あたしは首をひねりながら、家のドアを開けた。
小説どころじゃない、現実はもっと不思議なことに満ちてる。
「ただいまー」
スニーカーを脱ぎ、一歩フローリングの廊下に踏み出した時、あたしは足を止めた。
なんだろう、この空気。なんかちょっと、外よりも温度が低いような気がする。
「……まさか」
もう、半ば馴染みになったその気配の主は間違えようがない。あたしは大声を張り上げた。
「冬獅郎! 来てんのか!」
その声に、予想した声は返ってこなかった。代わりに、
「おー、夏梨。上がってこいよ」
二階から一兄の声が返す。あたしはランドセルを背中で揺らしながら、一気に二階まで駆け上がった。
二階の一兄の部屋のドアはちょっとだけ開いていて、あたしは廊下から顔を覗かせる。
一兄は勉強机の椅子に腰掛けて、机の上に置いたノートパソコンをカチャカチャやっている。
冬獅郎はベッドに腰掛けたまま身を乗り出して、パソコンの画面を横から覗き込んでる。
死覇装姿で、草履がベッド脇に、裏返してそろえて置いてあるのがちょっと面白い。
死神の姿で土足で部屋に入っても、草履で床が汚れたりはしないらしいのに、その辺の律儀さが冬獅郎らしいな。
あたしはドアをひょいと開け、部屋の中に足を踏み入れる。それでも振り返らない冬獅郎を、にらみつけた。
「窓から入るなよ。他所の家に行く時は玄関から、って死神の学校では習わなかったのか?」
こいつはいつだって、一兄の部屋の窓から入って、窓から出て行く。
まるで一兄以外に自分が来ていることを知らせたくないみたいに。
冬獅郎は、ちょっとバツが悪そうな顔をしてようやくあたしを見た。
「お前は気づくんだから、いいじゃねぇか」
「なーんか、温度がさがってる気がするんだよな、いっつも。それで分かるんだ」
「実際はさがってねぇよ、気がするだけだ。霊圧もゼロに近いくらい抑えてるのに、なんで分かるんだ……」
最後のほうは、ぼやきに近かった。あたしは胸を張った。
「だって! あたしは、あの京楽ってオッサンに才能あるって言われたんだもん! 当然だろ」
「分かった分かった」
「もー! なんでそんな投げやりなんだよ!」
「興味ねぇ」
「しっつれーな奴だな、ホント!」
あたしはドスドスと床を踏み鳴らして部屋の中に入ると、ランドセルを床に置いた。一兄が苦笑いしながら、振り返る。
「冬獅郎って、夏梨がいるとよくしゃべるよな」
へっ? それを聞いて、あたしは目を見張る。一言一言は短いし無愛想だけど、言葉が少ない奴だとは、あんまり思ってなかったからだ。
「あまりにも、こいつが変なことばっかり言うからだ」
はぁ、とため息をつくと、冬獅郎はあたしをそっちのけにして、一兄に向き直った。
「ンなことより、分かりそうか?」
「あー、ちょっと時間かかるけどな。分かると思うぜ」
「助かる」
「何の話してんだよ?」
あたしが一兄の後ろからパソコンを覗き込もうとしたとき、横から伸びてきた冬獅郎の腕が遮った。
「なんだよ? 隠すようなことでもねぇだろ」
不満げに立ち止まったあたしと冬獅郎を交互に見やって、一兄はおもしろそうに言う。
「別に。ただのヤボ用だ」
そう言ってベッドの上に両足を引き上げ、くるりと胡坐をかいた。ちょっと前かがみになったその恰好が、なんだか疲れてるみたいに見える。
「……あんたもいつも大変そうだよな」
思わず同情の言葉が漏れた。
「死神になりてぇとか、しつこい女はいるしな」
「あたしを死神にしてくれれば、その悩みはなくなるんだよ」
「お前が諦めろ!」
「イヤだね!」
ぷっ、と耐え切れなくなったみたいに一兄が噴出す。
パソコンの画面をロックして、椅子を回してあたしたちに向き直った。
「笑ってねぇで、止めたらどうだ? 自分の妹が、死神になりたいって言ってんだぞ」
心外だ、という表情をまともに出して、冬獅郎が一兄を見やる。
うーん、と一兄は口の中で唸ったけど、そんなに困ってるようには見えない。
「俺は反対だぜ。でも、夏梨の気持ちはなんとなく分かる」
「さすが一兄!」
不満そうな顔をした冬獅郎を横目で見ながら、あたしは一兄に駆け寄る。
「冬獅郎を説得してくれよ! なぁ一兄……」
「反対は反対だって言ってんだろ」
にべもなく言われたから、頬を膨らませる。あたしの気持ちが本当に分かるなら、OKしてくれるはずだけど!
