俺とレンは、並んで窓際の椅子に腰かけ、月を眺めている。
空模様だけは、現世と虚圏は同じだ。
離れて3ヶ月たっても、全く現世に里心を出さないレンだが、月だけは好きなようだった。
今日の空は、黒い鏡のように透き通り雲ひとつない。
その中に、まるで異世界への穴のように、ぽっかりと白い円が浮かんでいる。

吹き抜ける風は肌寒く、俺たちは一枚の大きな布に、すっかり包まっていた。
現世で言う和服に似た、ゆったりとした服をふたりとも着ている。
レンは俺の二の腕に、少し髪の伸びた頭をもたせかけ、くつろいだ恰好だ。
だが、癒された瞳で、
―― スタークって、大きなイヌみたいで大好き。
なんて言われたら、一応外見は人間様な俺としては、手が出しようがねぇのが現状だ。
でもまぁ、このままでもいいか。そう思い始めてもいた。
現世みたいに、結婚して子供を持つってワケにもいかねぇんだから。

だいたい破面は、子供を育むことはできない。
両方破面だろうが、片方だけだろうが、同じことだ。
「死んだ奴が、新しい命を生み出せるわけねぇだろ」って、どこか上の方のやつら……具体的には死神か、が嗤ってるような気がする。
これほどに生きてるつもりなのに、死者の烙印はことあるごとについてまわる。
まるで、呪いのようだ。

「……どうしたの? 珍しく真面目な顔してるね」
「……あぁ、ちょっとな」
「ちょっと?」
「生きてた頃のことを、思い出してたんだ」
「生きてた頃?」
「この前、説明しただろ。破面ってのは、かつては現世で生きてた魂の集合体なんだ」
「集合体なんでしょ? 誰かひとりの記憶が、残ってたりするの?」
ああ、と俺は頷く。
レンに言っても、想像すらしようのない世界だろう。
ふぅん、とレンは頷き返し、さらに体を摺りよせてきた。
そっちこそ猫みたいだ、と思う。

「むしろ、たったひとりの記憶だけが残ってるんだ。聞く気あるか?」
「月が沈むまでなら、聞くわ」
ロマンチックなことを言う。月はまだまだ上空にあって、しらじらと光を俺たちに届けている。
まぁ話題も、ガラにもねぇことだしな。ちょうどいいかもしれねぇ。

「生きてた頃なんて、本当に昔の話だ。惚れた女がいたんだ。お前にそっくりだったよ。思い実って結婚して、一緒に暮らしてた」
「……え?」
レンが身じろぎして、俺を見あげてくる。
瞳が、月を思わせるくらいまん丸だ。
「……あぁ、そっか」
やがて、合点がいったように頷く。
「だから、初めてわたしを呼び止めた時、驚いた顔をしてたんだ」
「……そこを覚えてねぇのが、ふがいないんだが」
「まったくだよ」
にべもなくそう言ったが、その口調はつめたくはなかった。

「幸せ、だったんでしょ? だから覚えてるのかな」
「いや、それが、そうじゃないんだ。これ以上ねぇくらいのバッドエンドだ」
「どうして?」
「大嵐の日、濁流に飲まれて俺が死んだんだ」
「最悪だね」
「ああ、けっこう悪い。でも、最悪はそこじゃねぇんだ」
「死ぬ以上に最悪なことがあるの?」
「あぁ。もうダメだと思って水上に顔を出したほんの一瞬、橋の上に立つあいつの顔が見えたんだ」
「夜なのに?」
「一瞬だけ、月の光が差したんだよ、折悪しくな。俺と目が合った。驚いたあいつの顔が、あっという間に絶望に塗り替えられてよ。
それが、俺が生きている時最後に見た景色だ」
「……確かに、最悪だね」
「ああ。あいつは、あの後無事に帰れたのか。幸せに暮らせたのか。今でも、それが気になってる。
五百年経ってもまだ、覚えているんだ」
「……五百年」
うたうように、レンは口にした。
本当に適応力のある女だな、と思う。
こんな打ち明け話を聞かされても、ほとんど動揺も見せない。

「……もしかして、さ。現世での『探しもの』って、奥さんなの? 初対面のときに、言ってたじゃない」
ためらいがちに聞かれて、俺はため息をつく。
「余計なことを言ったもんだ」
「見つかるわけないって、思わなかったの?」
「そうだな」
その通りだ。俺は苦笑する。
五百年前に死んだ女を、捜したって見つかるはずがない。
分かっていたのに、気づけば街で人の顔の波に揺られていた。
そして、お前に出会った。

「……でも、俺はお前に会ってから、一度も行かない」
行かないんだ。そう口の中で繰り返す。
そして、レンの瞳をじっと覗きこんだ。

俺の異変を敏感に感じ取ったのか、レンが身を引こうとする。
その腰を捕まえ、強引にぐいと引き寄せて、胸の中に収めた。
「わ、わたしは……」
「そう。俺が愛した『あいつ』じゃない。いくら似てても、人間は五百年も生きねぇよ」
「だったら……」
「でも、どうしてかお前に会った後、俺はこれ以上探す気が失せたんだ。これでいいんだってな。なぜか、納得できた」
あぐらをかいた膝の上に、仰向けになるよう抱きかかえる。
体を支えようとしたのか、それとも距離を置こうとしたのか、俺の胸にレンが手をおく。

「お前を護ってやる」
愛する女を前に、他にどんな言葉を言ってやれるだろう。
戦いに満ち、明日の命もわからないこの世界で。

しばらくして、レンはつぶやくように言った。
「伝えなきゃいけないことがいっぱいあるのに、どう言っていいのか分からないよ」
「いいさ」
「でも……」
「言葉以外にも伝え方はある」
「……エロい」
「今頃分かったのか?」
何度目かになる、口づけを交わす。

肩を抱えた手をすべらせると、肩から着物をすべり落とした。
下着が露になり、あ……、とレンが声を上げ、体を硬くした。
「イヤなのかよ」
胸元に唇をよせ、俺はささやくように言う。
「イヤっていうか……」
レンは視線を俺から反らせた。
「下着が上下そろってない日に、抱かれるのはヤだ」
「……めんどくせー……」
ほんっとに、なんでこいつは、こんなどうでもいいような些細なことばっかり気にするんだ!
もっと、気にすることが他にあるだろうよ。
言い争い、言い争ううちに疲れ、気がつけばまた、寄り添って眠っていた。

でも……後になって、俺は思い出すことになる。
何か俺に伝えようとしたあいつの話を、もっと聞いてやればよかったと。手遅れになってからのことだった。