あれは、いつのことだったか。
おそらく、ちょうど一週間前の土曜。時間は早朝で間違いない。
目を閉じていても、外が明るくなってきたことは分かる。
その場を流れる空気は、春とは信じられないほど寒々しく、頬を横切る風は、切るように冷たい。

―― もう日の出か・・・
だとすると、もう戻らなければ。
日番谷は、スッと目を開けた。

とたんに、目の前に延々と蒼く広がる、氷原が目に入った。
手にした刀「氷輪丸」をぐっと握りしめる。
「卍解・・・!」
口にすると同時に、体の周囲を、冷気が覆う。
否。
自分自身が、冷気の中心だ。

ほとばしり出る霊圧が、体を氷で覆い、周囲の空気を制圧してゆく。
暁色に染まろうとしていた空に、早送りのような速度で暗雲が立ち込めてゆく。
パリッ、と雲間に稲妻が走るのが見えた時には、あたりは再び夜の闇に覆われていた。
「『大紅蓮氷輪丸』!」
自分の声に、もうひとつの声が重なる。

声というよりも、地鳴りにも似たその響きは、彼の心に棲む龍、「氷輪丸」のものだ。
誰よりも身近に、誰よりも冷たく、誰よりも日番谷を包み込んできた、彼の分身。
心までが、氷のように冴え、澄み渡ってゆく。
一瞬の内に氷の中から、圧倒的な質量の龍がその姿を現す。
何十メートルもあるその龍は、辺りの空気をビリビリと震わせ、咆哮した。

龍の紅い瞳と、日番谷の蒼い瞳が一瞬交錯する。
―― 行け!
日番谷の心の声のままに、龍は飛翔した。
そして、日番谷の前方100メートルくらいの位置にあった岩壁に突進する。
龍と岩壁が接触した、と思った次の瞬間、岩壁は、玩具のように粉々に砕け散った。
雷が落ちたような轟音が響き、地面がぐらぐらと揺れる。

「・・・まだだ・・・」
そう呟いた時、体がふらり、とよろめいた。
―― さすがに、もう限界か・・・
氷に覆われた地面に、倒れるように仰向けになる。
背中の冷たさを心地よく感じるほど、体が火照っていた。

荒く息をついた時、ふわり、と自分を覆ったぬくもりに気づく。
顔をあげると、雲間から朝日が差し込み、自分の周りだけスポットライトのように照らし出していた。
氷に閉ざされた世界の中でも、それは確かに、温かかった。
自然の力の前には、かなわない。
日番谷は、無意識のうちに、微笑んでいた。
諦めか、悔しさか、それとも単純な笑みか。すべてが混ざったような気分だった。

対戦した破面から、「卍解が不完全だ」と指摘されて、2ヶ月が経った。
何が足りないと言うのか、修行をいくら重ねても、糸口さえも見えないのだ。
ただ、卍解に達するまでの道のりは、誰の協力も得られないのは、分かっていた。
それはただ、自分と氷輪丸の間の問題でしかない。

―― 帰るか。
どれくらい寝転んでいただろう。日番谷は荒い息を整えると、目を開けた。
早くしないと、十番隊舎で乱菊が起きだしてくる。
長い間一緒にいたせいなのか、乱菊は日番谷の霊圧については、殊の外敏感なのだ。
穿界門を使うほど遠い流魂街の外れに移動し、誰も気づかないほどの強力な結界を張っていたとしても、気づくかもしれないほどに。

隊長とは、いついかなる時でも、部下の前では超然としていなければならない。
そうでなければ、部下は不安になるからだ。
不安は、敗北に・・・更に言えば死につながる。
特に、藍染がいつ攻めてくるとも分からない、今この時には。
だから、自分が不完全な卍解の修行をしていることは、誰にも気づかれてはならなかった。

「!」
その時、日番谷はあわてて上半身を起こした。
「誰だ?」
思わず、口に出す。
自分の結界の中に、入り込んできた気配が、ひとつ。
―― バカな・・・
疲れ果てていようが隊長の張る結界だ。
たとえ乱菊だろうと、この中に入ってくることはかなわないはずだ。

穿界門が、開いている。
だとすると、やってきたのは死神か。
こちらが驚いたのが滑稽になるほど、その人物は気配を隠してはいない。
パリ・・・と、足音が聞こえた。
やがて、その人物が姿を現した時、日番谷は肩の力を抜いた。

「なんだ、お前か・・・」
頷いて駆け寄ってきたその小さな肩を、日番谷は抱き寄せた。

 
***


「!」
日番谷は、そこまで考えてハッと我に返った。
顔を上げた瞬間、カポーン、と鹿脅しの音が静寂を切り取るように響いた。
さわさわと、流れる水の音が聞こえてくるほど、周囲は静寂に包まれていた。
目に映ったのは、目の前に差し出された、手で抱えて持つくらいの大きさの茶碗。

その茶碗には、この屋敷の主によって点てられた抹茶が、並々と注がれている。
無言の瞳に促され、日番谷は両手で受け取った。
そのまま口へ運ぶと、口の中に、なんともいえない苦味のある味が広がった。
―― まず・・・
しかしそれを言うと、子供だと思われそうだから、口には出さない。

「結構なお手前で」
こういう時はこう返す、くらいの作法は心得ている。
軽く頷いた、主の口元は、あるかなしかの微笑みに縁取られていた。


カポーン。
鹿威し音の音が単調に続く。
百畳はあるかと思われる、清廉な和室を、春のさわやかな風が吹き抜けていった。

「それで・・・」
日番谷の向かいに座した男が、日番谷を見た。
男の名前は、朽木白哉。
由緒ただしき、死神四大貴族のひとつ「朽木家」の跡取りである。
いつも超然としているその表情は、何を考えているか一切分からない。