「ンなことより、ちゃんとランドセル部屋に置いて来いよ。その間に冬獅郎がいなくなったりしねぇから」
妙にお兄ちゃん面する一兄に追い出されるように、あたしは一旦部屋を出た。
***
「『祟り』だぁ?」
クッキーをつまみながら、冬獅郎が珍しく素っ頓狂な声を出した。
再び一兄の部屋で、中央に置いた椅子の上に、プレゼントするはずだったクッキーを広げ、紅茶の入ったコップを手にあたしたちは向き合ってた。
「うん。あの家、絶対に何かおかしいよ。入った途端、空気が変わったみたいな感じがしたもん」
「空気が変わった?」
「うん。冬獅郎が来てる時も同じなんだけど、何かいると『空気が変わる』んだ。あの家にも、何かいる」
「俺と一緒にすんな。でも……お前が言うんなら、何かはあるんだろうな」
何気なく冬獅郎が言った言葉に、なんだか嬉しくなって慌てて気を引き締める。喜んでる場合じゃない。
「で? 祟りって言うからには、具体的に何か起こってるんだろ?」
あたしはこくり、と頷いて、絽夏ちゃんから聞いた内容をざっと並べ立てた。
「ひとつ。誰かに見られてる視線を感じる。ひとつ。敷地から出れば揺れてないのに、家だけ地震みたいに揺れる。
ひとつ。金縛りに遭う。ひとつ。両親が病気で倒れて、どんな医者も治せない……これって祟りか?」
は――――あ、と冬獅郎はあたしが言ってる最中からため息をついて、コップを床に置いた。
そして、ガシガシと後頭部を掻く。
「見本市みたいな状態だな……祟りっていうか、霊障の可能性は高い」
「れい……しょう」
「一方が、誰か対して恨みや怒りの感情を持つと、相手が事故に遭うとか病気になるとか、様々な不幸の形をとって現れることがある。まあ、祟りとそうは変わらねぇ」
そこまで言うと、冬獅郎は露骨に面倒くさそうな顔を向けてきた。
「本当に霊障なら、瀞霊廷への報告義務がある。……気は進まねぇが説明しろ」
「……おめーも本当苦労症だな、冬獅郎」
一兄が冬獅郎のコップに茶を注いだ。
あたしはできるだけ分かりやすいよう、少しずつ話した。
知念家は、沖縄から引っ越してすぐに、シェパードのブリーダーを始めた。
チャンピオン犬を引き取って熱心に繁殖させたから、こういう言い方はいやだけど……すぐに、高く売れる子犬をたくさん生み出した。
ブリーダーとしての仕事は、うまくいってたらしい。シェパードといえば知念だ、と言われるくらいに。
でもお父さんには、ひとつだけどうしても隠していたい秘密があったんだ。
それは、知念家から生まれるシェパードは、真っ白い毛色で生まれる確率が異様に高いってこと。
シェパードって毛色がはっきり決まってるから、白は規格外……つまり、売れないんだ。
今年も、15匹生まれた子犬のうち6匹は、白かった。
お父さんもお母さんも、白い子犬に向ける目はとても不安そうで、嫌なものを見るみたいだったって。
絽夏ちゃんは、黒かろうが白かろうが中身はシェパードだよって言い張ったらしいんだけど。
でも今から十日ほど前、6匹のうち5匹の子犬は、突然家からいなくなってしまった。
絽夏ちゃんが探しても見つからなくて……それから数日して、「霊障」が始まったんだ。
「……冬獅郎」
あたしが話し終わった時、一兄はちらりと視線を冬獅郎に向けた。
腕を組んで話を聞いていた冬獅郎が、一兄に向ってちょっとだけ首を振るのが、目の端で見えた。
「? 何」
「で。お前はどう思うんだ?」
はぐらかされたのは分かったけど、あたしはううん、と唸る。
「絽夏ちゃんが言ってたんだ。いなくなった子犬は、きっとどこかで死んでるんだって。
そして、受け入れてくれなかったこの家を恨んでるから成仏できずにいて、いろんな『祟り』が起るんだって」
「タイミングから考えると、それっぽいけどよ。……どうなんだ? 冬獅郎」
一兄はやっぱり、冬獅郎を気にしてるみたいだった。横目で見ながら、首を傾げる。
