きし、きし、と音を立てて、ワックスのよく効いたフローリングの廊下を歩いてゆく。 床はつやつやと冷たかった。 水音が聞こえる、俺は耳を澄ませる。 この廊下の突き当たりにある、半透明のドアの向こうで、音がしているようだ。 人の気配がする、話し声が聞こえる。鼻を鳴らすような小さな声も、複数聞こえる。 キャン! 一声鳴いた声に、足を急がせた。 半透明のドアをひき開けると、洗面台と脱衣所になっていた。 その向こうの、風呂場へのドアは開け放たれている。 背中を向けて立った、一組の男女の姿が見える。 女は紺色のエプロンにジーンズ姿、男はモスグリーンのシャツにスラックス姿だ。 その足元に、ちらちらと白い小さなものが動き回っているのが見えた。白い、犬だ。 何をしているんだ? 後ろから、覗き込む。 すると、二人の足元に、白くて平べったいものが横たわっているのが見える。 びしょぬれのそれは、一瞬タオルかと思ったが……よく見ると、違っていた。 水に浸された、白い子犬の死体だった。 俺が何も言えずにそれを凝視しているうちに、男が女にささやいた。 「絽夏が学校から帰ってこないうちに、早く済まさないとまずいぞ」 女が、眉間にしわを寄せてうなずく。男が手を伸ばす。尻尾を振って駆け寄る子犬に、思わず身を乗り出す。 行くな! しかし、男の手はいとも簡単に、子犬を捕まえ抱えあげた。 そしてためらいなく、その小さな体を目の前の、湯船の中に沈めた。 バシャバシャ。生き物が、必死に水を掻く音が聞こえる。男の、力が入った肩のあたりが見えた。 「っ、やめろ!」 俺は思わず大声を上げる。男と女が、驚いた顔で振り返る。 距離は、数歩しかない。大股で湯船に駆け寄る。いっぱいに張られた水の中で手足を硬直させた、犬の姿が見えた。 水面に、その下の犬の姿に、手を伸ばす。指先が水に触れる…… ばしゃん!! 音がした。とたんに、冷たいものが全身を覆う。 ぎょっとして声を立てようと口を開けると、冷たい水がどっと口の中に、気道に入ってきた。 咳き込む。でも求めていた空気はどこにもない。水しかない。 ここは……あの風呂の中なのか? そんなはずはない、と俺は思う。 手を伸ばしても、足で蹴ってもどこにも触れない。あの湯船はこんなに大きくないはず、なのに。 男の手が俺の首をつかんでいるのを、信じられないような思いで見る。 その指は俺を締め上げ、とても水上に出られる気がしない。ゆらゆらとゆれる水面の向こうに、人の顔が二つ見えた。 ―― 助けて。 叫びたくても、白い泡しか口からは、漏れない。 ―― 殺される! 恐怖が胸の奥から、こみ上げる。薄れ行く意識のなかで、男の声が聞こえた。 「白い毛色で生まれるなんて、かわいそうに。生きていたところで居場所なんかない。死んだほうが幸せなんだ」 *** カシッ、と硬質な音が鋭く空間に響き、俺は目を覚ました。 「……?」 一瞬、ここがどこか分からなかった。ソファーの背もたれに引っ掛けられた羽織。そこに刻まれた「十」の文字を見て、我に返った。 時計を見ると、定時はとうに回っていた。外は茜色に染まっている。 きちんと書類が右端に束ねられた隊首席。本が並べられた本棚。いつもの空間だ。 慣れ親しんだはずの空気を異質だ、と感じたのは、そこが無人だったからだろうか。 自分が目を覚ます原因になった音源を捜したが、それらしいものは見つからなかった。 今の夢はなんだ? 額に浮かんだ汗を拳で拭いながら、俺は考える。 まったく知らない家、知らない人間。しかし、男は「絽夏」と口にした。