「735円のお買い上げになります」
茶色く染めた髪に赤いバンダナを巻いたお姉さんが、笑顔で頭を下げる。
差し出された、きれいに爪が切りそろえられた掌の中で、チャリンとお金がはじける。
町のケーキ屋さん、HAPPINESS。小さくて地味だけど知る人ぞ知る、ケーキがおいしいお店だ。
特に、赤いイチゴが載った、絵に描いたみたいな白いショートケーキは、お気に入り。
本当はケーキを買ってあげたいけど、あいつは次いつやってくるか、分からないしな。

「……お友達への、プレゼントなのかな?」
顔を上げると優しそうなお姉さんの笑顔があって、あたしは思わずコクリと頷く。
そう、と頷き返すと、隣にあったメレンゲのお菓子の袋も、レジ袋の中に入れてくれた。
「これ、おまけよ。あなたもぜひ食べてみて」
内緒よ、と言われたのが何だか嬉しくて。ドアのカウベルをカランと鳴らし、あたしは弾むような足取りでお店を出た。

このクッキーを上げるべき相手、日番谷冬獅郎についてあたしが知っていることは多くない。
でも、最近知ったのは、「甘い物が好き」ってことだった。
あんなにいつも苦い物を噛み締めたみたいな顔してるのに、案外お菓子に目がないんだ。
一週間前くらいに一度来た時、HAPPINESSの袋にお菓子を詰めてお土産に持たせたのは、遊子だった。
その時、台所から聞こえてきた二人の会話を思い出すと、今でも笑いがこみ上げてくる。
―― 「冬獅郎くーん! 待って!」
―― 「俺は日番谷『隊長』だって……」
―― 「これ冬獅郎くんにあげる!」
―― 「……あぁ? 菓子なんていらねぇよ」
―― 「乱菊さん、喜ぶでしょ? はいっ!」
―― 「……。ありがとう」
―― 「今回は違うけど、次はここのお菓子買っておくね!」
―― 「あのなぁ、次いつ来るかなんて……」
―― 「クッキーがいいかなぁ? それとも別のお菓子がいい? 楽しみっ!」
―― 「……釈然としねぇ」
完璧に尻に敷かれてんな……と呟いた一兄の言葉がまたおもしろくって。
瀞霊廷での一件以来、現世からは距離を取ろうとしてるらしいあいつがそれでもウチに来るのは、何だかんだで遊子の功績によるところが大きい。
菓子なんていらねぇからな! ってあいつは強調して去っていったけど、律儀にやってくることは間違いなかった。
なんでって、あいつはそういう奴だからだ。



外は、晴天だった。放課後になってすぐにやってきたから、まだ日も高い。
十月なのに、九月くらいの陽気で半そででも平気なくらいだった
赤い紙袋を腕に引っ掛け、あたしはランドセルから本を取り出す。
今日の放課後の楽しい予定、その二。名探偵シリーズの本を読むこと!
ちょっと前までは、本をはまる自分なんて想像もつかなかったけど、本好きな誠子っていう友達ができて、進められるままに読むようになった。
結論。意外と本って、おもしろい。

ちょうど、大好きな探偵が登場する場面。
天才肌で、見た目も良くて運動神経もいい、全てが揃いまくったその探偵は、どこかあたしが知ってる奴にイメージが似てる。
緊迫した場面に颯爽と現れるところで、今どこを歩いてんのかも分からないくらいに熱中してたはずなのに。
急に、背筋がぞわっとしたんだ。慌てて、顔を上げる。

「……何?」
あたりを見回す。初め虚かと思ったんだけど、そうじゃない。
あんな風に、獣みたいな野蛮な気配じゃないんだけど……首筋に氷をつきつけられたみたいな、ぞっとするほどに冷たい感覚。
怖い。暑いのに、あたしは空いている手でむき出しの腕を覆った。

突然かすかな声が聞こえて、ぎくり、とあたしは肩を強張らせる。
でも、クーンクーン、と聞こえたその声に、視線をめぐらせた。子犬が、鼻を鳴らす声だ。
道路の向うに、見上げるみたいな真鍮の門が立っていて、門の隙間から子犬が鼻を差し込んでこっちを見ていた。
「知念」。門の横の柱には、立派な字が彫りこまれている。
「……知念、か」
そういう名前の子が、同じ学年にいた気がする。
門の向うは、きちんと整えられた緑が茂っている。ガーデニング、ていうのかな。
首を伸ばしても人の気配はない。あたしは尻尾を振る子犬につられて、歩み寄った。


