誠子


「あと、24時間だ」
初恋のひとは、私に向かって、そう言った。
その口元が動くのを、私は黙って見つめることしかできなかった。
「お前はあと24時間で、死ぬ」


―― 24hours ――

 
放課後の教室は、授業から解放された後の、楽しそうな声であふれていた。
「ねぇ!」
突然私の方にもはしゃいだ声が飛んできて、ドキッとして反射的にそちらを見る。
友達に声をかけられた時用の、とっておきの笑みを浮かべようと努力しながら。

ランドセルを背負った女の子たち数人が、キャーキャー騒ぎながらこちらに目を向けてる。
「南町のところに、新しいゲーセンできたの知らない?」
その視線の先を確認すると同時に、私の顔から貼りつけた笑みが滑り落ちる。
視線を逸らすと、スッ、と立ち上がった。

「苑美(そのみ)ちゃん、行こうよ!」
「うん、行く!」
弾んだ声をあげて、私の脇をすりぬけて女の子たちに合流したのは、前原苑美だった。
プリーツスカートの裾が、楽しげに私の視界で揺れる。
栗色の波打つ髪が天然パーマで、毎朝の寝癖直しに苦労してること。
体が細すぎて、食べても食べても女の子っぽい体型になれないこと。
そんな半年前の悩みを私は知ってるのに、今の苑美はまるで別人みたいだ。

明るい声に追い立てられるように、私はひとり教室を出た。



苑美は、私の友達。いや、「友達だった」かな。
口をきかないどころか、目も合わせなくなって、もう随分になるから。

私は自分でも嫌になるくらい、内向的な性格だった。
例えば体育でバスケットボールの試合をするよりも、部屋でひとりで本を読んでいる方が楽しい。
人と話すときも、大勢で盛り上がるよりも一対一のほうがしっくりきた。
学級委員長でも班長でも、「長」と名前がつく仕事に、十一年の人生で一度もついたことがないし、つきたいとも思わない。

そんな私の性格に、ぴたりと合ったのが苑美だった。
あの子は私と同じように本が好きで、ふたりで最近読んだ本について、何時間でも話していられた。
あの頃はクラスメート達の輪の中に普通に入って、放課後はゲーセン巡りすることもあったのに。
今では、どうやって笑って、何を話していいのか分からないの。
まるで大縄跳びをしていて、どのタイミングで輪に飛び込めばいいのかタイミングを図っているうちに、順番を失ってしまったみたいに。


半年間もまともにクラスメートと話していない、なんて異常なことに決まってるから、すぐにそれが不安になりだした。
声を潜めて話しているのを見かけたり、視線を向けられたりするたびに、私の噂話をされているのかと体が固くなる時期もあった。
でも、それからしばらくして、気づいてしまった。
噂話をされるどころか、私はみんなの視界にすら入ってきてないと。
みんなの視線は、私がまるで透明人間になったみたいに、私の体をすり抜けてしまうみたい。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
廊下をひとり歩いていると、思わずため息が漏れた。


キュッ、キュッ、と靴底で廊下が鳴る。
あちこちの教室からは笑い声が弾けているのに、ここは切り離された空間のように静かだ。
教室にある時計の秒針の音まで耳を澄ませば聞こえそうだった。今日私は一体何言、教室で言葉を発しただろう。

出席を取る時に「はい」。
数学の授業中に先生に当てられて「三分の一」。
それから。それから……?
そこまで考えて、私はそれ以上考えるのを止めた。




下駄箱にたどり着いたとき、私の名前の「辻村誠子」と張られたシールの上に、ボールペンで字が重ねられているのに気づいた。
―― キモい、ブサイク、学校来んな。……
目にした途端、まるでボールが顔面に投げ込まれたかのように、くらりとした。
息が詰まり、反射的に周囲を見渡した。階段にも廊下にも、誰もいない。
誰もいないのに、大勢の人間に物陰から笑われている気がして、私はしばらくその場に固まったままでいた。
震える指先で、名前シールに触れる。何度見てもなかったことにはできないその文字に、息も震えた。
半年前までは普通に友達だったんだから、どれが誰の筆跡なのかはすぐに分かる。
どれも、仲良くしてた人のものだった。