漆黒に閉ざされた切れ長の瞳と、澄んだ蒼緑の瞳が、静謐な空気の中でぴったりと合った。
「兄(けい)は一体、何をしに来たのだ」
昨夜、夜も更けた頃になって、突然「何も言わずに匿ってくれ」とやってきたのだ。
特に断るだけの理由はない。
それだけの理由で、何も聞かずに泊めたまではよかったが・・・

―― そういう、ことか。
六番隊舎からの帰り道、血眼になって日番谷を探す女性死神たちに、腐るほど出会って白哉は納得した。
「袋とじ」とか、「あの写真」とか、言葉の端々をつなぎ合わせてみれば、大体の状況は読める。
そして女性死神たちの視線は、基本瀞霊廷の外に向いていた。
まぁ確かに、「探さないでください」と言って出て行った以上、こんなお膝元にいるなんて、あまり予想しないだろう。

「聞きたいスか」
そう言って白哉を見返す日番谷の顔には、「聞いてくれるな」と書いてある。
「いや。これからどうするのかだけ聞ければいい」
経緯を聞かされても、どうしてやれる訳でもない。
というより、積極的に関わるのは御免蒙りたい。

「とりあえず、明日の発売日まで匿ってくれ」
日番谷はため息混じりにそう返すと、懐から、小さなSDカードを取り出した。
「一応抜いてきて助かった。このデータをそこまで探してるってことは、バックアップはないってことだろうしな。あのババア・・・」
日番谷が漏らした最後の部分は、聴かなかったことにした。

「捨ててしまえばよいではないか」
「それは、できればしたくない」
日番谷は即座にそういうと、立ち上がり縁側に向かった。
「なぜだ?」
「この写真を撮った奴に悪意はねぇしな。悲しませたくないんだ」
「・・・そうか」

日番谷が、かすかに微笑んでいるのを、白哉は意外な思いで見守った。
同じ隊長同士、付き合いはそれなりに長いが、日番谷は少しでも微笑むところを見るのは、初めてだったからだ。
だからこそ、それが誰なのか突っ込んで聞く気は白哉にはない。

並んで縁側に立ち、春の庭を眺めたとき・・・
不意に柔らかい風が吹きぬけ、白哉が肩にゆるりと巻いた襟巻きがスルリと肩を離れた。
それは風にあおられ、近くの池の上に、舞い落ちてゆく。
タン、と、白哉の傍らで、軽い足が縁側を蹴った。
「日番谷・・・」
白哉が呼びかけた時には、日番谷の体はひらりと宙を舞っていた。

パシ、とその手が襟巻きを掴む。
池の上に落ちるかと思われたが、その体は、まるで土の上に降りるかのように、池の上で止まった。
裸足のつま先が少しだけ水につかり、水面に美しい紋様が広がった。
白哉からは、その体が浮かんでいるように見えた。

日番谷は無言で白哉を見返すと、襟巻きを掴んだ手を、白哉のほうに向ける。
再び風にあおられた襟巻きが日番谷を離れ、ゆらりと中空を漂った。
「すまぬな」
白哉は軽く目を閉じ、襟巻きを受け取る。

さえずる鳥の音に目を開けると、水上に留まる日番谷の肩に、数羽の小さな鳥が、舞い降りていた。
伸ばした指の上にも鳥が留まり、その鳥を見つめる日番谷の顔は、年相応にあどけなく見えた。

―― 不思議な者だ。
あまり他人に関心を持たない白哉だが、日番谷のことは不思議な少年だと思う。
冷静と情熱。
品性と野卑。
幼さと老獪さ。
相反する要素がきわどく同居し、日番谷という人間を形作っているように見える。

「騒ぎが収まるまで、いればよい」
場の空気が乱れない程度の、静かな声で白哉は呼びかけると、日番谷の返事を待たず背を向けた。
その背中を、日番谷は意外な思いで見送る。
触れることは出来るが、つかむことは出来ない。
凍らせはしないが、暖かく身を包むこともない。
そんな、水のような男だと思っていたから。

「悪いな」
日番谷は鳥を空に見送ると、タン、と水面を蹴って縁側に戻った。
「万が一ここがかぎつけられたら、迷惑がかかる前に出て行く」
「気遣いは無用だ」
白哉は、部屋の奥へと向かいながら、こともなげに言った。
「ここは既に、女性死神の巣窟だからな」
「は?」
日番谷が聞き返すと、ほぼ同時だった。

ガシャコン、と何の変哲も無い部屋の壁の一部が、自動扉のように上へと開いた。
そこから、機械のように無表情な涅ネムが一歩歩み出ると、絶句する日番谷を無言で見やった。
「日番谷隊長、発見しました」
「わー!!」
身を翻した時には、既に遅し。

一体どこから沸いて出たのか、見慣れた女性死神協会の面子が、日番谷に向かって突進してきていた。
ざっと見ただけでも、ネム、砕蜂、虎徹の姉妹と常連が揃い踏んでいる。
「隊長! 見つけたっ!!」
「てめェ松本!!」
聞きなれた声に、日番谷は振り返る。
「いい加減、観念してくださいっ!」
「するかっ!」
静まり返っていたはずの朽木邸は、あっという間に喧騒に飲み込まれた。