「かわいいなぁこいつ、血統書つきなのかな?」
頭を撫でながらそう思ったのは、その子犬の向うに、同じような毛色の子犬がさらに見えたからだ。
黒いアーモンド型の瞳の上の部分には、眉毛みたいに茶色い部分がある。
頬とか胸、前足は茶色。それ以外は黒かった。耳は大きくて、ぺたりと顔の両脇に垂れている。
よく知ってるようで、犬種が思い出せない。

誰かいないのかな。そう思って、門の向うを覗き込んで……また、ぞくりとした。
何だろう、金縛りになるみたいな感じ。まるで蛇に魅入られた蛙みたいに。
やばい、とっさに身を起こす。この家、やっぱり「何かいる」。


後ずさりした時不意に、その立派な家の玄関のドアが開いた。
門の向うに棒立ちになった恰好のあたしは、家から出てきた二人ともろに視線があってしまう。
「……あれ? やっぱり、絽夏(りょか)ちゃん」
知念絽夏。遊子と同じクラスで、うちにも何度か来たことがある子だった。
二年前に沖縄から家族で引っ越してきてて、色が浅黒くて手足の長い、いかにも沖縄出身! って感じの外見だった。
「あ! 夏梨、ちゃん……」
あたしを見た瞬間はぱっと明るくなった顔が、見る見る間に沈んでしまう。
その時になってやっとあたしは、絽夏ちゃんの後ろから出てきたおじいさんが、医者だってことに気づいた。

「今は、安静にしておくしかないよ。できるだけ、部屋はあったかくするんだよ」
あったかく? あたしは、おじいさんの声に耳を疑う。外、半そでで十分なんだけど。
「……はい」
絽夏ちゃんが、ぐっと小さな唇を噛み締めた横顔が見えた。
「一人じゃ心細いだろうから、親戚の人にも連絡……あぁそうか、絽夏ちゃんは沖縄出身だね。
親戚のかたは誰か、こちらには?」
ぶんぶん、と絽夏ちゃんは首を振る。
おじいさんはその顔をじっと見下ろしてたけど、急に顔をくしゃっと崩して笑った。
「じゃあ、何かあったら私に連絡しておいで。夜中でもいつでも、来てあげるから。大丈夫だよ」
いい人だな、って思う。もう70歳を越えそうな、持病のひとつやふたつ持ってそうなおじいちゃんなのに。
たくさん患者さんを抱えてて、ひとりひとりに接するのがどれほど大変か、家が病院のあたしには何となく分かる。
でも、そう言うおじいさんの気持ちが分かるくらい、絽夏ちゃんは心細そうに見えた。

おじいさんは通り過ぎざまに、あたしを見下ろした。八の字の眉が優しくさがってる。
「……絽夏ちゃんの、お友達かい」
「うん」
「できれば、ついててあげてくれないかな? 一人じゃ寂しそうだから」
「うん」
もう一度コクンと頷くと、もう一度にっこり、と笑っておじいさんはその場を後にした。


その場には、絽夏ちゃんとあたしが二人、取り残される。
「え……と。今の話、聞こえちゃったんだけど」
あたしが口ごもりながら切り出すと、絽夏ちゃんは沈んだ顔のまま、こっちに歩いてきた。
肩くらいの髪をふたつに分けてくくってる、いつもの髪型。それが元気そうなだけに、余計痛々しく見えた。
「家族の人、誰か病気なの?」
そう聞きながら、確か一人っ子だったはず、と思い出す。両親と三人で暮らしてるって言ってたような。
「……お父さんとお母さんが、病気で寝込んでるの。お医者さんに診てもらっても原因が分からなくて」
「原因不明って……二人とも?」
絽夏ちゃんがうなずく。そりゃ、両親が倒れて一人だけになったら心細いよな。そう思った時、絽夏ちゃんが涙ぐんだ目であたしを見た。
「でも……それだけじゃないの。誰にも言えなかったんだけど……聞いてくれる?」
「な、なに」
「きっと、何をしてもダメよ。あたし分かるの。これは……『祟り』なんだわ」