その名前は、夏梨が口にしていた、霊障が起こっている家の子供じゃないか? その上、殺されようとしていたあの子犬たちは…… ただの夢、ではなさそうだ。 天井を見上げたままふぅ、と息をついた時、隣にあたたかい気配を感じて反射的にそちらを見る。 白い子犬が一匹、俺の顔の横に寄り添うように眠っていた。 俺が起きたのに気づくと自分も跳ね起き、俺の頬をぺろぺろと舐めてくる。 頭をなでて上半身を起こすと、それでも顔に近寄ろうとする。 心がどこにあるのか、こいつらは分かるのかもな。 「お前らのせいで、変な夢見たんだぞ」 頭を小突いてやっても、ぜんぜん堪えたようには見えない。 ぶんぶんと尻尾を振っているそいつに、俺は苦笑した。 他の四匹の子犬は、向かいのソファーの上で身を寄せ合って眠っている。 そいつらにちょっかいを出さないように、起きている犬を抱き上げた。 そしてようやく、床の上に開いたまま落ちていた本の存在に気づいた。 『霊障の事象と研究』。 題名から見れば一目瞭然だが、初めから終わりまで愉快な本じゃない。 さまざまなものが原因となって引き起こした霊障の数々と、その結果が記してある。 あいている方の片手で拾い上げてぱらぱらとめくってみる。 原因は、どこにあるのか。 霊障は、怒りや悲しみや悔恨の念が凝り固まった時、それが目に見える現象として現れるものだ。 原因となりえるのは、人間はもちろん動物から植物まで、生あるものから自縛霊まで、あらゆるものが含まれる。 わずかだが、破面や虚、果ては死神から羅刹界の者までが原因となるものも報告されている。 今回にあてはめて考えてみれば、可能性が高いのは、殺された犬の親か、と俺は見ていた。 飼い主と犬の間に信頼関係があればとにかく、生まれた子犬を商品価値がない、という理由で殺すような人間だ。そんなものは皆無だろう。 犬は、人とは比べ物にならない嗅覚と聴覚を持っているという。 殺される直前の小犬たちの悲鳴、死のにおいに、気づくのは当然ではないだろうか。 そう。あんな……風に。 不意にさっきまで見ていた夢を思い出しそうになり、イメージを振り払った。 「日番谷隊長、城崎です! 入っていいですか?」 子犬を抱き上げて立ち上がったとき、ドアがノックされた。 そして俺が返事を返す前に、 「いいですよね? 城崎、入りまーす!」 遠慮もへったくれもなく、バーンと引き開けられる。 「……」 子犬を抱き上げたままの俺と、戸を開け放った格好のままの城崎……十番隊末席の視線がかち合う。 栗色の髪で、死神にしてはやたらと陽気な顔立ちをした女は、パーッと口元に笑顔を浮かべた。 「子犬と戯れてる隊長も素敵です! 戸の後ろでもだえちゃいました」 「……待て。戸の後ろ? いつからいた。いつからいたんだ!」 「秘密でーす♪」 松本とは別の意味で、性質が悪い。 俺は咳払いして、隊長らしい威厳を取り繕う。 「で。何の用だ?」 「はい。流魂街で、牛乳を売ってるところがあるって聞きましたよ! 潤林安です」 更科。そこで城崎は、俺も知っている店の名前を挙げた。 牛乳くらい瀞霊廷でも売っていて当然のようだが、獣の乳を忌み嫌うお貴族様のせいで、店は一箇所もない。 休日にでも気づけば教えてくれ、と城崎に言ったのは事実だがこの様子、思いっきり業務時間中に探してやがったな。 そんな俺の思惑など露知らず、城崎は無邪気な笑顔のまま、俺がのけぞるほどの勢いで身を乗り出してきた。 「この子たちのご飯ですよね? あたし、今から買ってきます!」 「いや、いい。俺が行く」 子犬を下に下ろして隊首机の引き出しから財布を取り出すと、隊長が自分で? と相当意外そうな顔を返された。 