誠子
はぁ、はぁ、と息が切れる。
こんなに走ったのは、久しぶり。
誰も追いかけてきてないのに気づいて、私は土手に降りる。
バン、と背中を芝生に打ちつけて空を見やると、思いがけず優しい青が広がっていた。
「ものすごいこと、しちゃったな……」
先生の目の前で、他の生徒を殴るなんて。
死神さんが言ってた「さよならする」っていうのは、こういう意味じゃなかったはずなのに。
いきなり気が狂ったみたいにわめき散らして、殴りかかるなんて、周りはどう思っただろう。
取り返しのつかないことをした、って思いながらも、心はスッキリしてた。
どれくらい、経っただろう。
汗も引いて、背中がひんやりと冷たくなってきたころ。
不意に、私の横に誰かが腰を下ろした。
「……苑子」
それは、私の隣の席のクラスメート。半年前までの、私の友達。
苑子は、土手に三角座りして、緊張した面持ちで、流れる川面を見ていた。
「教室、どうなってるの?」
沈黙に耐えられなくなって、私は思い切って尋ねた。
「ホームルームよ」
なんだ。私があんな騒動起こしたのに、何も変わってないんだ。
「誠子へのイジメについて。先生が皆を立たせて、一人ひとり名前を呼んで怒ったの」
「え?」
私は思わず、上半身を起こす。
「先生、知ってたの?」
「当たり前じゃない」
苑子。ひさしぶりに視線を合わせた彼女の顔は、悲しそうだった。
「誰だって見てれば分かるよ。どんなに誠子が辛い目にあってたか。
何とかしたい、何とかしなきゃって毎日毎日思ってたんだよ」
見て……くれてたんだ。
私の肩から、力が抜ける。
「あたし、何もできなくて。弱くてごめんね」
びっくりして顔を上げると、苑子の何だか泣き出しそうな表情が目に入って、慌てて首を振る。
そんな言葉を口にされるとは夢にも思わなかった。川の音以外は、しばらく何も聞こえない。
「……どうして?」
私は、ごくり、と一度唾をのみこんでから、再び口を開いた。
「どうして、みんな私をイジメたの?」
聞くのが、怖いと思ってた。それを聞くくらいなら、死んだほうがマシだって。
でも、どんなひどいこと言われても、落ち込む時間は今日の夜中まで。
それでも、私の心臓は高く、強く高鳴ってた。
―― あぁ。生きてる……
でも。
苑子の言葉は、私が想像したどんな言葉とも、違っていた。
「誠子、かわいいから」
「……え? 嘘……」
それは、本当に夢の夢にも思っていない言葉。
苑子は、信じていない私の表情を見ると、ランドセルからケータイを取り出した。
「見て、この写真」
見せられた画面を、私は覗き込む。
そこには、苑子の隣で明るく笑う、半年前の私が写っていた。
前髪は今より5センチは短くて、表情にもぜんぜん影なんてない。
「この写真を見てね。隣のクラスの男の子が、この写真欲しいって、何度も言ってきたの。
でもね、その男の子、桐原さんが好きな子だったんだよ。桐原さんプライド高いし、悔しかったんじゃないかな。
それがきっかけで、どんどんエスカレートして……」
「そ、んな……そんなこと?」
そんなこと? とっさに、次の言葉が接げなかった。
「ご、ごめん。ごめんね!?」
そんなどうでもいいことで苛めたのか。
私が責めてると思ったんだろう、苑子は何度も私に頭を下げた。
でも、私は正直、怒るどころじゃなかったんだ。
本当に、「そんなこと」なの?
私が、何かとんでもない失敗をしたからじゃ、ないの?
