、狛村は関わるなと言う。
そして俺には、その理由がどちらも、分からない。
「……説明しろよ。理由も分からねぇのに、引けるか」
「忘れろ」
その巨大な腕が下りてきたと思った時には、俺は狛村の肩に強引に、担ぎ上げられていた。
「放せ! 何のつもりだ」
力ずくのやり方に半ば驚き、半ば怒りながら、狛村の肩に手を突いてその後頭部を見下ろした。

もがいた拍子に、屋根の軒下が視界の隅にうつった。
「……え?」
とっさに、それが何か、俺には分からなかった。
俺にとっては見慣れたものではあったが、ここにあるはずがないものだったからだろう。
理解するまでにかかった時間は、短いようで、とても長く感じた。

頭の中が、しびれるような感覚があった。真っ白になる、というのはこういう状態だろう。
「そんな……バカ、な」
俺の言葉に、狛村がゆっくりと目を閉じる。
「……だから。お主は、これ以上関わるべきではないと言ったのだ」
返せるどんな言葉も、俺の中には見つからなかった。
ゆっくりと、手のひらで顔を覆う。目を閉じても、一度見た光景は消えてくれなかった。


***


夜、十時。
あたしは、遅い晩ごはんを食べ終わって、勉強机で探偵小説の続きを読んでいた。
家事を終えた遊子は、もう布団の中で寝息を立てている。
スー、スー、と単調に響く音と、カチッ、カチッ、と鳴る時計の秒針の音とが引き合う。

本を机の上に伏せると、両腕を伸ばしてふわあ、と大あくびをする。
面白い展開のはずなのに、今日見たいろんなことが気になって、内容にうまく入っていけなかった。

一匹だけ生き残ったあの子犬は、今ごろお母さんの懐で眠ってるのかな。
絽夏ちゃんは、どうしているだろう。
一体どうなれば、すべてにとっていい解決になるのか、考えるほど頭がごちゃごちゃになる。
そんな時にふっと浮かぶ冬獅郎の顔に、わずかに苦笑する。
誰かに話を聞いてもらいたい、そんな時に冬獅郎を思い浮かべるあたしの気持ちなんて、あいつには分からないだろうな。
いつだって自信にあふれてて、迷ったり悩んだりすることなんて、なさそうだもんな。

不意にカラ、と音がした。

そっちに目をやったあたしは、あ……と思わず声を上げる。
「……冬獅郎! 珍しいな、どうしたんだよ」
自分の声の高さに気づいて、慌ててボリュームを下げる。横目で遊子を伺ったけど、眠ったままだった。
それを確認して、そっと視線を戻す。

開いた窓枠に、冬獅郎が降り立ったところだった。
珍しいどころか、冬獅郎がこんなに夜遅くやってくるのも、一兄の部屋以外に現れるのも初めてだった。
「……一兄の部屋なら、あっちだけど?」
「知ってる。別に間違えたわけじゃねぇよ」
当たり前のことを思わず指摘すると、冬獅郎は苦笑して首を振った。

「……どうかした?」
あたしは、立ち上がる。
窓枠に腰を下ろした冬獅郎に、歩み寄ろうとした。

「なんでも、ねぇよ」
ほら、その言い方に、なんだか力がない。
「部屋の中、入んなよ」
「立ち寄っただけだから、いい」
こんな夜更けに? 空座町に、何の用があって?
聞きたいことはあったけど、言い方がなんだか追求されるのを拒んでるみたいで。
あたしは中途半端に、部屋の真ん中で立ち止まる。

「それより、何か分かったのか?」
冬獅郎が顔を上げて、あたしを見つめてきた。
「うん……どうしたらいいのかは分かんないけど、状況だけは」
あたしはうなずくと、今日起こったことを手短に話して聞かせた。

絽夏ちゃんの家に行って、犬たちを見せてもらったこと。
敵意をむき出しにするセシルと、一匹だけ生き残っている白い子犬のこと。
その白い子犬を処分しようとする、絽夏ちゃんの両親のこと。
「……きっと、霊障の原因は、生き残った犬たちだよ。自分たちの大切にしている子犬を殺されたって知った親犬たちが、絽夏ちゃんの両親を恨んでるんだ」
あたしは自分の推測を口にしてみたけど、冬獅郎はどこか上の空みたいだった。

