夜一


「で」
日番谷冬獅郎は、書類を百枚増やされたような仏頂面で、儂(わし)を見上げた。

場所は十番隊隊首室、隊首机のまん前。もちろん、ソウル・ソサエティじゃ。
「俺に何をしろってんだ、四楓院夜一」
質問してきた割に、「話はこれで終わりだ!!」といわんばかりに、書類に視線を戻す。
トン、トン、と手早い動きで判子(ハンコ)をつくのを、ほぅ、と感心して眺める。
はっきり言って、隊長時代の儂の十倍は、仕事が早い。
仕事熱心だという噂は、本当だったようじゃな。


しかし、儂は日番谷の仕事を見物しに来たわけじゃない。
すかさずタン! と手を書類の上につくと、作業を妨害してみた。
「……」
氷のような視線が儂を射る。

「いいか」
「……」
「所詮、この世は男と女じゃ」
日番谷は、返事の代わりに、更に書類を千枚足されたような顔をした。
「女をその気にさせたからには、お主も責任を取らなければの」


判子を持つ日番谷の手が一瞬空中をさまよい、書類の真ん中にトン、と落ちた。
見事な達筆で書かれた字の真上を、赤い跡が汚す。
明らかにそれはミスじゃろ。
日番谷は、己のしでかした失敗を無表情で見下ろした。

そして、コッ、と小さな音を立てて、判子を机の上に休める。
すぅっ、と息を吸い込む音が聞こえた。
まるで毛を逆立てようとしている、ネコみたいじゃな。
儂は自分を棚にあげて、そんなことを思った。


次の瞬間、キレて怒鳴るつもりだったのか、抜刀でもするつもりだったのかは判らぬ。
「あっははははは!!」
突然タガが外れたかのように、ソファーで爆睡していたはずの松本乱菊が笑い出したからじゃ。
その姿は、ソファーの背もたれの陰になって見えぬ。
「よくそんなに笑えるもんじゃのー」
儂は感心した。
なかなかどうして、起き抜けに大口開けて大声で笑えるもんじゃない。
しかし儂の一言は、日番谷の我慢の糸をブチッと切ったらしかった。


日番谷は、無言で文鎮を手に取り、ひょい、とソファーの向こうに投げた。
「はははぅっ!?」
笑いが、妙な具合に断ち切れる。
しーん……周囲が静まり返った。


「ハナシは聞きました」
急に普通の声を取り戻した乱菊が、バネ仕掛けの人形のようにソファーの上に起き上がった。
その額には、さきほどの文鎮が直撃した、赤く丸い跡がついている。
「自殺する人間を止めるなんて、死神がやっちゃダメでしょ。
中途半端に助けようとして、突き飛ばされて逆に落ちて、しかも惚れられるなんて……プッははは! ウケる!!」
日番谷が机の上で、更に投げるものを探している。

「とにかく!」
儂は、どつき漫才を見に来たわけじゃない。
「儂がお主に頼みたいのはひとつじゃ。義骸で現世へ来て、その少女の話を聞いてやるだけじゃ。簡単じゃろ」

「ぎ……義骸」
一番引っかかるのはそこなのか? と突っ込みたくなるような文句をこぼし、日番谷はしばし考え込んだ。
当然来るだろうと思われた、面倒くさいだの関係ないだの、そんなグチは出なかった。
というよりも、別のことを考え込んでいるように見える。

「……で?」
「『で』てなんじゃ。短すぎて分からんぞ」
「だから。それに何の意味があるんだ。百歩譲って、俺が人間に化けて現世に行ったとする。
一億歩譲って、甘い言葉のひとつやふたつかけてやったとする。で? それでどーすんだ」
一億歩も譲らねば、甘い言葉ひとつ吐けんのか、コイツは。

「甘い言葉なんて吐けるんですか、隊長?」
「黙れ松本。とにかく俺はやらねえぞ。そんな無意味なこと」
不機嫌さを露にそれだけ言い放つと、また書類に没頭しだす。


「ダメですよ夜一サン。隊長、絶対義骸に入ったりなんかしませんよ」
儂の耳元に、乱菊が耳打ちする。
「義骸、花粉アレルギーなんです。こないだ、それはもうヒドイ目に……だからこんなに嫌がるんです。全くもう子供っぽ……」
バーン! 返事の変わりに、机が叩かれた。

「寝た切りのてめーに、言われたくねぇ!」
「寝た切り……」
固まった乱菊を尻目に、立ち上がった日番谷が儂と向かい合った。


「やる気はないか」
まぁ、そう返すだろうとは思ってはいたがな。
日番谷は、儂の前に指を二本突きつけた。
「ひとつ。それは死神の仕事じゃねぇ。ふたつ。そんなことは不可能だ。
自殺を止めたいなら、柱にでも縛っとけ。それが一番確実だ」

「まぁのぅ」
儂は一歩下がると、頭を掻いた。
確かに、予想していた反応ではある。


儂も心中では、日番谷の意見に賛成じゃ。
誰かに生きる力をもらったとか、救われたとか。
そんな物語はほとんどの場合、幻想じゃ。
そんなフワフワしたものに、人は救われたりはせぬ。
自分を救えるのは、結局のところ自分だけなのだから。

ましてや、「死神」という職業はどう贔屓(ひいき)目に見ても、こういうことに向いているとは言えぬ。
自殺を一度止めてもらえただけで、運がよかったと思うべきなのかも知れぬ。


「それでも。お主に惚れたのは、死にたくないという本心の現われなのかもしれぬな」
必死で探していたという、その少女。
ワラをも掴む思いだったのかも知れぬ。

「酔狂が過ぎるんじゃねーか? たかがガキ一人に、何でそんなにこだわる」
日番谷が肩をすくめた。


「たかがガキ一人、のぅ」
儂は、日番谷の大きな瞳に、鋭い視線を投げ込む。
「本心か?」
ピク、とその目の端が、不快そうに反応する。

「酔狂なのは、一護の妹じゃよ。黒崎夏梨、か」
「……」
返ってきたのは、ため息。
ガシガシ、と頭を掻くと、椅子にドスッと腰を戻した。
「あらー、一護の妹の名前じゃないですか。元気なんですか?」
その場の空気に頓着することなく、乱菊が儂のほうに身を乗り出す。
「ふーむ。あまり元気ではなかったのう」
ちらり、と日番谷を横目で見やりながら、儂は応える。
まぁ、嘘じゃない。
めずらしいくらい萎れておったからな。

「ですって。いいんですかぁ? 隊長」
「だから。夏梨だろうがなんだろうが、俺は人間とこれ以上接点持つ気ねぇ」
「夏梨、ねぇ」
それを聞いた乱菊が、イタズラっぽく笑う。
「隊長が現世の人間を苗字じゃなくて名前で呼ぶの、初めて聞きましたよ?」
「……うっせえよ」
日番谷は噛みつくように言い捨てると、くるりと椅子を回してしまった。
後ろを向かれてしまうと、背もたれに隠されて日番谷は見えなくなってしまう。

「まぁよい。儂は浦原との約束は果たしたぞ。動こうが動くまいが、あとはおぬしの自由じゃ」
儂はニヤリと笑うと、日番谷に背を向けた。