その次の日は土曜。相変わらず、秋とは思えないほど日差しが強い日だった。
「夏梨ちゃん? 来てくれたの」
玄関のドアを開けた絽夏ちゃんの目の下は、隈で色が濃くなっていた。
外に立ったあたしたち三人を見て、驚いたようにその目が見開かれる。

「あー、ごめんな、ぞろぞろ来て。一兄は昨日紹介したけど……こっちは、うちの親父。
こんなんだけど医者だからさ、役に立てるかと思って」
「お医者さん?」
絽夏ちゃんの顔がぱっと明るくなるのを見て、なんだか申し訳なくなる。
ごめんな、実はダメ親父なんだ、とフォローのようなフォローじゃないようなことを言おうとした時、親父が絽夏ちゃんの前に、かがみこんだ。
ぽん、とその頭に大きな手のひらを乗せる。

「たった一人で、偉かったな。今日は午後から休診だから、原因が分かるまでしっかり診てやるからな」
こくん、とうなずいた絽夏ちゃんの目には、涙が見る見るたまっていった。
バカでダメな親父だけど、不思議と、子供にはとても人気があるらしい。実の子供以外、だけど。

あたしは廊下を歩きながら、隣の一兄を肘でつついた。
「一兄、今日は途中でいきなり帰るなよ?」
「ああ、今日は最後までいるさ」
最後まで? 一兄の言葉が耳に引っかかる。一兄はふぅ、とため息をついてあたしを見下ろした。
「お前には正直、関わってほしくねぇけど。聞くお前じゃねぇしな」
「何言ってんだよ! これは、あたしが解決するの!」
一兄は口を開きかけたけど、すぐに閉じる。また開いた時には、めったに見ないほどまじめな顔をしていた。
「……夏梨。お前、死神になりたいか?」
「な……に言ってんの。なりたいに決まってんだろ」
「どうしてか、理由を自分で分かってるか?」
何言ってんだよ、とごまかしてしまうには、あまりに一兄は真剣だった。

「……冬獅郎はさ。あたしを、護ってくれるつもりだよな。これからもずっと」
いきなり出した冬獅郎の名前にも、一兄は眉も動かさなかった。
たったひとりの、あたしのアニキだもんな。あたしの気持ちなんて、お見通しか。
一兄はうなずいて、すぐに返してきた。
「そりゃそうだろうぜ。あいつほど頼れる男はそういねぇと思うぜ、俺は」

それは間違いない、とあたしは思う。
あいつに護られてる限り、危ない目に遭おうたって遭いっこないと思うほどだ。
普通の女の子なら、護られたら嬉しいって思うんだろう。でも、あたしは。
「あたしは、オカシイのかな?」
「……何が?」
「護られたら、そりゃ、感謝するけど。それよりも悔しいんだ。その後、とっても悲しくなる」
何がイヤなんだ? 自分の中で、問いかけてみる。
どんどん遠ざかる背中を見送るしかないのが悔しいのか。
あいつとあたしが全然違う世界に生きていることを、思い知らされるのが悲しいのか。
それは確かにある、でも気持ちの全部じゃない。

何度だってあいつに打ちのめされて、それでも諦めきれないのは。
知り合ってばかりの時に、傷ついて倒れたあいつを見たからだ。
最強でもなく、完璧でもなく、自信たっぷりでもない。そんな冬獅郎を一度でも見てしまったあたしは――
「護られてばかりじゃイヤなんだ。あたしだって、冬獅郎を護れるようになりたい」

「……お前は、偉いよ」
一兄に、ぽんと頭を叩かれる。顔を上げると、思いがけないくらいやさしい笑顔があった。



「お父さん、お母さん、入るよ。お医者さんが来てくれたの」
絽夏ちゃんの声で、あたしは我に返った。
戸が開き、絽夏ちゃんの後に続いて親父が部屋に入るところだった。
「親父、何か手伝うか?」
「いい。夏梨は、絽夏ちゃんについてるんだ」
とん、と親父が絽夏ちゃんの肩を、廊下にむかって押しやる。そのほうがいい、とあたしも思う。
これ以上病気の親の看病をしてたら、絽夏ちゃんのほうが先に参ってしまう。

絽夏ちゃんの前では笑顔をくずさなかった親父が、ベッドに寝た二人を見下ろした時、一瞬深刻な表情になるのを、あたしは見てしまった。
確かに、ちらりと見えた二人は、明らかに普通の様子じゃなかった。
昨日見た時より、明らかに生気がない。廊下から見てても、息の熱さが伝わるようだった。

「……やっぱり、変なことがいろいろ起こってるのか?」
たずねると、絽夏ちゃんは不安そうにうなずいた。
「ええ。昨日お父さんとお母さんが倒れた時、犬たちが誰もいない方向を見て、尻尾振ってたでしょ?
同じことが、何度もあって……それに、なんだか見てると、遠くのほうを見てたのが、どんどん近くを見るようになってるようにも見えて。
何かが近づいてるのか……だんだん、怖くなって。今日まだ朝ごはん、あげれてないの」
「俺が手伝う」
一兄が即座に言った。
飼い犬に餌をやらないなんてダメだけど、状況が状況だけに絽夏ちゃんを責められない。
「一兄、でも……」
「心配ねぇよ。犬は原因じゃねぇからな」
ぴん、と小石を頬にぶつけられたみたいな気持ちがした。
あたしは足を止め、犬小屋のほうへ歩いていった絽夏ちゃんと一兄を、見送る。
犬が原因じゃない、というのは霊障のことだろう。どうして一兄は、そういいきれるんだろう。


