虚圏の最深部に住まう破面のくせに、俺はたまに、人間界へぶらりと出てくる癖があった。
大昔に置き忘れた、探し物。
別に、見つけようと思ってたわけじゃねぇんだ。そんなのは不可能だ。
それなのに、こんなに面倒くさがりな俺が、懲りもせずに続けたなんて。
―― 「矛盾してるね」
誰かにそんなことを言われた気がしたけど、その通りだね、まったく。
最近、なんだかキナ臭ぇ虚圏にウンザリして、何か別の、もっと平和なものを求めていた。
そう考えてみれば、そうかもしれない。
ある日、ひょいと現世から女を連れてきて、住まわせるなんて。
レン。
この上なくシンプルに、女は名乗ってきた。
普通、何歳です、とか、どこ生まれです、とか。趣味はテニスです、とか。
そういうオアイソ的な一言をつけるだろうに、こいつはそれもなし。
すぐに音をあげる、と思ってたんだ。
虚圏は、こいつが今までいた世界とは、あまりに違いすぎるしな。
住んでるやつもちょっと変わってる……ていうか、人間でさえねぇし。
コンビニもレストランも遊園地もねぇ、あるのはただ、どこまでも広がる砂だけ。
なのにあいつは、なぜか砂がいたく気に入ったらしくて、窓から砂ばかり見ている。
破面だの虚だの、人間の言う「バケモノ」に襲われるからやめとけって止めても、聞く耳もない。
今だって……
「おい」
俺は、住処の入口の、階段になっている場所に腰かけ、くるぶしから下を砂で埋めていた。
50センチくらいの棒で、何かをカンカンと叩いている。
背後から歩みより、覗きこんで、俺は思わず声をかけた。
「なにやってんだお前。破面を棒で叩くな!」
そこにいたのは、一抱えくらいの小さな破面。
人の形はしてない。現世でいえばカブトガニみたいな、甲殻類じみた外見をしている。
頭にすっぽり仮面を被っていたが、割れ目から、恨みがましさと怯えが入り混じった視線を向けられた。
小さくても破面。レンを一瞬で殺すことができるだろう。
でも、俺が近くにいることを知ってるから、レンに手が出せない。
レンがそれをどこまで理解できてるかは、知らねぇけど。
俺はため息をついた。
振り返ったレンは、
「ヒマだから、遊んでもらってるの」
猫を思わせる大きな目を見開き、俺を見上げてきた。
「向うさんに遊んでる気はねぇよ、きっと」
有無を言わさず、その細い体を一気に持ち上げる。きゃぁ、と軽い声があがった。
こんな外からも目立つ場所で、他の破面に目をつけられたら困る。
「ねぇ」
廊下を歩く音が響き渡る中、肩にかつぎあげたままのレンが、俺を見下ろす視線を感じた。
「あたしのどこが好きなの?」
「いきなりかよ?」
一瞬たじろいで、そんな自分に少し驚く。
一ヶ月前、出会った直後だったら、顔色も変えずに適当なことを答えただろう。
だけど、俺はその時確かに、ためらったんだ。
「そうだなぁ……」
俺は、担いだレンを見上げる。
「お前、髪を染めてるだろ。茶色に」
「……え? うん。それがどうかした?」
「付け根が、2センチくらい黒いんだ」
「うそ? もう?」
「仮にだ。1ミリも地毛を残さず、完璧に染めてるような女だったら、きっと惚れなかった」
レンは、空に豚が飛んでいるのを発見したような、訝しげな目をした。
「……変態」
「今頃気づいたか」
真顔でそう返してやると、意外にも微笑を返されて戸惑う。
目は大きいが吊りあがり気味だし、体は小柄で痩せ型だし。ショートカットだし。
ぱっと見たレンは、気が強く気まぐれそうに見える。
でも笑うと、のどかな弓形に目の形が変わり、ふわりと女の香りがただようんだ。
その変化を目の当たりにするたび、新しくこの女に惚れなおす気がする。
適当に返す気にならない反面、そんな本音を漏らそうとも思わなかった。
どうしてだ、と考えていたとき、じぃと見つめてくるレンと目が合った。
「落ちそうで怖いの。支えるならもっとちゃんと支えてよ」
「あ? うん」
自分で歩けよ、という気もしたが、その軽い体を抱えなおす。
腕が華奢な背中を滑ったとき、レンは体をわずかに強張らせた。
その体の強張りに、ぎく、とする。
俺はこいつを抱いているんだ、と自覚する。
レンがわずかに息を漏らし、スイッチが入ってしまったことを知らせる。
俺の腕に回した両腕に、力をこめてくる。
俺の肩に顎を乗せ、背中を見下ろしているだろうレンの表情はわからない。
互いに視線を反らせたまま、互いの息づかいにただ、耳を澄ませた。
「家族も友人もひとりもいない」と淡々と言い捨てたその女の、しがみついてくる力の強さに、ふと思いを馳せる。
誰ともつながらないからと言って、そうしたくなかったとは限らないもんな。
負けじと、きつく抱きしめてやる。
その時に胸を突き上げたのは、性欲じゃなかった。
破面が、人間を「いとおしい」と思うことなど、あるのだろうか。
気づけば、立ち止まっていた。
ショートカットの襟足の辺りに息を吹きかけてやると、レンは軽く震えて体を離す。
至近距離で、見つめ合った。
「……うん、やっぱり変態だ」
キスを交わす瞬間、何だか褒め言葉みたいに、レンはそう言った。