「どういうことですか副隊長。あたし戻ってきたじゃないですか」
「・・・」
乱菊は、パリ、とせんべいを齧りながら、無言で尊を見返した。
長い足を長椅子に投げ出した、尊が見慣れた姿である。
「原因、分かったの?」
「分かったの? じゃないですよ。マジギレした日番谷隊長が、昨日副隊長のところに来たんじゃないんですか?」
足取りをたどって来い、と指示したのは乱菊だ。
それなのに辿った最後が乱菊本人では、不機嫌にもなるというものだ。
乱菊は、しばらくの間、遠くに目をやって考えていたが、不意に言った。
「あー。ひょっとして、袋とじ?」
「そう! それです!!」
「でもねえ、あんなの、失踪するほど大したことないわよ?」
大したことあるか、ないか。それは乱菊じゃなくて日番谷が決めることじゃないのか。
尊はぐっと拳を握り締める。
「袋とじって、何なんです! やっぱり日番谷隊長の写真ですか?」
怒った口調のまま、長椅子の前のテーブルに置かれたせんべいをバリバリつまみながら、尊が乱菊を見返した。
「ええ。写真よ」
こともなげに、乱菊は返した。
「その名も『キスの一秒前』」
「ぶはっ!!」
尊が、口に入れたせんべいを、盛大に噴き出した。
昨夜、夜10時ごろ。場所は、屋内にある十番隊修練場である。
「詰めが甘いっ!」
乱菊が振り下ろした木刀が、向かい合った隊士の肩口に決まった。
バシーン、と小気味よい音が響き、乱菊より一回りは大きいその体が、後ろに吹っ飛ばされた。
「次っ!!」
男らしくも、木刀を片手で肩に担ぐと、壁沿いに一列に並んだ隊士たちを、ぐるりとにらみつけた。
「一体どうしたんスか、副隊長・・・いっつもは修練場なんて来ないのに」
乱菊の視線を避けた隊士たちは、ぼそぼそと言葉を交し合った。
談話室で、就寝前の雑談を楽しんでいたところ、いきなり呼び出されたのだ。
士気があがらないのも、当然というものだろう。
「どうやら、さっき風呂場で、体重計に乗ったら、体重増えてたみたいですよ」
「まじか?」
「でも、無理もないような・・・」
隊士たちの記憶にある乱菊は、いつも何かを食っている。
昼には饅頭、団子、せんべい、そして日番谷の祖母の差し入れの甘納豆。
更に夜な夜なの深酒。彼女の酒に付き合い、酔いつぶされた隊士は数知れず。
この夢のようなスタイルを保ち続けていることのほうが、不思議なくらいだ。
「そこ、うるさい!」
会話を聞いたのか聞いていないのか、乱菊がビシ!と木刀の先を突きつけた。
「あたしのダイエット、付き合ってもらうからね!」
ワケの分からない乱菊の気迫に押され、隊士たちが言葉に詰まる。
隊士のほとんどは男だから、妙齢の美女と戦えて、心が弾まないわけではない。
だが、その高揚をはるかに上回るほど・・・松本乱菊は、強いのだ。
相手は、副隊長。逆立ちしたって、勝てる相手ではない。
「いいから次! 誰でもいいから出てきなさいよ!」
「じゃあ、俺が相手してもらおうか」
突然、その場に聞こえてきた声に、その場の空気がピシリと固まった。
「へ?」
乱菊が、木刀を担いだまま、廊下のほうを見やる。
引き戸をスラリと開けて現れたのは・・・彼らが隊長、日番谷冬獅郎だった。
「た、たたたた隊長?」
「木刀!」
動揺しまくる乱菊にかまわず、日番谷は手を差し出して怒鳴る。
「はい、こちらに!」
その手に、駆け寄ってきた隊士が、木刀を渡した。
「オッ、隊長と副隊長の一戦だ!!」
「他のヤツも呼んで来い!!」
日番谷が修練場にやってくるのは、それほど珍しいことではない。
