夏梨


ふんふーん。
あたしは湯船に浸かって、鼻歌を歌っていた。

たっぷりの熱い湯に肩まで浸かって、足だけバスタブの上に乗っけて湯から出している。
入り方がオヤジ臭いって誰かに言われたことがあるけど、一日の終わりはやっぱり熱い風呂だろ。
鼻歌が、ついにサビまで達した時だった。


「夏梨! おーい夏梨。電話だぞ!」
「んー? こっち。風呂だよ!!」
一兄(イチニイ)の声に、あたしはハナウタを中断して声を上げる。

カラリ、と風呂の戸が少しだけ開けられて、そこからケータイが差し込まれた。
「ん? これ一兄のケータイじゃん」
「お前に代わってくれってよ」
誰が。そういう前に、一兄は戸を閉めて、出て行ってしまった。


妹の風呂に照れるなんて、兄としてどーよ。
そう思いながら、ケータイの接受面を見ると、そこには「ゲタ男」とだけ記されていた。

「もしもし。ゲタ男か?」
「ゲタ男とはひどいですねー、夏梨サン」
「……なんだ、あんたか」
聞こえてきたのは間違いなく浦原さんの声。
てゆーか一兄、ちゃんと名前いれとけよ。

「日番谷サン、今現世に来てますよ」
「ホントか!?」
あたしは、聞くが早いか、風呂場の戸をあけて、バン! と脱衣場に飛び出した。
「どこだよ?」
脱いだばかりのジーンズに足を突っ込み、あたしはケータイに向かって怒鳴る。


「お、おい夏梨、どこ行くんだよ!」
適当に服を着て、髪から水を滴らせたまま風呂場から出てきたあたしを見て、一兄が驚いて振り返る。
「怪しいとこじゃねーよ。浦原商店!」
パシッ、とケータイを一兄に渡して、あたしは足早にダイニングを通り過ぎる。

「浦原商店って、怪しすぎるだろ!」
「……。すぐ戻るって!」
浦原商店は出したのはマズかったか。
あたしは後を追ってこようとした一兄を振り切り、外へと飛び出した。



えーと。空座中の近くだったよな……
浦原さんの言葉を思い出しながら、息を切らせて走り抜ける。

―― 「なーんか、妙な具合なんですけどね」
浦原さんは、電話の中で本当に不思議そうに言ってた。
―― 「義骸じゃなく、わざわざ死神姿でのご降臨のようです。ただ、戦闘の様子はまるでなし、高い霊圧も付近にはない。
同じ場所にじっとしているようだから、今すぐ向かえば間に合うかもしれませんよ」
誰かを待っているんですかねぇ。
浦原さんが最後に言っていた言葉が、耳に残っていた。


「何、やってんだ。冬獅郎のヤツ……」
空座中学の校門を曲がった時だった。
夢にも考えていなかった声に、呼び止められたのは。
「黒崎さん?」
辻村さん?
振り返ったのと、街路灯に照らされた辻村さんを見つけたのは同時だった。


―― 雰囲気違う。なんか……
それが、前髪を切って、こざっぱりした格好をしているからとすぐ気づく。
それだけじゃなく、目の前の辻村さんは、何か憑き物が落ちたみたいにスッキリして見えた。
「なんで、こんな処に……?」
あたし達は同時に相手に呼びかけた。
そして、お互いに気まずく黙り込む。
あたしには言いづらい事情があるからだけど、辻村さんも負けず劣らず事情がありそうだった。

辻村さんは少し困ったみたいに、首をかしげた。
何度か言おうとして口を開いて、そしてまた閉じる。
「信じてくれないと思うけど……黒崎さんには、言うね」
その瞬間、いろんな「理由」をあたしは想像したけど。

「死神に、会いに来たの」

あたしと同じ理由を口にされるとだけは、夢にも思ってなかった。



「……でね。もうすぐ、私を連れに来る死神さんとの待ち合わせの時間なの」
辻村さんが言葉を止めても、あたしはしばらく微動だに出来ずにいた。
それを見て、あたしが疑ってると思ったのか、辻村さんは焦ったように向き直る。
「信じるわけないよね? 死神なんて……でも、あたしは確かに」
「いい」
あたしは、辻村さんの言葉を途中で遮った。
低い声にビックリしたのか、辻村さんが言葉をとめて、あたしを見返してくる。

信じねぇのは、死神がいることなんかじゃねえ。
あたしが信じられねぇのは、信じたくないのは、そんなことじゃねえ。

「その、辻村さんを連れて行くって言ったやつ。本当に、銀髪で青い目で、黒づくめの着物を着たやつだったのか?」
自分の声の温度が、どんどん冷えてゆく。
「ええ」
辻村さんは、確かに一度、はっきりと頷いた。

間違いない。そいつは、冬獅郎だ。
でも……なんで?
なんでアイツが、辻村さんを連れにくるんだ?