―― ダサい名前。
ひときわ大きく書かれたその字は、クラスで一番レベルの高い子のものだ。
キレイだし、成績もいいし、いつだって友達に囲まれて自信たっぷりに話してる、桐原知美という子に違いなかった。
一人でいても存在感があるし、大勢でいても目立つ。
そんな子に勝ち目があるはずないのに、なんで私なんかにかまうんだろう。
私は冷たい指先でもたつきながらシールをはがし、隠すように鞄のポケットに入れた。


ダサい名前だってことは、分かってる。
誠実な子になれ。そういう名前の由来だと親から聞いた。
「人の顔色を見るなんて自分がないみたいで、カッコ悪い」ってみんな言う。
でも、私はそうやって生きてきた。努力して努力して……それでも私は居場所を失ったのを知った。

どうして、私は皆と同じように、仲良くできないんだろう。
どうしてみんな、私を見るときに他の子たちと「違う」目つきになるんだろう。
私はこんなに「みんなと同じ」になりたいのに。
まるで、私の顔に、「私はみんなと違います」って書いた紙が貼りつけてあるみたい。
私はそっと、長く伸びた前髪で顔を隠した。


***


「ただいま」
「あ、誠子。おかえりなさい」
玄関の扉を開けて靴を脱いだところで、台所からお母さんの声が聞こえた。
「お母さん、これから夜勤だから。お父さん、今日も遅くなると思うから、晩ご飯適当に食べておいて」
「うん」
お母さんの視線をうなじの辺りに感じながら、私は頷く。
靴を玄関の隅に揃えて振り向いた時、台所の扉に手をかけてこちらを見ているお母さんと目が合った。
「誠子、あんた最近……」
「え? 何?」
いつも通りの会話に投げ込まれた異音。
お母さんは私を見て、何だか不思議そうな顔をしていた。「普通じゃないもの」を私の顔に見つけたみたいな。
何の接点もあるはずがないのに、クラスの子たちと全く同じ表情をしている。私の心臓が、勝手にはね上がった。

私、また何か「失敗」しちゃったのかな。
慌てて視線をそらすと、自分の今の行動を反芻する。
その拍子に、玄関に置かれた姿身に目が行き……そこに映った女の子を見て、ぎょっとした

誰? って、一瞬思った。
長い黒髪は、梳かしも揃えもしないから、ところどころほぐれてザンバラになっている。
前髪も長すぎて、目元がほとんど見えないくらいだ。
その中で唇だけが、自分でも薄気味悪いほどに卑屈な笑みを貼りつけていた。
私、自分が笑っていたことすら、知らなかった。こんな顔で、私は毎日過ごしていたのか。

―― キモい、ブサイク。
あの文字がフラッシュバックする。
「ごめん、私ちょっと気分悪くて。部屋に行ってる」
言葉を途切れさせたお母さんの脇をすり抜け、二階への階段へと向った。
「ちょっと……誠子? どうしたの!」
「ほっといて!!」
唐突な私の大声に、お母さんが立ちすくむのが分かった。
ハッとしたけど、それを気にかける余裕はない。私は階段を駆け上がった。

部屋に入って、バタン、と扉を閉めた私は一人になった。
陸で息ができずに、パクパク口を開ける瀕死の魚のように、喘ぐ。
たりない、たりない、この世界で生きていくには何かが決定的にたりないのだ。

「助けて……助けて……助けて」
気づけば、同じフレーズを何度も、何度も繰り返してた。
もし今の私を誰かが見たら、ついに頭がおかしくなったと思うだろう。
思わず部屋の中を見回して……その場にズルズルとへたりこんだ。

誰か、私の話を聞いて。目を合わせて、笑いかけてくれればそれだけで息ができる。
いろんな人の顔を、目まぐるしく思い浮かべる。
宛美。お父さん。お母さん。先生……
ひとりずつダメ・ダメ・と消していって……やがてすぐに誰の名前も浮かんでこなくなった時、はっきりと思ったのだ。
私が消えてしまいたいと。