その事件は、なんの変哲もない朝から始まった。
チュンチュン・・・賑やかに鳴き交わしながら、雀が桜の枝を揺らし、飛び立った。
つい数週間前には、そのピンク色の花弁で死神たちを楽しませた桜も、今は透き通るような緑に、その姿を変えた。
春の朝の、柔らかな風のもとで、まどろむように葉が揺れている。

「ふぁぁ・・・」
その葉を見ながら、一人の死神が、両手をうーんと上に伸ばして、派手にアクビをしていた。
給湯室の窓を開け、外のさわやかな空気に、ちょっと目を細める。

ここは、十番隊隊舎の中でも、執務室に最も近い給湯室である。
ガスコンロにかけられたヤカンが、しゅんしゅんと湯気を噴いている。
「ふんふーん・・・」
鼻歌を歌いながら、ヤカンには目もくれず、傍に置かれた鏡を覗き込んだ。

年のころ、15・6歳に見える。
そばかすが頬に散り、ちょっとばかり鼻が上を向いているが、陽気な彼女の気質らしく、常に微笑んだような口元は中々に愛らしい。
死神にしては珍しい、明るめの茶色の瞳、そして栗色のストレートの髪が、自慢だった。

死覇装の懐から取り出したルージュを唇に引くと、にこーっと微笑んでみせる。
湯を沸かしてるどころじゃない。
ここは、ひそかに女性死神たちの「働きたい職場」で、常に5本の指に入る場所なのだ。
湯が沸いたところで、お茶葉の入った急須に湯を注ぎ、ぴったり3分待って、湯のみに茶を注ぐ。
我らが隊長殿は、薄すぎも濃すぎもしない、絶妙なタイミングで入れられた茶がお好みなのだ。

「茶、よし! 甘納豆、よし!!」
誰もいない給湯室で、指差し点検。
最後に、鏡の中を覗き込む。
「あたし、よし!!」
茶がなみなみと注がれた湯のみが2つ。そして、甘納豆を小皿にひと盛り。
これで、今日もあの隊長に会える。
そう思えば、自然と隊首室に向かう足取りも弾むというものだ。

 

「おっはよーございます、日番谷隊長!!」
バーン、と隊首室の戸を開け放ち、大またで室内に踏み込んだ・・・途端。
「尊(みこと)、あんた。言ってんでしょ? ノックくらいしなさい」
蓮っ葉な物言いが、上から飛んできて。尊と呼ばれた少女は、首をすくめる。
「すいませーん、松本副隊長」
頭を下げながら見ると、窓際に佇む、すらりとした影が目に入った。
―― 副隊長が、立ってる・・・
長椅子にいつも寝そべっているか、いいとこ座っているこの副隊長の立ち姿は、新鮮に見えた。

「・・・て、あれ? 日番谷隊長は??」
尊は、茶と甘納豆を載せた盆を持ったまま、きょろきょろと隊首室内を見回した。
「まだ来てないわよ」
「なーんだ!!」
途端に、気の抜けた声を鼻から漏らして、尊は盆を隊首席の上に置いた。
「髪のセットも、お化粧も完璧だったのに! くずれちゃう」
「あ・ん・た。何しに働いてんの?」
「玉の輿」
尊は何のためらいも衒いもなく、即座に答える。
さすがの乱菊が絶句するほどの、素早さで。

日番谷冬獅郎。
彼女・・・いや、彼女達女性死神が、憧れてやまない男。
少女漫画から抜け出してきたような美形。エリート中のエリート。金持ち。隊長。
そして、苦労知らずと思いきや、流魂街出身で、ちょっと生意気盛りなところがたまらない!

「あぁ、彼を落せたら、死神なんておさらばよ!」
「声でてるわよ」
パン、と隊首席の上に置かれていた帳簿で、乱菊に頭をはたかれた。
「あのねえ。言っちゃなんだけど、隊長はそういう面では、見た目どおりのお子様なの。はっきり言って望みないわよ?」
「そんなことないです!だって今だって、一日何度も、お茶汲みで出入り許されてるの、あたしだけじゃないですか!」

―― 「ありがとう、城崎(きのさき)」
そう言って穏やかに見つめてくる、蒼碧の瞳・・・
「日番谷隊長、ラヴ!」
「聞け」
乱菊が、帳簿でゴリゴリと尊の頭をこすった。そして、帳簿を上に持ち上げる。
「きゃー、静電気でセットした髪が! ・・・イジメだわ、イジメ!!」
「城崎尊! アンタが茶汲みを命じられてるのはね・・・」
「命じられてるのは?」
「アンタが、十番隊末席だからよ!」

末席。
それが示すのは、200人を越える十番隊士の中で、尊が「ドベ」だということを示す。
「名前は立派なのに、こんなんじゃ、親もガッカリよねえ・・・」
同情するように、乱菊は尊を見下ろした。
尊の身長は150センチほど、乱菊は180センチに迫る長身のため、大人と子供のように見える。

―― 隊長も、何でこんなお転婆娘、隊首室に出入りさせてるのかしら・・・
ドベの称号はダテではない。
きっと何かの偶然で受かってしまったのだろう、とひと目で思わせる霊圧の低さ、頭の悪さ。
とても、危険な戦いなどに出せるシロモノではない。
それなら、茶でも汲ませておくのが賢い選択なのかもしれないが・・・

「頭も、腕も、胸も足りないわ・・・」
「む、むね・・・」
がっくりとうなだれる尊を見て、乱菊もまた、うなだれる。
その3つをけなされて、なぜ胸が一番ショックなのか。
「あんたねえ。隊長に認められたきゃ、まずちゃんと働きなさい」
こんなことを言うなんて、なんて不本意なんだろう。
でも、尊を見ていると、自分のコケが生えた上にカビまで生えた「勤労意欲」が、ゴトリと動きそうになるのだ。

に、しても。
その日番谷は、どこに行ってしまったのか。
日番谷が隊首室に現れるのは、業務時間が始まる9時よりは、いつも30分は早い。
9時ギリギリで現れる乱菊が先になるなど、前代未聞の出来事だった。
「どうしたってのかしら」
盆から湯飲みを取り、口元に運びながら、ちらりと隊首机に目をやった。

ブーッッ!!
唐突に茶を噴出した乱菊を見て、慌てて尊が跳び下がる。
「ちょ! ちょっと松本副隊長!きたな・・・」
「それ! それ!!」
乱菊は、床にヒラリと落ちた一枚の紙を指さして、絶句した。
口元が「ヒエー」とでも言いたげな形のまま、固まっている。

―― こんな面白い・・・もとい、慌ててる副隊長、初めて見た。
その紙を何気なく拾い上げ・・・ピタリ、と尊の動きが止まった。
「ひえええ! 何! これ何!! ドッキリですか!!」
二人して、その紙を覗き込む。
その紙には、見覚えのある字で、こう書かれていた。

「探さないでください。  ―― 日番谷冬獅郎」