レンは、ベッドに座り、俺がやってくるのを待つのが好きだと言っていた。
燈を消した俺がやってきて、ベッドをぎしっと言わせて乗り上げてくる瞬間が一番いいらしい。
俺としては、その後ただ眠るだけっていうのが余りに色気ねぇと思うが。
そうやって、誰かと一緒に眠れるっていうのがただ、嬉しいらしい。
子供みたいなやつだとため息をつきながらも、俺はこいつのそういうところが嫌いじゃなかった。
いや、この際認めておくと。
俺はそのころ、こいつのすることなら何でも、悪くねぇって思うようになっていたんだ。

でも今レンは、俺が入ってきたのにも目を向けず、ベッドに半身を投げ出したまま、頬杖を突いて夜の砂漠を見つめている。
その横顔は無表情で、何を考えてるのか分からない。

「……レン。どうした」
「あの人」
俺が声をかけると、それを待っていたかのように、声をかけてきた。
「ん?」
「募金の人よ」
「……あぁ、募金ね」
「嘘つくの、ヘタすぎ」
じろ、とレンは俺をにらみつけてきた。まぁ、当たり前だ。

「募金でもなんでもいいけど。協力するの?」
見返してくるその瞳が、いつになく鋭く、俺は心中いぶかしく思う。
昼間のやり取りが緊迫していたのは言うまでもないから、敏感になってもおかしくないが。
「わたしは嫌。絶対に嫌よ」
俺が返事する前に、二度も嫌だといいやがった。
もしかして、どこかで分かっているのかもな。俺がどこかへ行ってしまう、気配を。

「また来るの? あのヒト」
「もう、来ないよ」
それも嘘だ。「また来る」。市丸ギンは、はっきりとそう言ったのだから。
その嘘も、見抜かれたのかどうかは分からない。
レンは、ふぅん、と頷くと、また砂漠に視線を戻してしまった。

俺はいつものように燈を落すと、いつものようにベッドに歩みよった。
そしていつものようにベッドに乗り上げる、ギシ、と音がする。
そのままレンを抱きしめ、布団の上へと押しつけた。

「……スターク?」
気持ちを明らかに他に向けていたのだろう、レンは今目が覚めたような顔をして、圧し掛かってきた俺を見上げてきた。
「どうしたの。……何、」
言いかけたレンが息を詰める。俺の掌が、小さな体を撫で回していた。

「待って、何か、変だよ」
「下着が揃ってない、とかまた言うつもりか?」
「そうじゃない、けど」
「どうあっても、今日は抱くぞ」
レンは、こぼれんばかりに目を見開いた。
その黒い瞳に月光が差し、きらきらと美しい。
やがてあきらめたようにその瞳が閉ざされたとき、もったいない、と場違いなことを思った。

***

月が、高い。
俺は身を起こし、頬杖をついていた。
男の我侭を全身に受け止めたレンは、身動きもせずにぐっすりと眠っている。
その清らかな裸身を見下ろした。

「どうして、」
俺のものじゃないような、情けない男の声が漏れたのは、その時だった。
自分でも一瞬、自分が発した声だと分からなかったくらいの間抜けさ具合だ。
俺は掌で顔を覆う。

どうしてだ。
祈るように何度も繰り返し、今は亡き妻の名を呼んだ。
「お前は、恋(レン)。恋じゃねぇのか……?」

返事など、かえるはずはない。求めても、いない。
聞こえるのは、ただ押しては返す波のような、単調で静かな寝息だけ。
静かだな。

そう思った時、不意にゾクリとする気配を感じ、俺は身を起こした。
「……なんだ、ありゃぁ……」
また来る、てのはこういうことかよ。
俺は、10キロほど先の気配に、意識を凝らす。

