「日番谷冬獅郎」
そう書かれた札を、取り外す。
俺が使っていた病室の入口に取りつけられていた木札だ。
取り外すと、白い壁に、たくさんの札が掛けられた跡が残っていて、憂鬱になる。
ここに日焼けの跡を残すほどに長い間入院するのは、御免こうむりたい。

目立たないように隊首羽織を脱ぎ、小脇に抱えた。
人目につくと厄介だから、そっと立ち去るつもりだった。
死神っていうのはふつう視覚に頼らず、霊圧で相手の位置を補足する。
だから、霊圧を完全に消し去れば、勝手に退院してもバレないはずだった。

が。
「日番谷隊長。退院は三日後のはずですよ」
穏やかな声が背中からかけられ、俺は顔を引きつらせた。
「……卯ノ花隊長。どうしてここに」
「そろそろ、あなたが自主的に退院するころかと思いました」
振り返ると、長い黒髪を揺らせた卯ノ花隊長の姿が見えた。
三つ編みにして束ねている髪は、今日は珍しく背中に流している。
別の生き物のように、黒髪が揺れる。黒い瞳が、穏やかに俺を見て微笑んでいた。

「いけませんよ」
どうしてだろう。他の奴がそう言えば、誰だろうが言い返すのに。
卯ノ花に言われると、反抗する気が失せてしまう。

「……大丈夫です。もう治ったっス」
そう言った瞬間、卯ノ花の体が目の前に迫り、俺は思わずぎょっとして身を引いた。
まるで吹き抜ける風のように自然で、捉えどころのない見事な瞬歩だ。
「失礼します」
卯ノ花は身をかがめると、俺の右肩に掌を置いた。
一週間前、藍染に袈裟懸けに斬り下ろされた、傷口のある場所だ。
包帯はまだ取れていないが、触れられても全く痛みを感じない。

「……あなたの回復力は、確かに普通の死神よりも高いのです。もともとの体質と、若いということもあるのでしょう。
その上、この傷を負った時も、無意識のうちに霊圧を高め、攻撃をやわらげていた。
そうでなければ、体は肩から真っ二つにされていたはず。命はなかったでしょう」
「……そうなのか?」
「氷輪丸に、感謝してあげてください」
たじろいだ俺に、卯ノ花は微笑んだ。
「それでも、重傷には変わりありません。私には、同じ隊長格としてあなたを無理に止める権利はありません、ただ――」
「ただ?」
「あなたは裏切らず『こちら側』に残った、大切な同僚です。
信頼しながらも、どうしても心配してしまう私たちの愚かさを許してくださいね」

大丈夫かい? 入院している間、通ってくれた同僚たちの顔を思い出す。
自分たちも傷を負うか、負わなくても事後処理に忙殺されていただろうに、それでも足を運んできた。
そんなことより仕事しろよ、と憎まれ口を叩くことしかできなかったが。
本当は、痛いほどに感じている。
俺たち隊長がいかに今まで、互いのことを顧みなかったか。
もしも顧みていたなら、今回のような離反は起こらなかったのだと。
罪は、外にはない。俺たちの中で今も疼いている。

手遅れなのを知りながらも、俺たちは今歩みよろうとしていた。

「……調べたいことがあります。十二番隊に行くだけっス」
「大霊書回廊ではなく?」
卯ノ花はそこで初めて意外そうな顔をした。
「俺たちは、このままだと負けます。死神は、破面の中でもヴァストローデ級に勝つことはできない。それは、数千年の間変わらない事実だ」
卯ノ花は、否定も肯定もしなかった。答えがないからじゃねぇ。
それが、太陽を逆から昇らせるのができないのと同じように、厳然たる事実だということを知っているからだ。
「不可能を可能にするには、正攻法じゃダメなんスよ。突破口を見いだすには、思い切り馬鹿な筋を選ぶのも悪くない」

俺の肩に置かれていた卯ノ花の手を、そっと外すと、俺は脇をすり抜けて歩き出した。
「あ」
懐に固い感触があり、思い出す。
そして、自分の木札を取り出した。
「……世話になった。ありがとう」
ため息をついて微笑んだ卯ノ花に木札を手渡すと、俺はその場を後にした。



涅はとくに驚いた様子もなく、いきなり訪れた俺を十二番隊の隊首室に導きいれた。
ここに入るのは初めてだ。ガキっぽいと思いながらも、ついきょろきょろと周囲を見回してしまう。
隊首机はなんだかよく分からない薬品の瓶であふれ、部屋は異様、としか言いようのない匂いが立ち込めている。
その薬品の向うにうずもれるように、涅が腰を下ろしていた。
俺が入ってきても、視線を上げることなく、忙しげに紙にペンで何かを書きつけている。

