それから、二日後。
あたしは、絽夏ちゃんの家へもう一度、やってきていた。
「はーい」
スリッパを鳴らしながら現れた絽夏ちゃんは、目を丸くしてあたしの隣を見やる。
あたしはなぜか気恥ずかしいような気がしながら、隣を手で指して言った。
「あー……この人は、黒崎一護。あたしのアニキなんだ」
「この人」なんて一兄のことを呼ぶのは変な感じだ。でもさすがに実の兄を「こいつ」とは呼べないし。

絽夏ちゃんは、あたしが言い終わる前に、ほっとしたように笑っていた。
「そうじゃないかと思った。遊子ちゃんによく、話聞いてるから」
「どんな話なんだ」
一兄は困ったみたいに頭を掻いたけど、100%お兄ちゃん自慢だと思うぞ。
「それで、今日は……」
「犬が飼われてるところを、見せてほしいんだ」
あたしは、絽夏ちゃんの言葉尻を引き継いで言った。絽夏ちゃんがためらいながらうなずく。

「おい、子犬は原因じゃねぇって、冬獅郎が言ってただろ?」
スリッパを準備しに絽夏ちゃんが部屋にいったん消えた後、一兄が肘で肩をつついてきた。あたしは肩で押し返す。
「でもさ、今ある情報の中じゃ、それが関係あるとしか思えないんだ。
ひとつ。霊障は、子犬がいなくなってすぐに起こってる。
ふたつ。霊障の被害にあってるのは両親だけで、同じ家に居ても絽夏ちゃんには被害がない」
「どういう意味だよ?」
「多分だけど。子犬は、両親に殺されてるんだよ。絽夏ちゃんは気づいてないけど」
一兄は、それを聞いて、なぜかちょっと気まずそうな顔をした。
「もしかしたら、他に理由はあるかもしれないよ。数年でブリーダーとして有名になるってことは、何か良くないこともしてるのかもしれないし。
でも、なんにしろきっと、犬がらみが一番有力そうだから、まずそこから当たろうと思って」
「……冬獅郎、やべーかも」
「何か言った?」
「別に。お前が、友達の親にも、そこまで理路整然と、シビアに見られるって思ってなかったからよ」
「……どーせ、あたしはドライだよ」
「誉めてんだ」

一兄も冬獅郎も、ただの子供の遊びだと思ってるのかもしんないけど、あたしは真剣だった。
だって、ここで犯人をつきとめたら、死神になれるチャンスが一気に広がる。
それに。命の危険はまずないって冬獅郎は言い切ったけど、やっぱり誰かを苦しめるなんて絶対にいけないことだ。
絽夏ちゃんのためにも、犯人は捕まえてあげたかった。

フロアに足を踏み入れたとたん、ゾクッ! とした。
二日前、家の前を通りかかった時に感じた寒気とは、比べ物にならない。
霊障は収まるどころか、どんどん強まっているのは間違いなさそうだ。あたしは隣の一兄に囁く。
「一兄……やっぱりここ、変だ」
「そうか?」
あたしは、一瞬ぽかんとして一兄を見上げた。死神のくせに、本当にわからないのか?
「……鈍すぎ」
「悪かったな。俺は、霊圧を感じる力はすげー弱いんだよ」
ある意味、ここまで来ると頼もしいよ。あたしは心中、ため息をつく。


「で、親御さんの具合は、どうなんだ?」
一兄は前に視線を戻し、スリッパを持って戻ってきた絽夏ちゃんに声をかけた。その肩が下がってるところから、ある程度わかりはしたけど……
案の定、絽夏ちゃんは唇をかみ締めた。
「あれから、大学病院の先生を紹介してもらって、診てもらったんだけど……どこにも異常はないって」
「異常なしって……二人とも、寝込んでんだろ?」
あたしは思わず大声を上げる。絽夏ちゃんは泣きそうな顔でうなずいた。
「でもどんなに検査しても、どこにも悪いところは見当たらないの。薬の出しようがないって、先生も困ってた」