冬獅郎が口を挟む気がなさそうだから、あたしは先を続ける。
「……初めはさ。原因不明の病気で寝込むなんて、かわいそうだなって思ってたんだ。
どんな理由でも、誰かを苦しめるなんて許せないって。
でも……途中から、あの二人を怒る気持ちも、分かるようになってきてさ。
犬たちはちゃんと生きてるのに、商品扱いしてさ。あの人たちは、自分たちの手で子犬達を、水に沈めて殺したんだぞ」

「……水死、か」
冬獅郎の言葉は、重く沈んでた。
「うん。家の風呂場でって言ってた。……許せると思う? こんなこと。うらまれて当然……」
「それでも」
冬獅郎は、思いがけず強い調子であたしの言葉をさえぎった。
「お前が今言った通りだろ。どんな理由でも、誰かを苦しめるなんて許されない。
この間は、霊障は命には別状ないって言ったけど……訂正する。このままじゃ、分からねぇぞ」
「え? どういうこと?」
「そのまま、言葉の通りだよ」
死ぬかもしれない、っていうことなのか。頭の中を、昼間みた二人の姿がよぎる。
たしかに、苦しそうに倒れる二人を見て、本当に命は大丈夫なのかって不安になった。
「犯人は、断罪されるべき。それが全てだ」
その事務的な言い方に、あたしはぞぅっとする。こいつが死神なんだって思うのは、こんな時だ。

「あたしは、」
そこまで言って、言葉を止める。頭の中で、考えを整理する。
「冬獅郎の言ってることは死神として、正しいよ。でもさ。理不尽に避けられて、傷つけられて、殺される弱い奴の悔しさは、冬獅郎にはわかんないよ。冬獅郎は強いもん」
冬獅郎は、いらいらしたみたいに頭を掻いた。
「……お前にだって、そんな経験はねぇだろ」
「ないけど! 経験がないことでも、想像することはできるだろ? 避けられたら辛いし、傷つけられたら痛い。殺されるなんて……。
100%理解することなんてできないけど。でもあたしは、理解しようとがんばりたいよ」
それは、あたしが本を読むことを友達から教わって、学んだことだった。
想像力がなければ、読書を楽しむことなんて、絶対にできないから。
自分では体験してないことだって、登場人物の気持ちに入り込むことで理解できるのを、あたしは本から教わった。

冬獅郎は、黙ってた。その唇が、皮肉みたいに片方上がってるのを、ちらりと見る。
あたしは、あいつがそんな表情をするのを初めて見た。
「話を戻すぞ。だからって、その人間たちを殺させるわけにはいかねぇだろ」
「……。『あの』? 冬獅郎、もしかして絽夏ちゃんの家に行ったのか?」
冬獅郎は、あいまいにうなずく。
「何か分かった?」
「お前は探偵にはまってるんだろ? そう簡単に聞いて、いいのかよ」
冬獅郎は、あたしが机の上に伏せた本を指差した。
「そりゃそうだけど。ヒントくらい、いいじゃん」
「あの家で何が起こっているのか、ちゃんと見るんだ」
そう言って、あいつは立ち上がる。あっけなく背中を向けた後、体をひねって振り向いた。
「頼んだぞ」
「……え?」
目を見開いた時、その姿は火を消すように掻き消えていた。
カーテンが揺らめき、窓の向こうには真っ暗な闇が広がっている。

「冬獅郎!」
思わず窓に駆け寄りながら、あたしは考える。
あいつがあたしに「頼む」って言ったことが、ただの一度でもあったか? って。
ないはずだ。そう結論を出す。
うれしいはずだった。でも、今胸に感じているのは……

身を乗り出して、闇の中をうかがったけど、そこにはいつもの夜が広がっているだけ。
冬獅郎の姿は、もうどこにもなかった。
「……冬獅郎……」