「本当にごめんね。私も、誠子に声かけてあげられなくて」
「……」
「誠子……」
私を見上げる苑子の目に、涙がたまっている。
それを見て、ふと私は、悲しい気持ちが胸にこみ上げてくるのを感じた。
ごめんね。
自分がいなくなることに対して。
初めて、誰かに謝りたいと思った。
「明日から、もしも他の子が誠子を無視しても、私は一緒にいるからね」
「でも……!」
それは、本当に勇気がいること。
自分も一緒に苛めてください、って言ってるようなものなのに。
―― 明日なんてないの。
そう言おうとしたけど、言えるはずもなかった。
言葉を失う私の前で、苑子は笑った。
半年前のように。
「誠子を見てて、私も勇気ださなきゃって思ったの。あの時かっこよかったよ、誠子」
少しずつ、頭が混乱してゆく。何がダメで、何が良くて。何がかっこよくて、何がみっともないのか。
今まで当たり前だと思っていたことが、壊れてゆく。
「ただいま」
家にたどり着くと、玄関にローファーを脱ぎ捨てる。廊下に差し込んだ長い影に、私は顔を上げた。
「お母さん……」
久しぶりにまともに見るお母さんの顔は、まるで能面みたいに表情がなかった。
「学校から電話来たわよ。桐原さんっていうクラスメートを……殴ったって、本当?」
背中がさぁっ、と冷たくなる。こんなに早く家にまで伝わるなんて、考えてなかったから。
「どうしてなの! あんたはそんなことしない、いい子だと思ってたのに……!」
深く俯いた私の手を、お母さんが手荒く取った。
「今すぐお母さんと学校に行くのよ! 桐原さんに謝るの」
「……嫌」
「誠子っ!」
ほっといて、とか。お母さんに私の気持ちなんて分かるはずないでしょ、とか。
はねつける言葉が頭に浮かんでは、消えた。私は、鞄の中に手を突っ込む。
そして、小さな紙切れをお母さんに向って突き出した。
「それ、私のロッカーの名札。それが、桐原さんの字」
キモい、ブサイク、学校来んな。
そう書かれた名札を、お母さんは凝視した。私は、ぎゅっと拳を握りしめる。
「私、ここまで言われなきゃいけないほどダメな人間じゃないよね? だから、抵抗したの」
絶対にムリだと思っていたのに。やってみたら、それは本当に拍子抜けするくらいに簡単だった。
私は、戦ったんだ。黒崎さんが言ったように。
私が今晩死んだとして、どんな形で発見されるのかは分からない。
でも、「クラスメートに苛められて辛かったから自殺した」なんて、死んだ後になって言われたくなかったんだ。
私が死んだ後に誰かを怨むんじゃ、あまりにお父さんやお母さんがかわいそうだから。
「……誠子」
手が伸ばされ、私は思わず身をすくめた。また引っ張られるか、叩かれるかと思った。
でも、予想していた衝撃の代わりに体を覆ったのは、久しく感じたことのないぬくもりだった。
「誠子はダメな子なんかじゃないよ。謝る必要なんてないから、ここにいなさい。
お母さんは、何があっても誠子の味方だからね」
ああ、と私は息をついた。
なんだかこんな風に深く息をつくのは、随分久しぶりに思えた。
ためらってから、お母さんの背中に手をまわす。
こんなにひとがあたたかいなんて。人の冷たさを知るまで、分からなかったよ。
私はお母さんに抱きつき……本当に久しぶりに、声の限りに泣いた。
***
小さな金属の音を響かせ、私はハサミを机の上に置いた。
机に散った髪を集め、ゴミ箱に捨てる。半年振りに、前髪を切った。
今は、眉毛に少しかかるくらいにしている。毛羽立っていた髪も、滑らかな手触りになるまで櫛で梳かした。
「……行こう」
鏡の中の私につぶやくと、椅子を引いて立ち上がる。足音をひそめて階段から下へ降りた。
明かりがついている台所からそっと中を覗き込むと、テーブルに突っ伏したお母さんの背中が見えた。
規則正しく肩が動いてるから、今日も深夜残業のお父さんを待っている間に、寝ちゃったんだろう。
忍び足で近づいて見下ろして、まじまじとその顔を見下ろす。
そして、こんなに皺があったんだって驚いた。
せり上げてきた切なさをごまかすように、私は隣の椅子の背からカーディガンを取ると、ゆっくりとそれを背中に着せ掛ける。
「大好きだよ、お母さん。……ありがとう」
心は、もう決まっている。今更迷うことなんてない。私はそのまま、夜の街へと滑り出した。
時刻は深夜、十一時。命は、残り一時間。