廊下には、あたししかいなかった。振り返ると、寝室で親父が二人を診ている背中が見えた。
三人の会話が聞こえてくる。
「気分はどうですか? 吐きそうとか、熱っぽいとか。頭が痛いとか……」
「寒い……寒いんだ」
「そう。異常に寒いの」
「寒い? 外は25度近くあるのに。症状が始まってから、ずっとですか?」
「そうだ! ずっと寒くてたまらない、頼むなんとかしてくれ! 全身に、氷を押しつけられてるみたいなんだ!」
平静さをかなぐりすてて、親父に詰め寄る男の人の声を聞いて、ピンッ、とまた別の小石が、当たった気がした。

「犬が原因じゃない……寒い……」
考えろ、考えろ。あたしはぎゅっと唇を引き結ぶ。
頭の中では、冬獅郎が昨日去り際に残した言葉がこだましていた。
―― 「あの家で何が起こっているのか、ちゃんと見るんだ」

「夏梨! どうしたんだ!」
いきなり廊下をダッシュして犬小屋にむかったあたしに、親父が呼びかける声が聞こえた。でも、返事をする余裕はなかった。
一兄も絽夏ちゃんも、まだ餌の準備をしているのか、犬小屋のまわりにはいなかった。
あたしは、めまぐるしく辺りを見回した。屋根の上、軒下、壁、地面。
でも、犬たちは平静だったし、不審なところも見つからない。
不意に、一兄が昨日顔色を変えて出てきた、フェンスの向こうを思い出した。
ガシャン、と音を立てて金網を鳴らし、フェンスをよじ登り、飛び越える。


湿った気配のする、昼間でも日が当たらない玄関へと続く細い道。
あたしは、足音を潜めるようにしてゆっくりと歩いていた。
「一兄は、ここで何を見たんだ……?」
昨日、なんでもないと明らかに何かをごまかそうとしていた、らしくない一兄を思い出す。

ひやりとした空気が流れ、あたしは何気なく顔を上げる。そして、ぴたりと止まった。
銀色の輝きが、視界の隅によぎる。
雨どいの下、軒下の部分に逆向きの剣山のように生えたそれは……
「氷柱……?」
それも、ただの氷柱じゃない。三十センチくらいはある、北国のドキュメンタリー番組で見るような代物が、びっしりと続いている。
「……うそだろ」
つぶやいた声が、乾いてた。今、外は25度近いって親父は言ってたよな?

そのとき、短い悲鳴が犬小屋のほうで聞こえた。絽夏ちゃんの声だ。
とっさに身を翻して駆け出しながら、頭の隅では冷静に、これまでのことを思い起こしていた。
初めてこの家に足を踏み入れた時、あたしはどう思った?
虚みたいに野蛮な気配じゃない、でも確かに何かがいるのを感じた。
たとえるなら、首筋に氷を突きつけられたような、ぞっとするほどに冷たい、気配だった。
思わず、二の腕を空いている手で覆うほどに。

「どうしたんだ!」
フェンスをもう一度乗り越えて、犬小屋のほうへと向かう。
両手で口元を覆った絽夏ちゃんの足元には、犬の皿が散らばっていた。
「見て……見て、夏梨ちゃん。やっぱり、おかしいよ……」
絽夏ちゃんが震える指で差した向こうには、確かに異常な風景が広がっていた。

一見、昨日と同じ風景に見えた。
犬たちが、同じように上を見上げて、尻尾を振っている。
でも、その距離感が違ってる。
昨日は、どこか遠い空の向こうを見るようだったのに、今日の犬はもっともっと、近いところを見てた。そう……推測するなら、屋根の上あたり。
絽夏ちゃんが、震える声で続ける。
「どうして……。どんなに目を凝らしても、そっちには誰もいないのに。そこに、そこに来てるのよ! 祟りを起こしてる、犯人が!」

絽夏ちゃんの視線の先を、あたしはゆっくりと見やった。
ああ。
その瞬間に、すべての謎が―― とけた。

「……夏梨、ちゃん?」
ガタガタと全身で震えだしたあたしを、絽夏ちゃんが気遣わしげに見る。
「何か、何か見えてるの? ねぇ、夏梨ちゃん!」
肩をゆすられても、その場の光景から、目を逸らせなかった。
あたしの目は、屋根の上にたたずむ人影を、しっかりと捉えていた。

黒い影が、真っ青な空を横切って落ちてくる。
その後を目で追い、嬉しげに犬たちが騒ぎ出す。
その中には、あの白い子犬も混ざっている。あたしは、セシルが耳を後ろに倒して、あんなに嬉しそうな顔をするのを初めて見た。
伸ばされた腕が、その白い子犬に伸ばされ、抱き上げた。

「冬獅郎」

あたしの泣きそうな呼びかけに、冬獅郎は犬を抱き上げたまま、見返してきた。
空を切り取ったように青いその瞳は、平静そのものだった。
片方の唇が、わずかに上がる。
「……到底、名探偵にはなれねぇぞ。夏梨」