十人、二十人ってレベルじゃねぇ。百に迫るほどの虚の気配が、その場にはわだかまっていた。
「ご丁寧にも、あの『線』の前かよ……」
踏み越えたら、殺すと言った。奴らは、踏み込んでは来ていない、まだ。
待っているのだ。俺が自ら線を踏み越え、あちら側に加担するのを。

ただし。いくら破面がヒマだからって、俺が出てくるまであの場所で暮らすってワケにはいかねぇだろ。
いつか、必ずしびれを切らして攻め込んでくる。
仮に追い返せたとしても、まるでウンカみてぇに、殺しても殺しても押しよせてくるに違いない。

敵の数がどんなに多かろうが未知数だろうが、必ずこの手で守り抜く。
そう言えれば、ヒーローだな。
でも、それは危険な「賭け」だ。
そんな賭けに使うには、目の前のこの女は大切すぎた。
……こんな形でしか惚れた女を守れないとは。
自虐的な笑みが、気づけば頬に浮かんでいた。

***

それから一時間後。俺は、黒腔を使って現世にやってきていた。
レンと初めて出会った街は相変わらず、うんざりするほどの人の波であふれていた。
騒音、話し声、車のクラクション。
その手垢がついたような空気に息が詰まりながらも、どこか癒されていた。
自分が誰でもあり、誰でもないような。そんな気分になる。
そんな中、俺はあの日、あいつに出会ったんだ。

「レン……」
いるはずがないのに、気づけばあいつの名前を呼んでいた。頬には、苦い笑みが浮かんでいた。
俺のことを、惚れた女との成り初めも忘れるような間の抜けた男だと思ってるんだろうな。
でも、それは俺のついた嘘だ。
その時流れていた横断歩道の音楽、不意に見かけた横顔、その時の衝撃を全て覚えている。

―― 「恋」
あぁ、俺はひとつどうしようもない矛盾を犯したんだ。
俺にもまったく思いがけなかったから、俺に責はない。
あの時、そんなはずがないと知りながら呼びかけた、五百年前に死に別れた妻の名前、恋。
それと、お前の名前が同じだなんて、誰が想像できた?

最後に見た妻と、外見も声も、ふとした仕草まで同じ女を目の前にして、俺は動揺した。
ただひとつだけ言えるのは、俺がこの女を離したくない、ということ。
「もう二度と」という言い方が適切でないとしても。
だから、迷う素振りを見せたレンを説きふせるようにして街から連れだし、翌朝、何も覚えていないフリをした。
あいつ自身が言ったように、出会った状況を忘れてたら、元の場所に返しようがねぇからな。
思えば馬鹿な、俺らしくないことをしたもんだ。

「……もう、いいだろ」
横断歩道の赤信号を睨みながら、俺はひとりごちる。
もう、「らしくない」ことはお終いだ。
あいつに出会う前の、日々に戻るだけなんだ。

俺はレンを、この街に連れ帰るつもりで、ここに来た。
その前にあいつの居場所がまだここにあるのか、確認するために。

横断歩道が青になり、俺はゆっくりと歩き出す。
コインランドリーの横を通り、コンビニの角を右に曲がる。
そこにあった小さなアパートの一室の前で、足を止めた。


アパートの前には、表札が出ていた。
苗字がある、というのは、当たり前のことなんだが俺には意外だった。
五百年前の常識じゃ、苗字なんて上等なもん、ねぇもんな。
でも、良かった、と思う。
あいつには、まだ帰る場所がある。

通り過ぎてゆく中年の女2人が、俺をなんだろう、という目で見ている。
そして、俺が見ている一室のドアに気づくと、そろって眉を顰めた。

「ねぇ、あの部屋に住んでた若い女の人、いなくなって何ヶ月も経つそうよ」
「警察がいくら捜しても、見つからないっていうじゃない」
「どうしたのかしらねぇ。薄気味悪いわ」
破面の聴覚は、人間のそれより、ずっといい。
嫌でも、大音量のひそひそ声が耳に入ってきてしまう。