長い廊下の突き当たり、ガラスの引き戸の鍵に手をやりながら、絽夏ちゃんは続けた。
「ただ、お父さんもお母さんも症状が同じだから、伝染病じゃないかって言われてるの。一緒に暮らすのは危ないって」
「……避難、しないのか?」
こくり、と絽夏ちゃんはうなずく。振り向いたその表情は、涙がたまってたけど凛としてた。
「だって、伝染病じゃないもの。いきなり家が揺れたり、物が飛んできたりするのは何故? 同じ時期に起こるようになったのはどうして? 薬じゃ、治らないよ」
カチ、と音を立てて鍵が開く。きっぱりとした動作で、戸を開け放った。
「あたし達、親戚とか本土にはいないし、行くところないの。あたしがついててあげなきゃ」

その声が、わずかに震えてるのは、気づかない振りをした。
そうだよな、当然怖いし、心細いよな。だけどたった一人で親を守ろうとしてるのは、偉いよ。
こんな子に辛い思いさせるなんて許せない、とあたしは霊障に大して憤って……ふと、根本的なことに気づいた。
どうして、絽夏ちゃんは同じ家の中にいて、一人だけ無事なんだ?


「ここからが、犬舎よ」
扉が開いたとたんに、一兄とあたしは同時に声をあげていた。広い。思ってたより、とっても広い。
一軒家くらいの敷地に、犬小屋がびっしりと並べられていた。たぶん、30くらいはあるだろう。
周囲はぐるっとフェンスで囲まれていて、一箇所だけ玄関へ抜ける入り口が設けられているけど今は鍵がかけられてる
整然と四列に並べられた犬小屋の前には杭が打たれていて、ジャーマン・シェパードが一匹ずつつながれている光景は、圧巻だった。
見たことないけど、警察犬の訓練学校とかはこんなんじゃないのかな。
違うのは、コロコロした子犬があちこちにいることだった。まだつながれていないその子たちは12・3頭はいて、どれも黒っぽい色をしている。

「ん〜……」
あたしは、周りを見回す。いかにも霊障の温床、というようなおどろおどろしい空気を予想してたんだけど、案外普通だな。
でも、飼い主の絽夏ちゃんが来たっていうのに、犬たちはほとんど何も反応しなかった。
普通、犬って飼い主が来たら、尻尾振って喜ぶもんじゃないの?

「生き残ってるっていう、白い子犬はどこにいるんだ? どうして、その一匹だけ無事なんだ」
考え込んでるあたしの後ろで、一兄が聞いた。あたしも頷く、それだけは聞いておきたかったんだ。
「見たらすぐ分かるよ。来て」
絽夏ちゃんはそう言うと、そろえてあったサンダルをあたし達に示すと、先に庭に下りる。あたし達も続いた。

いくつかの犬小屋の前を通り、端っこに置かれた小屋のほうに、絽夏ちゃんが歩み寄る。
「これ以上近づかないで」
そして、犬小屋の暗い入口に向って、呼びかける。
「セシル? セシル」
返したのは、とっても飼い主に向けてるとは思えない、唸り声。
来るな。そう人間の言葉で言うみたいにはっきりと、抵抗する声。
歯をむき出しているのが見えるようで、あたしはその場に足を止め、一兄と顔を見合わせた。

絽夏ちゃんは、沈んだ声で説明した。
「セシルは、残った白い子犬の母親なの。野性味が強い犬って子供が生まれると、周りを威嚇するようになるんだけど、セシルはそのタイプで。
その白い子は、セシルの初めてで、一匹だけの子供なの。
5匹の、白い子たちがいなくなってますます、警戒するようになったの。あたしたち人間のせいだって思ったのかな」
あたしと一兄は外側から犬小屋の中をうかがおうとしたけど、狼みたいに底光りのする瞳がにらみ返しただけだった。
お母さん、だもんな。子犬を護ろうとして、当然だよな。あたし達はそっと犬小屋から離れた。

