土手の上の道を、マウンテンバイクが何台も軽快に駆け抜けていく。
その下に広がる河川敷は、横幅がゆうに百メートルはあるくらいに広くて。
思い思いに、キャンプとかラクロスとか、テニスとかサッカーの練習をする場所がある。
特にサッカーができるスペースは小学生の争奪戦の的になってるんだけど、今日だけは違った。
なぜなら……

「すっげーあいつ、あのシュートを手でキャッチしてるぜ!」
「普通じゃねぇよな」
フェンスに張りついた小学生たちは、スペース俺たちにもよこせって言うのも忘れたように、あたしたちに見とれてる。
いや……正確にはシュートを放つあたしじゃなく、それを軽々と手でうけとめる冬獅郎に。

パソコンを覗き込んだ一兄が冬獅郎に、もう少しかかるって言ったのをあたしは聞き逃さなかった。
忙しいってぼやくのを、このままここで待ってても時間がかかるのは同じだろって強引に説き伏せて、サッカー練習に付き合わせたのが三十分前。
嫌々ながらも義骸に入った冬獅郎は、古着みたいなジーンズと黒いTシャツ、ていうシンプルな姿だ。
受け取ったばかりのボールを、無言であたしに軽く、蹴り返してくる。
特に強くはないけど(力加減してるんだろうな)、的確に、あたしの足元に飛び込んできたそれを、曲げた膝で受け止める。
スニーカーの底でボールを踏みつけ、きっと冬獅郎を睨んだ。

こいつほど、あたしのサッカーの相手をうまくやってくれる奴は、他にいない。
なぜなら、どれだけあたしが本気でシュートしても、受け止められなかったことは一度もないから。
「……いくぜ」
どこからでも、と冬獅郎はあたしに掌を向けて見せる。その余裕すぎる表情が、あたしをちょっとだけチリ、と苛立たせる。
「本っ気で、行くからな」
あたしは。いつからこいつに、全然かなわないと思い始めたんだろ?
不意に湧いてきた気持ちを振り払うように、あたしはボールを前に蹴り、走り出した。

ぐんぐん距離が近くなる。10メートル……5メートル……あいつの無表情が近づく。
危ねぇ! 近すぎだ、ていう野次馬の声が聞こえても、あたしは立ち止まらなかった。
ボールを蹴りだしながら、全力で駆ける。姿が直前まで近づいた時……あたしは思いっきり、あいつの胴体に向ってボールを叩き込んだ。
うわぁ、と周囲から声が漏れる。


あたしはその場で止まり切れず、そのまま数メートル走って、止まった。
弾む息を整える。ボールがバウンドする音も、冬獅郎がたじろぐ気配も、感じ取れない。
「……とう……」
心配になって振り返った時、トン、とボールが弾んだ。
「今のは、けっこう良かったぜ」
そう言って立つ冬獅郎の手は、赤くなってもいない。息を乱してもいなかったし、これまでと全然かわらない無表情だった。
ボールを、あたしは手で受け止めた。

「……もう、いい」
なんだか、とてもみじめな気持ちだった。自分でもなんで急にこんな気持ちにならなきゃいけないのか、分からないほどに。
冬獅郎は、怪訝そうに眉間に皺を寄せて、あたしを見た。
「やるっつったり、やめるっつったり、飽きっぽい女だな」
「うるさいな!」
思わず、周りが振り向くような大声を出していた。

きょとん、と目を見開いた冬獅郎を見て、言いすぎた……と反省する。
でもあいつは、そんなあたしのいきなりの不機嫌にも、怒り出したりしなかった。
「じゃ、帰るぞ」
そう言って、くるりと背中を向け、あたしがついてくるのを待たずに土手に向って歩き出した。


……いつから。
そう、いつからあいつは、あたしにとって「届かない存在」になったんだろう。
初めて会ったころ、怪我して気を失っていたあいつを、助けたのはこのあたしだ。
背負ったあいつはあたしより小柄だったし、軽かった。
苦しそうに顔をしかめるのを見て、あたしが護らなきゃって、そう思ったんだ。
ベッドに横たわるあいつの白い顔を、食い入るように見ていた夜を、遠く思い出す。

今冬獅郎は、夕焼けの中、土手へと上がる細い道を歩いている。あたしとの距離は、もう20メートルくらいに開いてる。
あたしは、聞こえないくらいの小さな声で、呟く。声は途中でかすれて、河川敷のざわめきの中で自分でも最後まで聞き取れなかった。
「……『お前に助けたいやつがいるみたいに。お前を助けたいやつだっていっぱいいるんだ。忘れんなよ』」
それは、ひどい傷を負わされながらも弱さをみせなかったあいつに、あたしが言った言葉。
あの時は、本当にそう思っていた。
あたしが、こいつを助ける。少なくとも対等なんだって思ってた。
今こんな違った気持ちで、同じ言葉を繰り返す羽目になるとは夢にも思わなかったよ。
あの時のあたしは……どこへ行った?