こんな部屋は、正直言って嫌いじゃない。
涅さえいなければ、部屋の薬品という薬品をいじりたおしているだろう。
その俺の心の声が聞こえたわけじゃないだろうが、涅がジロリとこちらを見つめてきた。
「ボーッと突っ立って、私に何の用なんだネ、日番谷冬獅郎。私は忙しいのだヨ。実験体にでもなってくれるというなら、話は別だが」
「ンなヒマはねぇ。資料室を貸してくれ。調べたいことがある」

涅は、一瞬視線を中にさまよわせた後、目を剥いて俺をにらみつけてきた。
まぁ、予想した反応ではある。
「苦労して重ねた研究の結果を、見せろと言うのかネ? 研究者にそれを求めるのは、そうだネ……腹をかっさばいて内臓を見せてくれ、と言ってるのと同じことだヨ」
「じゃ、内臓見せろ」
「この外道が……」
「お前ほどじゃねぇ」
隊長同士、もっと向き合うべきだ、という殊勝な気持ちは、気づけば雲散霧消していた。

にらみ合うこと30秒。
先に口を開いたのは、涅の方だった。
「長年私を無視していたお前が、今更何が知りたいんだネ」
「死神の限界を超える方法」
俺が即座に返すと、涅はふむ、と口の中で唸った。
「ストレートに聞くとは、やっぱり子供だネ。その研究はタブーだと知って聞いているのかネ」
「あぁ、子供だ。やっちゃいけねぇことこそ、やりたくなるのは分かるさ」
フム、と鼻白んだ涅に、さらにもう一歩、歩み寄る。
「やってんだろ?」
やってねぇとは言わせねぇ。言下にそれを含ませて見据えると、涅はやがてため息をついた。
「……。それが不可能だということも、分かっているのかネ?」
「不可能じゃねぇ」
俺は一歩踏み出した。

死神の力は、この世界の支配者たる「霊王」から賜ったものだ。
その限界を超える、というのは、霊王の定めから逆らう、ということでもある。
禁忌だというのは、そういう意味だ。

「不可能じゃないとは、どういう意味だネ」
「藍染が、それを証明してる」
俺は、涅の机の前まで歩みよって続けた。
「俺は、藍染の刃を受けた。あれは、明らかに死神に許された力の範疇を超えてる。
逆に言えば、『死神を超える』手段を死神は持っている、ということだ。違うか?」
「福音、とでも言うつもりかネ」
涅はそう言うと、声を立てて笑いだした。
笑うと、何だかピエロそっくりの風貌だった。

「呆れたもんだネ。生死の境をさまよいながら、そんなことを考えていたのかネ。まぁ、一理あると言ってやろう」
そう言うと涅は、やっと腰を上げた。
前に立っていた俺を押しのけるようにして、廊下へと向う。
一体どういう心境の変化なのか、こんなことを言った。
「何を突っ立っているんだネ。資料が見たいのだろう」
本当に見せてくれるのか? そう聞き返せば「やっぱりやめた」と言われそうだったので、無言でその後を追った。


「……」
薄暗い資料室の中で、目が慣れてきた俺は、その資料の膨大さに、半ば唖然としていた。
倉庫のような巨大な空間に、ひたすら並ぶ5メートルはありそうな本棚。
その全てに、びっしりと書類や本類が詰め込まれている。
「本の巣」とでも呼びたいような景色だった。

「死神を超える力の研究。これは、別に目新しいものではない。常に死神たちが極秘で研究し続けてきたのだヨ」
絶句した俺に、どこか勝ち誇るような視線を涅は向ける。
「……これを、全部読めと」
「そこに、本棚の内容の全てを網羅したコンピューターはあるがネ。使いこなせるのは私だけだ。あきらめたまえ」
白い指先で、本棚の間にうずもれるように鎮座している、巨大なコンピューターを指差す。
黒い画面に、趣味の悪い緑色の光が点滅していた。

「……お前、最後の一言をいうために、俺をここに連れてきたのか?」
だとしたら嫌味な野郎だ。俺が睨みあげると、涅は肩をすくめた。
「被害者妄想はやめてくれたまえヨ。ま、科学者以外には豚に真珠、猫に小判というところだろうネ」
「……じゃあ、俺になぜ見せる気になったんだ?」
「膨大な時間と量の蓄積。これほどのものを掛けても、発見できなかったのだヨ。『死神を超える方法』を」
涅は、本棚の群れに視線を投じた。
その姿は、先人たちの苦労を見下すようにも、敬意を表しているようにも見えた。
「正攻法で駄目なら、思い切って馬鹿な方法を選ぶのも時には有効だヨ」
馬鹿な方法ってのは俺のことか、と一瞬青筋が立ちそうになるが、それにしてもどこかで聞いた台詞だ。

涅はそんな俺の返事を待つことなく、背中を向ける。
「まあ、一縷の期待はしているということだヨ。せいぜい気張るがいい、天才少年君」
俺が振り返った時、すでに資料室の扉は閉められていた。