失踪した隊長の作業も引き受け、残務処理も手がける日番谷が、一体どうやってそのような時間を捻出するのかは謎だ。
しかし、特に藍染反乱後、部下に力をつけてやりたいという思いからか、日番谷が直稽古をつける回数は、かなり増えた。
隊長にアピールするチャンス、とばかりに本気でかかってゆく隊士は数多い。
しかし日番谷に霊圧を開放させるどころか、撫でるような力しか出させていないのは事実。
だが・・・さすがの日番谷も、副隊長の乱菊が相手となると、軽く受け流すことはできないのではないか。
本気の隊長が見られる・・・! 隊士たちが興奮するのも、無理もなかった。
「やや止めましょうよ、子供はもう寝る時間ですよ?」
乱菊は木刀を持ったまま、素早く後ろに下がった。
隊長と一騎打ちなんて、冗談じゃない。
この乙女の柔肌に、傷なんてつこうものなら・・・
それに、今夜の日番谷の表情は、何かしらヤバイ。目が爛々と輝いている。
ダン、と日番谷が一歩踏み出した。
「成敗!」
成敗ってナンデスカ?
乱菊が聞くよりも前に、日番谷の体が、ふっとその場から掻き消えた。
「くっ!」
ほとんど山勘で、乱菊が振りかざした木刀と、瞬歩でその場に現れた日番谷の木刀が交錯する。
「ほぉ。受け止めるのか」
「受け止められる・・・ワケありません!!」
ヤバイ。刀を合わせた瞬間、直感的に乱菊は察した。
刀身を斜めにずらせ、日番谷の一撃を受け流した。
ドン!
途端に、強い衝撃が修練場の床に響き、乱菊は跳び下がった。
―― なに・・・
床が、まるで重たい何かが落ちてきたかのように弾け、裂け目から床下がのぞいた。
同時に、床下から冷たい空気が流れてきたが、この寒気は絶対、それだけが原因じゃない。
日番谷の木刀は、床には触れていなかったはず。なのに、どうして床が割れるのか。
「と、いうことは」
ピシッ・・・と乱菊の木刀にひびが入り、切っ先が床に落ちた。
「そうよね、そりゃそうなるわよね。直接触れたんだもの・・・」
エヘヘ、と乱菊は頭をかいて・・・さささっ、と後ろに下がった。
「オイ、もうこれで終わりとか言わないよな?」
「た、隊長がSだなんて知りませんでした!」
「だまれ。次の木刀取れ」
そこに横たわるのは沈黙と、圧倒的な力の差。
見守る隊士たちも静まり返り、固唾を飲んで見守っている。
お・・・おかしい。
乱菊は焦りながらも、考えていた。
いつもの日番谷なら、
「いやーん、もう止めてくださいよー。参りました!」
の一言でも言えば、
「しょうがねえな」
の一言と、ため息で流してくれそうなものなのに。
今日の日番谷は、そんな軽口を叩ける雰囲気ではない。
―― わー、歩いてきた! こっち歩いてきた!!
日番谷のこめかみに浮かんだ青筋を、その時はっきりと乱菊は見た。
―― まさか、アレが・・・
アレ。それは、乱菊が最近手に入れた、「秘密兵器」である。
予算を削られた女性死神協会の、起死回生の一手。
同じく瀞霊廷通信の予算削減に苦しむ、檜佐木と手を組んで、前評判を女性死神に回しまでしたのに。
―― アレが、隊長の耳に入ったの?
だとしたら、お怒りでもおかしくはない。
そっ、と懐に手をやる。何とかして、これを檜佐木のもとに届けなくては。
「こんなん当たったら、あたし怪我しちゃいますよ。仕事できなくなっちゃいますよ?」
「しごと・・・」
日番谷が、小首を傾げた。
「お前、前に仕事したのいつだ?」
酷い。でも、はっきり思い出せないのは事実だ。
「くだらねえ写真撮ってるから、腕が鈍るんだよ」
きた―――!
