誠子


深夜。
私は、人っ子一人いない道を、ひとり彷徨っていた。
こんなに歩いてるのに、どこにもたどり着けない。
どこに行こうとしているのかも判らない。
死に場所を、探しているのかもしれない。
―― 「……辻村、さん」
私が悩みをぶつけた後、真面目な顔で私を見返した、黒崎さんの瞳を思い出していた。

実は、ずっと前から、黒崎さんのことは知っていた。
憧れていたんだ。
誰も苛めなくて、苛められもしなくて、それでも皆とうまくやっていけてるあの子に。
あんなふうになりたいって、ずっと思ってた。
だから、声をかけられた時には、なんで私なんかって思ったけど、嬉しかったんだ。

取り留めのない私の話を、黒崎さんは黙って聞いてくれた。
こんな話聞かされて退屈じゃないの? って黒崎さんを伺うたび、真摯な黒い瞳とぶつかった。
大丈夫だよ、て言われてる気がして。


話してると不思議なくらい、自分の今の状況が客観的にわかった。
半年前のある日、桐原さん……昨日あたしのゲタ箱に悪口を書きつけた子が、唐突に冷たくなったこと。
そこには、何の前兆もなかったこと。
一人、また一人と冷たくなって、声をかけづらくなるうちに、ついにクラスの誰もが私を無視するようになったこと。
その間、わずか2週間もなかったと思う。私にとっては、理由もわからない災害みたいだった。

「私、何がいけなかったのかな……ダメなところがあるなら、直すし。誰かに嫌な思いさせたなら、謝りたいのに」
しゃべり疲れた私は、最後にぽつん、とそれだけつぶやいて、黙った。

「……うーん」
しばらく黒崎さんは黙ってたけど、そのうち頭をかいた。
「正直言って、全然分かんないよ。辻村さんをイジメる奴の理由なんて……案外、理由なんてないんじゃないの?」
「でも! それだったら、なんで私が……」
理由があるから、直せるんじゃない。
理由がないなんて言われたら、余計救いがない。


「……黒崎さんは、いいなぁ。私みたいな悩み、持ったことないんだろうな」
独り言みたいにつぶやいた私の言葉に、黒崎さんはしばらく黙ったままだった。
「あるよ」
不意に言い放たれた言葉に、私は我に返った。
「お母さんが、死んじゃったときに、ね」
「……え?」
私は、とっさに何の反応も返せなかった。
お母さんを亡くした子、なんて私の周りには一人もいなかったから。

「で、でも。黒崎さん家、お医者さんでしょ? それなのに……」
そこまで言いかけて、私はドキッとして言葉を切った。
それは、言ってはいけない一言だったって思ったから。
「それでも」
黒崎さんは淡々と続けた。
「死んだんだ。あたしがまだほんとに子供だったころ。雨の日の夜に」

悲しそうでもなく、怒るわけでもなく。
その声は、水底に重く沈んだ石を思い出させた。
そこに沈むまで、きっといろんな思いがあったんだろうって、思わせるみたいな。

「雨の日の夜」死ぬっていうことが、マトモな死に方ではないらしいことは、言葉の雰囲気で私にもわかった。
そしてそれ以上、決して聞いちゃいけないことなんだってことも。


「みんな当たり前みたいにお母さんがいるのに、あたしにはいなくて。悲しかった。
あたしが悪い子だから、神様がお母さんを取り上げちゃったんだって、思った時もあったよ」
「そんなことないよ!」
私の言葉に、黒崎さんは少しだけ、口元に微笑を浮かべて……そして、頷いた。
それは、妙に大人びて見えた。

「誰のせいでも、ないんだよなぁ」
ぽん、と空に放り投げるように。黒崎さんは夕焼け空を見上げて、そう言った。
「それでも、なんで自分だけがって思うようなコトって、勝手に降って来るんだよな。
腹も立つし、悲しいけど。それでも、その時どうするかだけは、自分で決められるんだ。
受け入れるか、逃げるか、戦うか。それなら、あたしは――」