「京楽さん」
ぽつりと、呟く。
冬獅郎があたしを現世に戻す手続きに走り回ってた時、交わした会話を思い出した。
「あんたの言うとおり……やっぱり、無理なのかな」
言うと、本当にその言葉が真実になる気がして、しんから寂しくなった。


行っちゃえよ。あたしは、遠ざかるその背中を、ぐっと睨みつける。
本当にあいつがそのまま行っちゃえば、悲しくなるのは目に見えているのに。
もう一人の冷静なあたしが、矛盾してると呟く。でも、考えを止められない。
あたしが今立ち止まってることも、距離が遠ざかって行くことも、気づいてないんだろ?
あたしばっかり、追いかけてるんだろ?
あたしが立ち止まれば、そのまま離れるしかない関係だって言うなら、いっそ。

その時だった。土手沿いの道路に上がった冬獅郎が、いきなり振り返ったんだ。
「なーに、睨んでんだよ」
あいつにしては厳しさのない、ゆるんだ声だった。え、とあたしは思わず声を出す。
「あんた、後ろに目、ついてんの?」
「んなわけねぇだろ」
冬獅郎が、立ち止まってる。あたしが来るのを、待ってる。
嬉しいのと、悔しいのと、寂しいのが入り混じった、ぐちゃぐちゃの気分になる。
「……ずりいよ」
そう呟いた声は、あいつには届かなかっただろうな。あたしは思いをその場に振り捨てて、冬獅郎のもとに駆け寄った。


***


急に、妙に無口になった夏梨は家につくなり、宿題があるからと部屋に戻ってしまった。
ガサツなのかと思うほど元気なくせに、突然やけに大人びた顔をする。
何を考えてるのか、と思ってすぐに止める。
相手の心を、自分が理解できるなんて思うのは傲慢だ。

「黒崎? できたか」
黒崎の部屋のドアを開けて覗き込むと、ちょうど紙を束ねていた黒崎が振り返った。
「おー、できてるぜ。サンキュな、夏梨と遊んでくれて」
「別に」
印刷した何十枚もの紙を律儀にファイルに挟みこみ、俺に手渡してくる。
ぱらぱらと何枚か捲って、俺はほぉ、と息をついていた。

「いんたーねっと? ていうのはすげえな。完璧だ」
そこには、「シェパードの飼い方」のタイトルと、子犬の受け入れ方、えさのやり方などが延々と書き連ねられている。
「さっきの夏梨の話で、シェパードだって分かったからな。そっからは簡単だったぜ。……それにしても世間って狭いよな」
「まったくだ」
ここで、黒崎に嘘をついてもしょうがない。俺はため息をついて、認めた。

「何のことはねぇ。子犬たちは、知念家の親に殺された。そして自縛霊となってさまよううちに、狛村に魂葬された。そして、今十番隊にいる」
「なんで、それを夏梨に言わなかったんだよ?」
「聞いておもしろい話でもねぇしな」
夏梨は子供のくせに現実的なやつだから、自分の友達の親が子犬を殺したって可能性には、とっくに思い至ってるだろう。
でもそれと同時に、子犬はどっかで生きてるんじゃないかっていう希望も、まだ持ってるような気がした。
こんな世知辛い事実、別に知らなくてもいい話だ。
単純に、犬の飼い方なんて調べてるところを見られたくなくて隠したが、結果的にはそれでよかったんだろう。

「……黒崎。夏梨に、ついて行ってやってくれ」
「やっぱり、危険なのか?」
眉間に皺を寄せて聞き返した黒崎の前で、安心させるように首を振る。
「いや、まず大丈夫だろう。念のためだ」
「……犯人が分かると思うか? あいつに」
「無理だろ」
あっさり言うと、黒崎は肩を落とした。
「安心したような、がっかりしたような……。じゃあ何で、夏梨に任せる気になったんだよ?」
死神を諦めさせるために決まってんだろ、と返そうとして、ちょっと考える。
ちょうどいいと思って振ってみたが、あの時自分の心にあったのは、それだけじゃない。

「……一匹、生き残ってるんだろ? 白い子犬」
しばらく沈黙した後で、俺は切り出す。黒崎が頷いた。
「このままじゃ他と同じように殺される。でも夏梨なら、何とかできるかもな」
たった一匹の白い子犬。その生き死にを気にかけるなんてガラじゃねぇ……特に、死神にとっては。
こんなのは、例えば夏梨みたいな人間の仕業だ。

「……あいつは、あいつにしかできねぇことがある」
俺は呟いた。何を焦ってるのか知らねぇが、自分以外の何者かになる必要なんて、ないんだ。
「それを聞いたらあいつ、喜ぶぜ」
ほろ苦く微笑んだ黒崎に笑みを返して、俺はその場を後にした。