「何度か見かけたことがあるわ。普通の娘さんだったのにねぇ」
「あぁ、でも、変な噂を子供たちが流してたの、知ってる?」
「噂?」
「ええ。ずっと年をとらない女だって。ウチの子がね。クラスで聞いたって」
「あらぁ、うらやましいわぁ。年を取らないなんて」
「違うのよ。数年っていうレベルじゃないの。5年も、10年も、同じ顔だって」
「そんな訳ないじゃない。ここに住み始めたのも、5年くらい前だっけ?」
「でも、考えてみたら、5年前から全く同じ顔よねぇ」
「5年くらい顔変わらない人だったらいるわよ。もし本当に10年も同じ顔だったら、そんなの『人間じゃない』わ」

あはは、と笑いながら去ってゆく2人の背中を、俺は黙って見送っていた。
「……っと」
頭にこみ上げてきた疑念を、振り払う。
俺は今、何を考えてた?


ゆっくりと、部屋のドアの前にやってくると、ドアに手を当てた。
すぅ、とそのまま体が室内にすり抜ける。
そして、入ると同時に、顔をしかめた。
「なんだ、こりゃあ」
部屋が散らかっているのを、初めに気にしていただけのことはある。
確かに、足の踏み場もなかった。
台所だけはきちんと片付いていたが、その先のワンルームは、服やら本やら好き放題に散らかっている。

とりあえず戻ってきたら、あいつは部屋の掃除が必要だな。
ため息をついた時、ふと近くの本棚に目をやった。
「これ、アルバムか」
破面には全く理解のできないことだが、人間には自分の姿を写真にとって残す、という習慣があるらしい。

そういうのが嫌いそうなあいつだが、それでもアルバムくらいは持ってるのか。
何の気なしに、アルバムを引き抜き、パラパラとめくった。
「やっぱり、なぁ」
開くとすぐに苦笑する。そのアルバムの半分以上は、白紙だった。
いかにも、淡白なあいつらしい。

一番最近の写真には、2009年9月1日、と印字してあった。
会社の集合写真か何かなのだろう。
何十人もが映った写真の最後列の隅っこのほうに、あいつの顔があった。
なんで写真なんか撮らなきゃいけないの、と書いてあるような無表情だ。

次の写真は、ずい分飛んで2005年。友人なのだろうか、数名で映っている。
次は、2000年。その次は、1998年。1996年……。
一枚ずつ捲っていた俺の手が、ふと止まった。
ぱらぱらと、慌てて捲る。
一番最後にあった写真は、1960年。白黒写真だった。
やはり会社の集合写真なのだろうか。そしてやはり、無表情だった。

「どういう、ことだ」
それ以上、言葉が出てこなかった。
どうして、1960年の写真と、今のレンの顔は全く変わっていないんだ?
「50年間、見た目が20代の人間……なんて、いるわけ、ねぇよな」

どうなっている? どうなっているんだ。
ぐるぐると考えながら、これまでのレンの言動を思い出そうとする。
なにか理由になるようなことを、言っていたか?

―― 「このまま一年も十年も百年も五百年も、こんな毎日が続いたらどうしよう」

不意に甦ったのは、この言葉だった。
現世に戻りたいとなぜ言わない、と聞いた時に、レンが返した言葉だ。
「五百年、だと……?」
あの時、「百年や五百年ってことはねぇだろうよ」と呆れて返した記憶がある。
その時、あいつは何て返した?
何も言わず、ただ笑っていたのではなかったか?

「レン……」
どうする。頭をかきむしりたい気持ちに駆られる。
できることなら、今すぐ戻ってレンをたたき起こし、なぜだと聞きたかった。
でも……

「やめろよ」
呟いたのは、自分に、だった。
「やめろ。もう遅い」
そう。それを確かめて、何になる。
「お前は何者だ」なんて。別れを決めた時になって、聞けるわけがねぇだろうが。