「あたしにも、知り合いいるって、言ったよな。銀髪で青い目の男の子」
「え? うん……」
「あたしも言い忘れてたことがある。そいつは……『死神』なんだ」
辻村さんが、はじかれたようにあたしを見上げる。
「それじゃぁ……」
「見損なったぜ」
あたしは吐き捨てると、夜空を見上げた。


確かにあたしは、辻村さんに会ってくれって頼むつもりで、冬獅郎を探してた。
でも、こんな結末なんて夢にも望んでなかった。

確かに辻村さんは悩み苦しんでいた。でも、長い前髪の向こうに見えたあの目は諦めてなかったし、今でもそうだ。
大体、死ぬと決めた奴なら、あんな風に悩んだりはしない。
悩んでいたのは、それを打ち明けてくれたのは、心の底では生きたいと願っていたからだろ。

あたしが冬獅郎と辻村さんを合わせたかったのは、
あいつなら絶対に辻村さんの願いを見過ごすことはないと信じていたから。
難しいことだけど、生きる方向へと導いてくれると疑わなかったからだ。


「……許せねえ」
「え?」
あたしの氷点下にまで下がった声に、辻村さんが顔を傾ける。
「出て来い冬獅郎!! いるんだろっ!」
びくっ、とする辻村さんから視線を逸らし、あたしは上空を見て怒鳴った。

「……お前には、会わねぇつもりだったのにな」
返してきたのは、予想してた……けど、今は聞きたくなかった声。
声のほうを見ると、電信柱の上に佇んだ、人影が目に入った。
電信柱の天辺には、つま先がかすかに触れている程度。半ば宙に浮いている。
月光に照らされた銀髪の死神は、確かにこの世のものには見えなかった。

「いいから! 言いたいことがある、降りて来い!」
あたしが怒鳴ると、冬獅郎は少しだけ、肩をすくめたみたいだった。
全く持って、ムカつくほど、いつもと態度がかわらねえ。
あたしが、これほど激怒してるのは分かっているはずなのに。

 

葉が舞い落ちるような滑らかな動きで、冬獅郎が地面に飛び降りる。
あたしはその姿を確認するなり、衝動的な怒りに任せて駆け寄った。

黒崎さん!
辻村さんの悲鳴が聞こえる。
それを耳の端に聞きながら……あたしは拳を振り上げた。

バシッ!!

鈍い音を立て、あたしの拳が冬獅郎の頬に食い込んだ。


「ふざけんな! お前、一体何やってんだ!」
よろめいた冬獅郎の胸倉を掴み、あたしは声の限りに怒鳴った。
「黒崎さん、やめて!!」
あたしの腕に、辻村さんがしがみつく。
「私が頼んだの。死にたいって。私が……!」
「聞いちゃいけない頼みってのもあるだろ! お前、殺されるんだぞ! 二度と戻れないんだぞ! 分かってんのか!」
「なんで黒崎さんが、怒るの?」
「お前が死ねば、悲しむやつがいっぱいいるからだ!」


数秒の、空白があった。
辻村さんは、あたしの言葉に、痛みをこらえるように固まった。
「死神……さん」
辻村さんは、あたしに殴られた頬を押さえた、冬獅郎に向かって歩み寄った。
「ごめんなさいって、言いに来ました」
頭を、深く深く下げる。

「私、やっぱり……生きていたいです」

えっ?
その言葉に、あたしは我に返る。
怒りがふうっ、と覚めていく。

「あなたに、残された時間は24時間って言われて。最後だと思ってやりたいことを全部やって、気づいたの。
私はいつだって、周りが私にどうしてほしいのかってことばかり考えてた。
自分がどうしたいのかなんて、一度も考えたことがなかったんだって。
私はまだ、ちゃんと生きてない。だからまだ、死にたくない」