乱菊はゴクリとツバを飲む。
そうか。知ってるなら、こっちにも考えがある。
「言っときますけど。例の写真を撮ったのは、あたしじゃないですよ」
「あ?」
これは意外だったのか、日番谷は乱菊を見つめたまま、足を止めた。
かかった。
スゥ、と息を吸い込んで、乱菊は大声で言い放った。
「どこぞでキスなんかしてる隊長より、マシです!!」
「・・・は」
乱菊は、日番谷がこれほどに、間の抜けた顔をするのを初めて見た。
「ほら、ほら! 沈黙した! 否定しないじゃないですか!!」
一瞬の間をおいて、どよめく十番隊修練場。
百人以上集まった隊士の目が、日番谷ひとりに集中した。
「な・・・にを、くだらねーこと言ってんだ! ンなことしてねー! 証拠がどこにあンだ!」
言葉を忘れたかのように呆けていた日番谷が、急に復活した。
「あたし見ましたよ!頬をぽっと赤らめて、目も潤んじゃってる隊長の写真! これがキス1秒前じゃなくて、何だっていう−−」
バキッ、と。日番谷の手が、木刀の柄を握りつぶした。
「最早言葉は無用だ」
舌戦じゃ勝てないと分かっただけだろうに・・・
でも、動揺してる。
今の隊長なら、何とか逃げ切れるかもしれない。
乱菊はトドメを差してみる。
「どちらかって言うと、キスする側というより、される側の顔でしたね」
「死ね」
木刀の刀身を握り、日番谷が物騒な言葉を漏らした。
乱菊は、帯の後ろに差した「灰猫」を引き抜いた。
木刀相手に真剣はありえないが、この実力差だ、こうでもしないと勝ち目は無い。
ダン!と2組の足が、床を蹴る。
次の瞬間、2人の体が、目にも止まらぬ速さで交錯した。
「お!」
「見ろ!」
リアクションに困っていた隊士たちが、一様にどよめき、着地して動きを止めた2人を見やった。
カシン・・・
音を立て、日番谷の握っていた木刀の刀身に線が入り、切っ先が床に落ちた。
「ふっ・・・あたしの一本ですね! さっ、ここで切り上げて・・・」
「そーだな」
そして、背を向けていた日番谷が振り返った瞬間・・・
「!」
乱菊は、この戦いが始まって一番、ショックを受けた。
「そ、そのカメラ・・・」
日番谷は、どこから手にしたのか、小さなデジタルカメラを手に持っていた。
まさか!
乱菊は、自分の懐に手をやって・・・思わず、悲鳴を上げた。
「きゃー! いつの間に! セクハラです隊長!」
「セクハラはそっちだろーが! こんな写真・・・!」
「ムダですよーだ!」
乱菊はとっさに言い放った。
最早、子供の口ゲンカと化しているが、体裁には構ってられない。
「もう、データはとっくに、印刷班のところに回ってますから! もうあの写真は、百枚も、千枚も印刷済です!」
なーんて、ね。
乱菊は心の中でつけ加えた。
もしそうなら、盗られた直後、あれほど動揺はしない。
日番谷が、こんな嘘に気づかないわけはない、と言いながら気づいていた。
ところが。
「お?」
乱菊は日番谷を見つめる。
視線の先で、よろり、と日番谷がふらついた。
「マジかよ・・・」
カターン、と、デジタルカメラが床に落ちる。
ふらついた日番谷の体が、ふっ・・・と、その場から立ち消えた。
「・・・ていうことが、昨晩あったわね。そういえば」
「それじゃないですか! ていうか、100%それじゃないですか!!」
向かい合った尊の剣幕に、乱菊は怪訝そうに顔をしかめた。
「でもねー、写真が瀞霊廷通信に載るだけよ? 何がそんなに問題なのよ?」
