子犬を一番隊の守衛に一旦預け、俺たち三人は一番隊舎の隊首室へと向った。
夕暮れの廊下の両脇に置かれた燭台に、勝手に次々と炎が灯されてゆく。
壁が朱色に照らされ、俺たちの黒い影がその中で、揺れる。

藍染たちがのさばっていた頃、臨時隊首会のたびにここを通っていた。
だが、その時の記憶はあいまいだ。おそらく、ずっと物思いにふけっていたのだと思う。
今だって正常にはほど遠い状況に変わりないが、それでも今たどり着いた隊首室の向うには、笑い声が聞こえた。


重々しい扉を開け、隊首室の中に足を踏み入れる。板張りの、五十畳はありそうな広々とした空間には、すでに隊長・副隊長が何人も集まり談笑している。
「あっ、たいちょー!!」
中に入ると同時に、檜佐木や雛森と話していた松本が、蜂蜜色の髪を揺らせて振り返る。
静止する間もなく、両腕をあけっぴろげに広げて俺に飛びついて来た。

やたら弾力のある感触とともに、もう慣れきったことだが松本の胸が頬を直撃する。
初めて会った時、これに吹っ飛ばされたことを思い起こさせる。もちろん、嫌な記憶だ。
「ひゃぁ、うらやましい……僕にもやってくれないかなぁ」
「セクハラです、京楽隊長」
「セクハラはお前だ、松本!」
何を言おうが振り払おうが、そう簡単に離れてくれるような女じゃない。俺は早々に諦め、瞬歩で一旦姿を消す。
すとん、と松本の腕が空を切って落ちた時には、俺は隊首室の真ん中あたりに再び現れていた。

「この空間は広い。俺にくっつく必要性は全くねぇ」
「いいじゃないですかぁ、減るもんじゃないし」
「……」
そういう問題じゃねぇ、と怒鳴りたかったが、その場に集まっている他の連中の手前、我慢する。
「相変わらず仲がいいねぇ、日番谷くんと乱菊さん」
ぽん、と肩に手が置かれ、振り返ると雛森が立っていた。
俺は罵り合ってるつもりなんだが、相変わらず人がいい……というか、天然過ぎて人を食ったようなやつだと思う。

俺はため息をつくと、松本に向き直った。
「おい松本、隊首会は俺が出るから、お前は戻ってろ。隊長か副隊長、どちらか出席でいいんだから」
「隊長こそ遊んでてくださいよ。今日非番じゃないですか」
喜んで引き下がるかと思えば、案外食いついてくる。
隊首会に隊長以外が出席するなど一昔前はありえなかったが、破面戦争以降、極端に忙しい隊長が会議に出席することが難しくなり、副隊長が代理で出席できるようになったのだ。
今もその場にいるのは砕蜂、吉良、虎徹勇音、雛森、朽木白哉、狛村、京楽、檜佐木、涅マユリ、浮竹と隊長・副隊長が入り混じっている。
十一番隊の顔が見えないが、これはいつものことで誰も当てにしていない。

「あのなあ、松本……」
言いかけた時、雛森にもう一度肩をつつかれる。振り返ると、総隊長が杖を突きながら入ってくるところだった。
破面戦争で負った傷が原因で杖が手放せない体になってしまったが、それでも異様に強い霊圧は健在だった。
総隊長は俺と松本にちらと視線をはしらせたが、何も言うことなく席に腰を下ろす。
今更出て行く、というのも妙な具合だ。俺は諦めて、総隊長の前に整列する列に加わった。


***


総隊長の隣に背筋を伸ばして立った雀部が、台本を読み上げるように明朗な口調で、議題を挙げる。
「それでは、破面戦争の残務処理の報告から進めさせていただきます。狛村隊長、空座町の修復の進捗はいかがでしょうか」
「特に問題なく進んでおります。明日にも完了する予定です、総隊長殿」
うむ、と総隊長が頷くのを聞いていたとき、背後からかすかな音が聞こえて振り返る。
振り返った途端、ぎょっとした。

守衛に預かってもらっていたはずの子犬が一匹、わずかに開いた扉の外から中をうかがっていた。
誰だ戸を開けっぱなしにしたのは、と思うが、考えてみれば最後に入ってきたのは自分達だ。
子犬は、黒く丸い目をしばたかせ、長い口を隙間に突っ込んでいる。
さりげなくその場を離れて閉めにいくか、と思った時には、スルリと中へ入り込んでいた。

「なんだ? ……子犬が、どうしてこんなところに」
一番初めに気づいたのは砕蜂だった。組んだ腕を解き、怪訝な顔をしている。
隊首会に侵入するなど厳罰ものだが、入ってきたのが子犬では、さすがにリアクションに困ったらしい。
「その犬は……」
狛村の声が困っているのが、はっきりと分かる。
狛村がでかい図体を丸めて、総隊長に「元いたところに戻して来い」と叱られるのを半ば予想した時――思いもよらないことが起こった。
犬が、一目散に俺のところに走ってきたのだ。