辻村さんの言葉が、心に染みてゆく。
昨日あたしが会った辻村さんは、自分を責めて苦しめて、見ていて切ないくらいだった。
辻村さんは、全然悪くないのに。
必要もないのに自分を苦しめるのは止めろって、言いたくなるくらいに。

今でも、その言い方は頼りない。
それでも、火にかけた水がポツ……と粟立った、ひとつめの泡のような。
そんな前兆を感じる。
やがて一粒の弱弱しい泡は、無数の力強い泡へと姿を変えるんだ。

「明日すぐ、幸せになるのはムリだと思う。でも、今日よりはちょっとだけ、いい日にできそうな気がするの」


「……」
あたしの手が、冬獅郎の襟首から離れた。
冬獅郎の顔を、至近距離でまじまじと見る。

こんなにかっこ悪い冬獅郎を、初めて見た。
あたしから目を逸らしたのを一目見て、そう思う。
着物の襟は、片方だけ肌蹴(はだけ)てるし、頬は赤く腫れてるし。
いっつもキッチリ襟を正して、人形みたいに澄ましてる奴と同一人物とは思えない。
……まぁ、完璧にあたしのせいなんだけど。


「しょうがねえな」
冬獅郎は、あたしに殴られた頬を拳で軽くぬぐうと、サラリとそう返した。
ふわり、と風が吹きぬける。
冬獅郎の体は、まるで綿みたいに軽やかに、風に乗って宙に浮き上がった。
上空五メートルくらいまで上がった時点で、胡坐をかいてあたし達を見下ろした。
月を背中にしているせいで、その表情は伺えない。
「その女が邪魔しそうだしな。諦めるしかないか」
「な……」

何を言ってるんデスカ、アナタハ。
開いた口がふさがらないってのは本当なんだ、とあたしは思った。
十番隊隊長。間違いなく、今いる中で最強の死神のひとり。
そんなヤツが、あたしのパンチひとつで逃げるなんて、あるはずねーだろ!

「じゃな」
あたしが二の句を継げずにいる間に、その姿が、少しずつ闇に透けて、薄くなってゆく。


「待って!」
その時、辻村さんが一歩、つんのめるように前に出た。
「何だ」
やっぱり、律儀なヤツ。
半ば風景の中に溶けながらも、こちらを見下ろした冬獅郎の視線を感じた。

「伝えたいことがあるの」
その震えてるくせに、決然とした声。
辻村さんの次の言葉を予測できた途端、あたしはなぜか……ドキリとした。
ぎゅっ、と眦を決して、辻村さんは冬獅郎を見上げた。

「私、貴方のこと好きです」

冬獅郎が返したのは、静かなる沈黙。
あたしは関係ないはずなのに、ドキドキと胸が高鳴ってゆく。
張り詰めた糸が、二人の間には存在しているみたいだった。

「悪ぃな。俺には応えられない」

沈黙を破ったのは、落ち着いた冬獅郎の声だった。
あたしは思わず、目を逸らした。
絶対に相容れないふたつの生き物が、真っ向からぶつかってすれ違うのを見たから。


その姿が、完全に消えようとしたとき。
「もう会えないの?」
悲痛な辻村さんの声が響く。
でも……そのときには、冬獅郎の姿は完全に消えていた。
しゅん、と辻村さんが、鼻をすすり上げる音が、静まり返った空間に響いた。

何か言ってやりたい、でもなにも思いつかない。
そう思ったとき。闇から、声が返ってきた。

「80年くらい経って、お前の天寿が尽きたら。その時はまた、俺が迎えに来てやるよ」


「……かっこいいぞ、バカヤロー」
あたしの最後の言葉は、きっと冬獅郎には届かなかったと思う。
それきり、何の反応も、返ってこなかったから。

人間と、死神。
その間には、絶対に超えられない境界線が引かれている。
それを理由にしなかったのは、優しさなのか、冷たさなのか判らないんだ。
あたしには、まだ。
でも、アンタには……

あたしは前に立つ辻村さんを見返す。
アンタにはきっと、伝わったんだね。

くしゅん、と辻村さんは鼻を鳴らすと、指先で涙をぬぐった。
透明な水滴が、月光でキラリと輝いた。


そっか。
「辻」何とかって名前の、モテる女の子がいるって、本当だったんだ。
あたしはその横顔を見て、場違いなことを思う。

「あと80年、か。がんばらなきゃ」

そう言って、くるりと冬獅郎のいた所に背を向けた辻村さんの笑顔は、
ハッとするくらい、キレイに見えたから。