それは、濡れ猫変化なんて、発禁すれすれのきわどい写真を進んで載せたがる、乱菊には理解できないかもしれないが。
もしもあたしが、「キスの一秒前」なんて写真を載せられたら・・・
「おヨメにいけない♪」
「なにがよ」
「いえ。とにかく、本当はどうなってんですか?その写真」
「あたしが、そんな手際よく、写真を印刷しまくってる訳ないじゃない。ここよ、ここ」
乱菊は、その豊満すぎる懐から、デジタルカメラを取り出した。
「これって・・・昨日、隊長が一旦乱菊さんから奪ったやつですか?」
「そうそう。あたしの言葉を信じて、これを置いていなくなったのが運のつき・・・」
大体、隊長らしくないのよねー、と鼻歌交じりに、カメラの電源を入れた乱菊を、尊は言葉を失って見下ろしていた。
―― ひ・・・ひどすぎる。
自らの隊長を何だと思ってるのか。
しかし・・・尊はチラリと思う。
恥ずかしい写真をバラ撒かれるといっても、いきなり失踪するような行動は、日番谷らしくない。
乱菊の話だけじゃなく、これまで聞いた京楽、雛森、檜佐木、誰の話をとっても、どこか、「らしくない」ところがあったような気がする。
ただそれが何なのか思い出せるほど、尊の頭は立派ではない。
「それに・・・その写真、誰が撮ったんです? やっぱり副隊長なんでしょ?」
「いや、それは違うわよ」
ニヤリ、と笑って乱菊は言った。
「あたしじゃ、隊長警戒しちゃってダメだもの。絶っ対、あの子からは隊長『逃げられない』から」
「えー、そのうらやましい人、誰なんですか!」
もしかしたら、キスシーンもその子との?
そう言い募ろうとした時だった。
「ぎゃ―――!!!」
何の前触れもなく、唐突に乱菊が絶叫した。
「ぎゃー!!! 何ですか急に!!!」
「ない」
「へっ?」
尊は、乱菊の後ろから、デジタルカメラのモニターを覗き込んだ。
確かに、画面には何の画像も映っていない。
「ま! まさか!」
乱菊の焦る指が、micro SDカードの挿入口を開ける。
「信じられない・・・あの一瞬で、カードだけ抜いて行ったわけ?」
あのガキ、と舌打ちしたのは、聴かなかったことにする。
きっと日番谷も、あのババア、とどこかで舌打ちくらいしてそうだ。
「ふふふ」
突然笑い出した乱菊を、気が狂ったのかとおびえながら、尊は見下ろした。
「甘いわ・・・女性死神協会から、逃げ切ろうなんて」
「いー? まだやるんですか?副隊長」
「いい尊? 隊長の恥ずかしい写真なのよ? 想像してみなさいよ」
ぐいん、と乱菊は、自分の顔を尊に近づけた。
「ぽっと赤らめた頬、期待にうるんだ切ない瞳・・・そんな『日番谷冬獅郎』をあんた、見たくないの!?」
「っぶはっ!!」
尊は、こみ上げそうになった鼻血を懸命に抑えた。
「見たい・・・です」
「でしょー」
乱菊の瞳が、キラーンと輝いた。
「天廷空羅よ、尊! 瀞霊廷中の女性死神に、伝えなさい!」
そして、その一分後。尊の声で、女性だけに声が届いた。
「明日発売の『瀞霊廷通信』に掲載されるはずだった、『日番谷隊長の袋とじ』の写真が、日番谷隊長本人によって強奪。
隊長は現在写真のデータを持ったまま逃走中です!」
「ええっ??」
「なんですって? 楽しみにしてたのに!!」
男性死神の怪訝な視線を気にもせず、女性死神たちは悲鳴を上げた。
重々しい声で、脳内放送は続いた。
「女性死神に告ぐ! 『日番谷冬獅郎を・・・拘束せよ』!!」