「それはねぇ」
逆に、冬獅郎の答えはきっぱりしていた。
「その五匹の子犬は、もう成仏済だ。成仏した魂は、現世の魂に干渉することはできねぇよ」
成仏済って。なんだか使用済みたいな事務的な言い方にガックリきたけど、考えてみればこいつにとってみれば仕事だもんな。
冬獅郎が、子犬たちが成仏してる、と断定したことに違和感は感じたけど、あたしは続けて聞いてみる。
「てことは、何が霊障を起こすんだ?」
「成仏した魂以外の、全部だ。生きている奴のこともあるし、死んだけど自縛霊になってる場合もある。毎回原因は違うな」
「虚が原因になってることは、ありえるか?」
一兄が口を挟む。冬獅郎は即答はせず、ちょっと考えてから答えた。
「霊的な力がある者も原因になりうる……けど。虚だったら、霊障なんてまどろっこしいことはしねぇだろ。直接襲えば事足りる」
「……それもそうだ」
思わず一兄とあたしは顔を見合わせた。
「瀞霊廷に報告したら、どうすんだ? 誰か死神が対応すんのか?」
「……無理だろうな」
冬獅郎は、ため息混じりに首を振った。
「今の話で分かるだろうが、霊障の原因をつきとめるのに時間がかかる上に、解決することなんて不可能に近い。誰かよこす余裕はねぇよ」
「ほっとくってことかよ!」
「結局、人員を割いたところで、解決どころか原因もわかんねぇのがほとんどなんだよ。
いきなり始まって、そのうち収まってることも多い。よほどのことがない限り、被害者のほうに命の危険が及ぶこともねぇ」
「……解決する方法は、あるぜ」
あたしが言った言葉に、一兄と冬獅郎が同時に顔を上げる。
「あたしがその謎を解く! 犯人を見つける! それでどう?」
……なんで脱力すんだよ、冬獅郎。
あたしが文句を言おうとした時、一兄が小声で冬獅郎にささやいた。
「悪ぃな、今こいつ、探偵小説にはまっててよ。そういうのに目がないんだ」
「そんなことかよ……」
「ちょっと! 聞こえてんだよ! やるって言ったらやるから。犯人を見つけたら……」
そこであたしは、ニヤッと笑う。
「あたしを死神にして」
冬獅郎は、しばらくぽかんとしたまま、黙ってた。不意に身を起こす。
「じゃあ黒崎、帰る」
「ちょっと待て!」
その襟首を後ろから掴んでひっぱり返すと、冬獅郎はウッと息を詰まらせながら振り返った。
「なんでそうなるんだ! 死神になるのは認めねぇって、口がすっぱくなるほど言っただろうが!」
「うんざりするほど聞いたよ。でもさ。霊障って死神でも犯人を見つけるのが難しいんだろ?
それをあたしが何とかできたら、ちゃんと実績を出したってことになるじゃん!」
「なるか! 放せ!」
「うんって言うまで放さねぇ!」
冬獅郎は、しばらく黙ってた。ややあって、あたしの手を振り払う。
「分かった。そこまで言うなら、その通りにしてやる。犯人を見つけたら、もう止めねぇよ。
ただし見つけられなかったら、死神になりたいなんて二度と言うな。それでもやるか?」
頭のどこかで、冷静なあたしが、ちょっと待て、考えろって言ってるのを感じた。
プロの死神でも難しい、霊障の犯人を見つけられる可能性と、見つけられない可能性。
どっちが高いかなんて、考えるまでもなくはっきりしてる。
こんな約束分が悪すぎるって思ったけど、仕掛けたほうの冬獅郎はシレッとしてる(この野郎……)。
あたしがためらったのを見て、冬獅郎はひとつ、頷いた。
「やめとくか。これに懲りて、できもしねぇことを、できるなんて言うなよ」
その言葉に、あたしはあっけないくらい、ブチンと切れた。
「おーおー、やってやろうじゃねぇか! 絶対犯人突き出してやる!」
さっきまで考えてたことを吹っ飛ばして、あたしは気づけば啖呵を切っていた。
笑いを噛み殺して肩を震わせてる一兄を見て、しまった、と思ったけど、それは後の祭りだった。