二十分後。あたしは、犬小屋のあたりを一通り見てまわって、足を止めた。
一兄は、様子を見てくる、と言ってどこかに歩いて行って、今はいない。
絽夏ちゃんは疲れたみたいに、入り口に腰を下ろしてる。
考えられるシナリオは、一つだった。
この犬舎の敷地はフェンスで囲われている。玄関へ抜けるドアには鍵がかかっている。
となれば、外から侵入して白い子犬だけ持ち出したって可能性も少なくなる。
やっぱり、子犬を殺したのは、絽夏ちゃんの両親。
ただ、飼い主でさえ牙をむくセシルがいたために、セシルの子供だけは連れ出せなかった。

でも。だからって、子犬じゃないなら、誰が殺した両親を恨んでるっていうんだ?
―― 「成仏した魂以外の、全部だ」
冬獅郎は、霊障を起こす原因になるものを、そう言った。多すぎって、あたしは心の中で突っ込む。
「……待てよ」
成仏した魂以外の全部。それなら、恨んでるのは人間とは、限らないじゃないか。
そう思い至って顔を上げると、突き刺すようなセシルの視線が、まっすぐにあたしを捕らえていた。
何も言わなくても、同じ人間じゃなくても、「私は怒ってる」とストレートに伝えてくるような目だった。

「まさか」
辺りを、見回してあたしは戦慄した。
30匹の親犬の。十数匹の子犬の。二対の目が、あたしたちをじっ……と、見ていた。
全体を統率する何かがいるみたいに、同じように動きを止め、同じような体勢で、同じような目で。
まるで、獲物に飛びかかる前に狙いを定めるみたいに見えた。
相手は、あたし達よりも体が大きなジャーマン・シェパード。勝手に背筋がぞうっと冷たくなる。


その時だった。その場の不気味な静けさを吹き飛ばすような、大きな音が聞こえた。
異変を感じ取っていたのは絽夏ちゃんも同じだったんだろう、ビクンと両肩が跳ね上がる。
犬達がいっせいに、そちらに視線を向ける。痛いくらい感じていた圧力が、消えた。
「一兄! どうしたの」
鍵を開けていたフェンスを開けて、向こうから大股で戻ってきた一兄に、あたしは声をかける。
こんなのはまったく一兄らしくない。……あからさまに、ショックを受けた顔をしてた。

一兄は、今初めてあたしの存在に気づいたような顔をした。
「夏梨、……」
そこまで言いかけて、言葉を中途半端に切る。
「何? どうしたの、おかしいよ」
「何、でもねぇ」
何でもなくないのは見たら分かる。
「ちょっと、一兄」
「悪い夏梨、俺ちょっと急用思い出したから、帰るわ」
「は?」
なんちゅう不自然な。文句を言おうとした時、もう背中を向けていた一兄は不意に、あたしの肘を取って引っ張り寄せた。
「なんだよ?」
ごそごそ言い合うあたしたちを、絽夏ちゃんが不安そうな顔で見ている。

「夏梨。犯人探しは中断だ。ここからは俺がやる」
「……へ? 何言ってんの、これはあたしが解決するって言っただろ」
「それどころじゃねぇ!」
一兄の言葉が高くなり、あたしは言い返そうとした言葉を引っ込めた。
「……どういうこと? 一兄、何かわかったの?」
「……俺にもまだ、分からねぇんだ。ただ、お前は関わらないほうがいい」
全然、一兄の言ってることは理解できなかったけど……でも、何かをつかんだこと、それは説明できることじゃないことは、分かった。
それに一兄は、意味のないことは言わない。あたしは、ぎゅっと唇を噛み締めた。

「……分かったよ、犯人探しは中断する。でも中断だからな? はっきり分かったら教えて」
一兄は、たぶんわざと、答えなかった。