この世の中に、どうにもならないことは三つある。
逃げる松本、泣く雛森、そしてばあちゃん全般。


***


「たーいちょ―――」
書類の山の向こうから呼びかける松本の声音は、「もううんざり」「もうやめて」「逃げていい?」と全力で訴えている。
「逃げたら、明日からお前の席は、この隊首室にないと思え……!」
俺だって次から次へと署名するのに忙しいのだ。
手は止めず、自分の席で書類に埋もれている松本に圧力をかけることは忘れない。
「今日、飲み会なんです。行っていいでしょ?」
「公と私を混同すんな」
俺がそう言うと、松本はいきなりバネじかけの人形のように起き直った。
「公私混同は隊長でしょ! 隊長がこんっっなに大量の書類を雛森から引き取ってこなきゃ良かったんです!」
「雛森は熱出して寝てんだ、しょうがねぇだろ!」
「こないだ阿散井が寝込んだ時は、『ちょうどいい、紙に埋もれて死んじまえ』って言ったくせに!」
誰だそんなひでえこと言ったのは。そう思ったが、確かに記憶がある。
この瀞霊廷で、異常にタチの悪い風邪……いんふるえんざ、とかいうのが流行りだしたのは、ここ最近。
現世に行き来する死神が増えたからって話だが、こんな病気に免疫なんてない。
ハタから見れば笑い話だが、死神がつぎつぎぶっ倒れる、という事態になっていた。
当然、残された死神たちに負荷が怒涛のように押し寄せ、イライラは頂点に達していた。

俺はしみじみと松本を見る。
「副官がお前でよかった、と思ったのは初めてだぜ」
「……え? 隊長、今なんて」
「バカは風邪をひかねぇって言うしな……」
「隊長だってピンピンしてるじゃないですか」
「俺もバカだって言ってるか?」
「『も』って言いましたね今。あたしはバカ決定ですか?」
こいつと話してると、自分がどんどんバカになっていく気がする。
俺は会話を打ち切り、凝り固まった肩をごきりとまわした。
藍染を倒してからこっち、やっと平和になったと思ったのに、これじゃ藍染よりひどい、と言っている連中もいるくらいだ。

ため息をついて視線を戻すと、そろり、と立ち上がりかけた松本と目があった。
まるで、熊に出会った人間が、ゆっくり後ずさりして逃げていくような反応だ。
「……松本」
逃げんな。そう言おうとした時、松本はわざとらしく、背後の窓の外を指差した。
「あっ! あんなところに藍染が!」
「……いい度胸だ、てめえ」
よりにもよって藍染の名前を出すとは、太ぇ女だ。
そんな名前を聞いて、俺が背後を振り向いて隙を見せるなんて思うとは百年はええ!
という顔をして、俺は松本をじーっと見てやる。松本は、一瞬顔を引きつらせたあと、すぐに手を変えた。
「あっ! あんなところに隊長のおばあちゃんが!」
「はっ?」
反射的に……いや、まるでプログラムされたみたいに、俺は思いっきり背後を振り向く。
……当然、誰もいない。それを確かめる前にすでに、「しまった!」と心中叫んでいた。

「松本ォ!」
叫んで振り返った先に、当然、松本はいない。
ゆらり、と俺は立ち上がる。紙がぱらぱらと何枚か滑り落ちたが、そんなことはもうどうだっていい。
あいつの首根っこを引っつかんで、引き戻してやるまでだ。
「ンッの、バカ野郎が!」
と、バン! と拳で手を叩いた

……

ところで、目が覚めた。


***


「っー……」
拳が、拳が痛い。
どうやら、寝ぼけて拳で叩いた場所に、水差しがあったらしい。
水差しはヒビが入り、結果俺は指を抑えて呻くことになる。おかげで、目がすっきり覚めた。

「……なんて、ヤな夢だ……」
目が覚めた瞬間、こんなに人をうんざりさせるなんて。
しかも、松本が逃げるところなんて特に、夢とは思えないくらいに臨場感に溢れてた。
病気で仲間がつぎつぎぶっ倒れるところも、現実になっても全くおかしくないだろうし。
じゃっかん涙目になりながら、布団の上に胡坐を掻く。乱れた襟を掻き寄せて、痛み続ける手を撫でた。
ハッキリ言って、こんな姿を松本や雛森に見られたら、涙を流して笑われると思う。

布団の隣に置かれた時計を見る。七時五分前、後五分で目覚ましが鳴るところだ。
当然、寝なおすわけにもいかず、ため息をついて目覚ましのアラームをオフにする。
なんでだか分らないが、俺は他人といると目覚めがいいが、一人だと妙に朝に弱い。
冬眠から醒めた熊みたいにしばらく動けないか、動いたとしてもあちこちぶつかったりする。
こんな姿を松本や雛森に……以下同文。

今日は、外出もなければ面倒な会議もない。
緊張感のなさが、余計嫌気を誘うのかもしれない。
よろよろと身を起こして、はっと気づく。
「……喉、痛ぇ」
あの夢は、そういうことかよ。
本当にいんふる……なんとかになった日には、目も当てられない。
隊長が、風邪だなんて。そんなみっともないこと、耐えられるか。

水は毎朝、新人の隊士が井戸からくみ上げたものを、桶に入れて隊首室の外に置いてくれている。
そいつで顔を洗うと、外気に冷やされた水がキーンと肌に染み、厭でも目が覚めた。
鏡に映った自分の白い顔に、いつもはない赤みが差すほどだ。
ていうか、これはまさか、熱のせいなのか?

そう思いついて、見ないふりをしてさっさと死覇装を着る。
こんな日は早く隊首室へ行って、とっとと今日の仕事を終わらせて寝るに限る。
俺の昼寝は、仕事を終わらせたものの特権と思われているから、別に不審にも思われないだろう。

というわけで、俺が隊首室にたどり着いたのは、いつもより一時間以上早かった。
そんな時間に、部屋に誰もいるわけがない、と高をくくっていた。
バン、と扉を開けた瞬間。そこにいた人物に、俺は思わず固まった。