「へっ? 日番谷くんが、いなくなった、だぁ?」
京楽が、彼に似合わぬ頓狂な声とともに、自分の前に立つ少女を見下ろした。

「しっ! 京楽隊長、声が大きい!」
場所は真央霊術院。
死神見習いたちが学ぶ学校だが、ここに隣接する図書館には、現役の死神もよく訪れる。
遠くの本棚で本を見ていた七緒が、チラリとこちらに視線を投げるのが分かり、京楽も声を潜めた。

「でも、失踪とは限らないんじゃない? まだ」
そんな京楽に、尊はため息をつき、懐に仕舞っていた紙切れを見せた。
「『探さないでください』・・・」
それを読み上げた京楽が、カクン、と首を前に倒した。
「自己申告つきかい。失踪の線で決まり、だね」

「探さないでくださいって、そりゃ隊長いなくなったら探しますよ。
それだけじゃなくて隊長はあたしの、そりぃゃぁぁあ大切な・・・」
「だよねぇ。禁じられた隊長と部下の恋。素敵じいゃぁぁぁあないか・・・」
互いに思い浮かぶものがあるのか、あさっての方向に目を向ける京楽と尊。
それを、周囲の死神たちが、気味悪そうな顔で見ているのにも気づかない。

「こほん!」
七緒のわざとらしい咳払いに、ハッ、と二人は我に返った。

「で。なんの話だったっけ」
「ええ。松本副隊長から、足取りをこっそり追ってくれって言われて」
「そりゃ、厄介だね」
京楽と尊は、そろってため息をついた。

「あの。聞いたんですけど・・・昨日日番谷隊長、隊首会に遅刻したんですって? もしかしてそれがショックで」
「あぁ」
京楽は、ちょっとだけ視線を泳がせ、顎の無精ひげを捻った。
「まぁねえ。でも、そんな気にしていたとは思えないんだけどね」

 

それは、日番谷が失踪する前夜、夜9時に近い時間帯である。
一番隊隊首室には、微動だにしない山本総隊長を筆頭に、ずらりと隊長たちが並んでいた。
「それでは、解散! ・・・日番谷隊長は、残るように」
「・・・はい」
バラバラと解散する他の隊長たちが、山本総隊長に歩み寄る日番谷の姿を、チラリと見やる。

「ハッ!」
その中で、毒々しい笑声を放ったのは、十二番隊隊長、涅マユリだった。
「全く、隊首会を忘れて、一時間も遅刻するなんて尋常じゃないヨ。
特に、藍染の反乱後、この忙しいときにネ。隊長としての自覚に欠けるんじゃないかネ」
「・・・涅隊長」
それを、山本総隊長が視線で制する。
そして、自分の前に無言で立った、銀髪の少年を見下ろした。
「お主らしくもない。どうしたのじゃ」

山本総隊長が知る限り、日番谷が会議に遅れるなど、これまでに一度も記憶にない。
明晰な頭脳、一分の隙もない理論展開には総隊長自身、心中感服していたものだが。
「遅刻」などという間の抜けた失敗をするとは、思いにくいのだが・・・事実だから、仕方ない。
「いえ。特に理由はありません。申し訳ありません」
「いつもみたいに理路整然と、言い訳すればいいんじゃないのかネ」
隊首室を去ろうとしていた浮竹が、眉間に皺を寄せて振り返った。
なぜだか理由は分からないが、涅はスキさえあれば日番谷に噛みつく癖があるのだ。

「僕にまーかせて」
その浮竹の前にスッと手をやり、京楽は退出しかけた隊首室に足を戻した。
さらに、何か日番谷に向かって言い募っている涅に、大股で歩み寄る。
「言ってくれるねぇ、涅くん。研究に没頭して隊首会を欠席したの、今まで何度あった?」
「あぁ? 横から口をはさむんじゃないヨ」
涅の口調が剣呑にとがった。
横から口を出してるのは君だって同じじゃない、と京楽は心中思う。

「私は技術開発局も兼任している身なのだ。忙しいのだヨ」
「そう。そして、隊首会のことをどう言ってるか、聞いてるよ? この忙しいのに、隊首会なんて――」
出ていられるか、とつなげる前に、ごほん、と涅が咳払いをした。
「何を言っているのだね? 私は・・・」

「もうよい」
そのやり取りを遮ったのは、山本総隊長だった。
「今後は気をつけられよ、日番谷隊長」
「はい。・・・失礼します」
日番谷は、顔色ひとつ変えずに一礼すると、スッと3人に背中を向ける。
その背中を、京楽はゆったりとした足取りで追った。

「やっちゃったね」
一番隊の中庭に出たところで、待っていた浮竹が、日番谷を見ると微笑んだ。
藍染達三隊長が瀞霊廷を裏切り、虚圏へ姿を消して、早3ヶ月が経った。
初めの打撃からは立ち直ったが、隊長格の多忙さは、いまだに尋常ではない。
いまだ緊急体制が敷かれる中、隊首会に無断で遅刻するなど、処罰対象になってもおかしくはない場面だった。

「あぁ」
日番谷はうなずくと、かすかに肩をすくめて、足取りを緩めた。
その隣に、追いついた京楽が並ぶ。
日番谷の顔は、一見殊勝に、それなりに反省しているように見える。だが・・・
―― 嫌味が堪えるようなタイプじゃないね。
大方、涅が今何を言ったかなんて、ほとんど覚えていない、というより聞いてもいないだろう。