最後に、黒崎さんが言った言葉を、私は小さく口ずさんでみる。
「あたしは、戦いたい」
私は、夜空に浮かぶ満月を見上げて、足を止めた。
私はいつだって結局、何で自分だけって思うようなことがあれば、自分のせいだって思ってきた。
だから、何か起こっても我慢して、押し殺して、ただ嵐が過ぎるのをじっと待っていた。
いつか誰かが私の誠意に気づいて、受け入れてくれるのを夢見て。
それ以外の選択肢なんて……「戦う」なんて、考えたことも、なかった。

「黒崎さん、強いね……」
黒崎さんなら、絶対にできるだろう。
でも、私には……絶対に、できないんだ。



その時だった。
ひゅぅ、と季節に似合わない冷たい風が、私の頬を吹きぬけていった。
「……?」
思わず、頬に手をやる。

「……見つけた」
びくっ、と顔を上げた。
その声は、ありえないくらいに高いところから聞こえてきたから。

見上げた先で、銀色の逆立った髪が、月光に輝いた。
「……あ」
私は、頬に重ねていた手を、口元へ持っていっていた。


満月を背景にして、その男の子は、ビルよりも高いところに「浮かんでいた」。
月光の影になって顔はわからないけど、上下とも黒い着物をまとってた。
そして、右肩からは、刀の鞘みたいなものが突き出していた。

「浮いて……る」
ふわり、とこっちに舞い降りてきたその姿に、私の体はガタガタと震えだした。
自殺しようとしているときも、ここまで震えはしなかった。
何かのトリックじゃない。一目でわかるほど、その動きは滑らかだったから。

「お前だったか? 俺に用があるのは」

翡翠色の、綺麗な色の瞳が、私の前でひた、と止まる。
それと同時に、私はへたり、と地面に座り込んだ。
「き、みは……」
体だけじゃない、声も自分じゃないみたいに震えてる。
夜風にあおられて、黒い裾が銀色の髪が、揺れる。
でもまったく微動だにしない翡翠の瞳が、私の全身を捉えた。
私は、動けない。


間違いない。
それは、私がとっさに、突き落とした男の子。
そして、私が生まれて初めて、心を奪われた男の子。

「俺か? 俺は……」
私から50センチくらいしか離れていない場所まで降りる。
そのつま先が、アスファルトの地面につくかつかないかで、止まる。
至近距離から見つめられて、私の胸がドキリと高鳴る。

「死神だよ」

「しにが、み……?」
「この世の者じゃないんだ」
射すくめられたみたいに、声がでてこない。
その黒い着物のまわりは、よく見るとぼんやりした燐光を放っていた。
私を見つめる瞳に、吸い込まれそう……
私はこんなに碧くて、こんなに底の見えない色を生まれて初めて見た。


「……死にたいか?」
不意に問いかけられ、私は我に返った。
「俺は死神だ。応えられるのは、その願いだけだ」

「……。死にたい、です……」

気づけば、かすれた声で、そう返していた。
連れて行って欲しい。ここではない、どこかへ。
私の返事に、その男の子……死神、は。
「わかった」
感情をいっさい表さない瞳で、頷く。


「あと、24時間だ」
「え……?」
私は、夢を見ているようにぼんやりしながら、つぶやく。
「24時間やる。この世に、さよならを告げる時間だ。
ちょうど1日たったら、ここへ戻って来い。そしたら、連れて行ってやるよ」

あの世へ。
私の耳元でささやかれる言葉が、甘い誘惑のように通り過ぎてゆく。


ぴたり、と。
人差し指が、私の顔の前に、宣託でも告げるように、突きつけられた。

「お前は、あと24時間で、死ぬ」

その向こうにある翡翠に、もう逆らえない。
私はひとつ、コクンと頷いた。