日番谷


「お、お大事に。日番谷たいちょー」
クロサキ医院に背を向けた時、玄関口に俺を見送りに出た黒崎がプッ、と噴出した。

笑うな。
ていうか、こういう時ばっかりワザとらしく隊長って呼ぶんじゃねえ。
俺だってうんざりしてるトコなんだ。
死神が花粉症になるって、アリエネーだろ!!
何か言い返してやろうとしたら、くしゃん、と立て続けにクシャミが出たから、諦める。

「まぁ、花粉症はアレルギーだからな。一時的に薬で症状を治められても、中々完治はしねぇよ」
「お前はそれでも医者か! 治せねえのかよ」
「俺は医者の息子で、医者じゃねえんだよ。大体、全部の病気がクスリで治ったら、お前らの商売立ちゆかねぇだろ」

「……死神は商売じゃねえ」
そりゃ確かに、病死する人間がいなくなれば死神商売は閑古鳥だ。
松本あたりが喜ぶだろうが……そこまで考えたところで、またくしゃみが出た。
死なないレベルの病気に、こんな厄介なのがあるとは知らなかった。


それを見下ろした黒崎が、さっきよりは若干同情的な声で続けた。
「とはいえ、その症状は義骸だけのもんだろ? さっさとソウル・ソサエティに戻って、義骸脱ぎ捨てたほうが早いぜ。
もしこの町に虚が出れば、俺が何とかしとくから」
「あぁ、頼む」
「任しとけ」

こいつは正式な死神でさえないが、その実力も気性も、信頼に値する男だ。
俺は軽く手をあげると、その場から歩き出した。
「あっ、ちょっと待て冬獅郎!」
その背中に、すかさず黒崎の声が飛んでくる。
「ンだよお前は、戻れっつったり待てっつったり」
「今すぐ戻らなくたっていいだろうがよ。家の中なら症状そんなでもねえみてえだし、ちょっと待つ気ねぇか?」
「待つって何を?」
「……遊子と夏梨だよ。アイツら、お前に会いたがってる」


俺は返事の代わりに頭を掻いた。
アイツらに出会ったら困るから、俺は早くソウル・ソサエティに帰ろうとしてるんだが!?
「あの二人には、もう会わねーよ」
「はぁ? なんで??」
「禁忌だからだ」
俺はできるだけ感情を込めず、短く返す。
「死神は、全ての魂に平等に接すべし。魂が現世にいようが、ソウル・ソサエティにいようが同じだ。
お前だって分かるだろ? 死神が魂をひいきするようになったら駄目な理由が」

黒崎は、俺の言葉にぐっと詰まったが、低い声で言い返してきた。
「でも、お前は違うだろ」
特定の魂を特別扱いはしないはずだ。
その言葉を、俺は心の中で反芻する。

「……さあな」
「……お前」
「じゃぁな」
これ以上、会話を続ける気にはなれなかった。
眉を顰めて、歩み寄ってきた黒崎の気配を感じると同時に、瞬歩で姿を消す。

例えば、夏梨が死んで流魂街の中でも治安の悪いエリアに送られることになったら?
自分でも認める。
今の俺にとっては、黒崎の質問はちょっとばかりキツかった。

 
***


「それにしても」
民家の屋根の上で、くしゃん、と俺はまたクシャミした。

―― 技術開発局の連中、コロス……
いくら本物の人間らしく義骸を作るって言っても、「花粉症体質の義骸」なんて普通考えつかねえだろ。
わざわざ俺の義骸にそんな体質を組み込んでくるとは、遠まわしにケンカ売ってんのかアイツらは?

とはいえ、「重霊地」である空座町のパトロールは欠かせない。
いつどんな虚や破面が現れるか分からない、危険な状態が続いているからだ。

―― ざっと見回り済ませたら、後は黒崎に任せるか。
そう思って、暗い夜道の角を曲がった時だった。
上から気配を感じ、俺は上空を見上げる。


「誰だ……あれ」
屋上に立っている小さな影が、ひとつ。
背格好は夏梨や遊子たちと似たようなもんで、女だ。

自分が何をしてるか分かってない、そんなボンヤリとした表情だ。
屋上の手すりの向こうに自分が立っていて、一歩踏み出せば落ちて死ぬと分かっていない、ということ。
女のスカートが風にあおられている。
この強風じゃ、何かの弾みに、何もしなくても落ちてしまうかもしれない。

―― どうするか。
俺はつかの間、逡巡する。
規則が多くてイヤになるが、死神は人間の自殺を止めてはいけない。
死神は死者の魂を連れて行くのが仕事であって、生きるの死ぬのという決断に口を出すのは範疇外だからだ。
通り過ぎようとして、足がためらう。
自殺を見過ごせないと思ってしまうのは、死神になる前の遠い昔、人間として生きていたはずの俺の、記憶のせいかもしれない。
まあ、覚えているわけじゃないが。
俺はひとつ息をつくと、ビルへの非常階段に身を滑り込ませた。

 

「おい! 戻れ!」
息を切らせて屋上に駆け込むと、手すりの向こうの人影に声をかけた。
見ると、俺とほとんど背格好は変わらない、やっぱり子供だ。
俺の声が聞こえているのかいないのか、俺に背中を向けたままだ。
「中に入れって……」
カシャン、と音を立て、手すりを乗り越えようとした時だった。
その金属音に我に返ったのか、子供が夢から覚めたような表情で振り返った。

タン、と軽い足音を立てて、子供の目の前に降り立つ。
長い前髪に隠れた大きな瞳が、まっすぐにこちらを見た。
「お前……」
言葉を続けようとした途端。俺はまたクシャミの発作に襲われて、かがみこんだ。

「や……」
首を振って、その子供が後ろに下がろうとする。
「危ねえ!」
ズル、と子供の足が屋上からずり落ちそうになり、俺は若干涙目ながら手を伸ばした。
「嫌……」
俺がその手首を掴んだ時、子供が絶叫した。

「来ないでっ!!!」

「ん?」
いきなりドン、と突き飛ばされる。
「え?」
ぐら、と体が揺れた。そう思った時には、俺の体は宙を舞っていた。


突き飛ばされた弾みで、屋上から落下しているんだ。
俺は落ちながら状況を把握する。

義骸でも、ここから落ちて死なないくらいの運動神経は与えられている。
この壁を蹴って、向こうの一段低い建物に飛び移る。
それくらいの芸当はできそうだ。


でも、それをあの子供に見られたら、普通じゃない動きに見えるのは確かだろう。
だからって、このまま道路に落ちたら痛いし、技術開発局から小言を食らう。
大体今技術開発局の奴らの顔を見たら最後、氷漬けにしねえ自信はねぇぞ。

―― しょうがねー。死神に戻るか。
トン、と自分の額を指先で突く。
それだけの動きで、俺は義骸と死神の体に分離する。

バサリ、と見慣れた死覇装が夜風にはためく。
ガッ、とそのまま落ちかけた義骸の手首を掴み、俺は上空を見やった。
屋上にいた子供の目からは、俺が闇に吸い込まれる姿だけが見えたはずだ。


「いやぁ!」
甲高い悲鳴が聞こえ、子供が手すりを乗り越え、屋上に戻るのが見えた。
どうやら、経緯はとにかく、自殺は諦めてくれたみたいだ。
俺としても、不用意に長居する気はない。
隊長の俺が、死神の本体のまま留まれば、今の不安定な空座町には悪影響を及ぼすかもしれないからだ。

―― やれやれ。
俺はため息をつくと、その場を後にした。