日番谷に悪口を言うのは、痩せた人間に太っていると言うのと同じだ。
本人は自分が太っているなんて夢にも思わないから、まるで堪えない。
それが意味するのは・・・絶対的な、自信。
不遜だとか、生意気だとかいう称号を抱いている理由だが、ここまでくると小気味よい。
だからこそ、涅も噛みつきがいがあるのだろうが。

はるか昔、そのマッド・サイエンティスト振りが災いし、「死神不適合者」として幽閉されていたという黒い噂を持つ涅。
彼が、埃ひとつ立たない神童、日番谷を実験体に狙っている、という噂は、灰色どころかクロに近いと京楽は思っている。
そして、日番谷自身、おそらくそれにとっくに気がついている。
隊長職を追い落とそうと、虎視眈々と狙っているのを知っていて、無視する理由はわからない。
返す刀を準備しているのか、それとも、更に予想だにしない一手を用意しているのか。
その答えは、誰にも杳として知れない。

隊長なんて、腹黒く強かな奴、更に言えば「嫌な奴」じゃなければやってられない。
それは、何百年も隊長の座についてきた自分が、一番よく知っている。
―― 今も、何を思ってるのかね、この天才児さんは。
そう思って京楽が日番谷を見上げたとき、日番谷と目があった。
相変わらずの無表情のまま、その唇が言葉をつむぐ。


「さっきは、ありがとう」
「へっ?」
思いもよらない言葉。
京楽は、おそらく相当意外そうな顔をしたのだろう。
日番谷は、一瞬ちょっと困った顔をした。
「こういうときは礼を言うものだと習った」
誰に。
そう聞こうとしたときには、日番谷はもう先へ行っていた。

「どう・・・いたしまして」
横に並んでそう言うと、日番谷はあどけない表情で、ふぁ、と小さくあくびを漏らしていた。
自分は、いまだ日番谷少年のことを、全然わかっちゃいないのかもしれない。

 

「お疲れ様です、隊長方!」
一番隊正面門の前に整然と立ち並んだ守衛たちが、3人の姿を見るなり敬礼した。
右に浮竹、左に京楽、中央に日番谷。
隊長格が3人も並ぶと、ただ何気なく歩み寄ってくるだけでも、壁が迫ってくるような圧迫感がある。
意識しなくとも、気づけば跪いているほどの。

「開門せよ!」
リーダー格の声に、すばやく立ち上がった守衛たちが、門を押し開けた。
「ご苦労」
浮竹がニコリと笑い、京楽が軽く手を上げ、日番谷はちらりと流し見た。
そして、門の外に足を踏み出した瞬間。

「きゃっ、日番谷隊長だわ!!」
その場の厳粛な空気に、黄色い・・・というよりピンク色の声が飛び込んだ。
―― あ?
3人は三様に、微妙な表情を作る。
「なんか、今声がしたかい?」
「気のせいじゃないスか」
日番谷が浮竹の言葉を流したとき。
「やーん、目が合っちゃった!」
壁のそばに隠れていた女性死神が、頬を赤らめて駆け去った。
「・・・今、目が合ったの誰だい?」
「俺じゃねーよ」
「僕かなぁ?」
浮竹の問いに、日番谷と京楽が同時に返した。

―― 何なんだ、いったい・・・
歩き続けながら、3人はまったく同じことを考えていた。
一ブロック進むごとに、あちこちから熱っぽい視線を感じる。
誰だか知らないが、女がささやき交わすような声も。
「前も、こんなことあったような気がするね」
ぽん、と浮竹が手のひらを打った。とたんに、日番谷は足を緩める。
「どうしたんだい? 日番谷隊長」
「俺は、ここで失礼する」
「えー? どうしたんだい。雨乾堂に誘うつもりだったのに」
「あぁ、またの機会にな」

日番谷が踵を返した時だった。
しゅん、とその眼前に、日番谷の知らない女死神が現れた。
「明後日、楽しみにしてますから!!」
そういうと、きゃっ、と照れたように笑い、またその場から瞬歩で姿を消す。

「・・・あぁ、こりゃ間違いないと思うね」
京楽が、ひとつ頷いた。そして浮竹と顔を見合わせる。
「『日番谷隊長の寝顔事件』!」
「やめろ・・・」
日番谷が、病人のような声を出して肩をとした。


「日番谷隊長の寝顔事件」。それは、約半年前の瀞霊廷通信上で勃発した事件(?)である。。
平たく言えば、その時の瀞霊廷通信の付録に、松本乱菊が隠し撮りした、日番谷の寝顔の写真がついていたのである。
いつもは上げている髪も下ろしたままの、それはもう無邪気な表情で。
それを見た瞬間、机に突っ伏したまま動かなくなるほど日番谷を打ちのめしたと言う。

立ち直った日番谷は、すぐさま回収命令を出したが、何においても輝かしい業績を残した彼にしてみれば、唯一の失策だっただろう。
なぜなら、女性死神たちは写真を奥深くしまいこみ、日番谷がいかに怒ろうが、それを返そうとはしなかったからである。
そして、その付録の存在は数日前から女性死神の中では噂になっており、今とまったく同じ光景が繰り広げられたのだった。

「寒気がする」
不意に日番谷がそう言うと、足を速めた。
「日番谷くん?」
「雛森のところに行ってくる。あいつなら何か知ってるかもしれねえ」
こういう時に頼りになるのは、雛森しかいない。
こんな夜更けに? とは聞かない。
日番谷と雛森は、幼いころを共に暮らした、家族のようなものだと聞いていた。
「それじゃ、失礼する」
「おやすみー」
浮竹と京楽は、夜道に消えていく日番谷の背中に向かって、声をかけた。
それが、この2人が失踪前の日番谷を見た最後になった。