「きゃー、かわいい!」
隣に立っていた松本がしゃがみこむ。元々動物好きらしい雛森も駆け寄ろうとしたが、
「ぺいっ!」
総隊長の発した声によって動きを止める。

「会議中じゃ、私語は謹め。どうして瀞霊廷に子犬が? お主、事情を知っておるのか?」
その場の全員の視線が俺に集まり、口ごもったとき、
「私が現世から連れてきたのです」
すかさず狛村が口を挟んだ。
「申し訳ありません、総隊長殿。現世で自縛霊と化していた犬五匹を、私の判断で連れて参りました」
ふむ、と総隊長は唸ると、狛村と俺と犬を見比べた。俺を見られても困る。
怒り出すのかと思った総隊長は、しかしすぐにため息をついた。

「犬に構っている余裕は、今の護廷にはない。犬の処理は狛村に任せよう」
「全くだヨ。この忙しいのに、犬の話など願い下げだネ。日番谷、お前が面倒を見ればいいヨ。『白変種』同士、仲良くやれることだろうネ」
「シロヘンシュ?」
松本が、怪訝な顔をして涅に問い返した。

俺は、無邪気にまとわりつく子犬を、しゃがんで抱き上げる。
面倒な話題を振ってきたものだと思いながら、涅と松本に視線をやった。
「白変種ってのは、色素の減少によって体毛や皮膚が白化している動物のことだ。人間も含め、幅広い動物の中に『白変種』は存在する」
「さすが。自分のことについては詳しいようだネ。調べたか」
「一般常識だ、これくらい」
「隊長が、そのシロヘンシュっていうの、なんですか?」
「さあな」
俺は首を振ったが、涅は人の弱みを握ったかのようにニヤリと笑う。
「その銀色の髪、白い肌、青い瞳。明らかに色素異常だネ。
動物の白変種は、自然界では色が目立つため外敵に狙われやすく、大人になるまで生き残る者は稀だ。
人間界では、縁起が悪いだの、異端だのと排除される。大方その犬も、白変種なのが理由で処分されたんじゃないのかネ? 
元々、その犬種の色は黒いはずだヨ」

その場に、ピリ、と張り詰めた空気が流れ出す。
「犬の話はごめんだって言ったのは君だろ? 涅くん」
涅の言葉に不穏なものを感じ取ったのだろう、京楽がチラリと涅を見下ろすのが見えた。
これ以上くだらない話をするんじゃない。
俺といる時には露ほども出さない圧力のようなものが、涅に向けられるのを感じる。

「いや、犬の話と言うよりも、そこにいる日番谷の話をしているつもりだったんだがネ」
涅の酷薄な瞳を、俺は見返した。
「何が言いたい、涅」
「白変種は、言わば淘汰されるべき『劣等種』。そのような者が隊長職にあるなど、私はふさわしくないと、兼ねてから思っていたのだがネ」

張り詰めた空気を切り裂くように、金属性の音が鳴り響いた。
「隊長への侮辱は、容認できません」
冷たささえ感じる硬質な声に、すぐには誰の声か分からなかった。
振り返ると、松本が抜刀しているのが目に入った。
「よせ!」
とっさに声を上げたが涅を睨みつけたまま、微動だにしない。

ほぅ、と涅は悪意の篭もった笑みを松本に向ける。
「他隊の隊長に刃を向けるとは。これは重罪だと、分かってやっているのかネ?」
「他隊の隊長を侮辱するのは、罪ではないんですか?」
雛森が一歩進み出て、そう言った。刀に手こそかけていないものの、その目には明確な怒りが見える。
雛森は激情家だ、本気で怒り出せば、俺も言葉で止められる自信はねぇ。

俺はとっさに、総隊長を伺った。何か言いたげに口を開いたのを見て、松本の前に身を滑り込ませる。
松本に背を向け、涅と向かい合う形で、灰猫の刀身を下から握りこんだ。
チリ、と焼けるような痛みが掌に走り、皮膚が切れたのが分かった。
「隊長!」
松本のうろたえた声が背後から聞こえる。
「騒がせて申し訳ありません、総隊長」
刃から手を離せば、血が一筋、右手の手首を伝って流れ落ちた。
「話を進めてください」
ふむ、と総隊長は長い口ひげを捻った。
「色々言いたいことはあるが、日番谷隊長の顔を立てて見逃そう。雀部、続けるがよい」

「隊長……申し訳ありません」
俺の掌の傷を見て、懐から手ぬぐいを取り出してしゅんとしている松本に、俺はわざと軽く返す。
「バーカ。お前がキレてどうすんだ」
「でも……」
「いいから、犬を連れて隊舎へ戻れ。一つでも仕事を片付けとけ」
小声で言うと、行け、と顎で扉を差す。松本はうなずくと、そっとその場を後にした。