「いいんだ。ちょうど、実家に顔を見せろって言われてたしな」 ちらりと、隊首机の上に置いた、ばあちゃんからの手紙を見やる。 忙しいだろうけど、たまには顔を見せに帰ってきなさい、と昨日とどいた手紙には書かれていた。 確かに、ここ数ヶ月、まったく戻ってなかったのを思い出して後ろめたくなっていたところだ。 「そか。隊長、ゆっくりしてきてくださいね♪」 城崎はそれ以上突っ込んでくることはせず、ちょっと下がって微笑んだ。 「? あれ? 隊長?」 子犬の世話を頼み、俺が部屋を出ようとしたとき、城崎が驚いた声を上げた。 「何だ」 振り返ると、ソファーの脇の壁に立てかけられた、姿見を指差している。 「鏡、大きなヒビ入ってますよ? おっかしいなぁ、いつからでしょうね」 「え?」 そう返した俺は、きょとんとして見えたことだろう。 確かに、縦長の姿見の、上から下まで斜めに、一直線に線が入っていた。 昼間、松本がこの鏡を見ながら化粧していたから、その時点でヒビが入っていたら気づいたはずだ。 だとすると…… 目が覚める瞬間、カシッ、と鋭い音が響き渡ったのを思い出した。 あの硬質な音、鏡が割れる音と取れなくもないのか…… そこまで考えて、冗談じゃないと考えを振り払う。 自分の力さえコントロールできなかったガキの頃じゃないんだ。 俺は首をひねりながら、修理の手配をついでに頼み、その場を後にした。 *** 空座町は、夕焼けに沈みつつあった。 「どういうことなんだ……」 走りながらつぶやいた自分の声が、自分でも驚くほど動揺していて、俺は却って我に返る。 いろんなことが渦巻いている。 夏梨のこと、絽夏という少女のこと、さっき見たあの家の景色。そして、冬獅郎のこと。 何がなんだかさっぱり分からないが、これは大事になるぞ。そんな予感がしていたんだ。 それにしても……本当に霊圧探査が苦手な自分にうんざりする。 さっきから捜し求めている奴の霊圧はぼんやりと分かるが、「この方角にいる」程度でぜんぜんアテにならない。 井上でも呼ぶか、と浮かんだ考えを、すぐに振り払う。 おそらく……あまり大勢の人間を、巻き込むべきじゃないんだ。 俺はその場に立ち止まり、大声を上げた。 「おいっ、車谷! アフロっ!! どこだっ!」 アフロ「死神」と呼ぶことだけは、控えた。ぎょっ、とした顔で通りの人々が振り返ったが、それを気にする余裕はねぇ。 ルキアは今空座町にはいねぇ、とすれば、ここにいる死神はこの町の担当の車谷以外は、ありえなさそうだった。 相手に不足は大有りだが、仕方ねぇ。 走りながら、三回ほど怒鳴った時だった。無人の公園のそばを通ったとき、 「誰だ、俺を呼んでんのは!」 上から振ってきた声に、思わずあわてて顔を上げる。電信柱のてっぺんで、見慣れたアフロが揺れているのを見たとき、不覚にもほっとした。 「アフロ!」 「アフロじゃねぇ、車谷だ! 誰かと思えば貴様か、死神代行」 「死神代行じゃねぇ、黒崎一護だ!」 にらみ合う。でも、俺はそんなことするためにこいつを探してたわけじゃねぇ。 俺は車谷を見上げながら、無人の公園の中に足を踏み入れた。 「頼みがある。どうしても伝えたいことがあるんだ。瀞霊廷に……ていうより、日番谷冬獅郎にだ」 「ハァ? この俺が、なんでお前の使いっぱしりをしなきゃいけねぇんだ!」 思ったとおり、あからさまにイヤそうな顔とともに居丈高に言い放った車谷に、俺はガバッと頭を下げた。 「頼む。やってくれたら、しばらく空座町の虚は全部俺が片すからよ。どうしても伝えたいんだけど、俺には手段がねぇんだ」 車谷はしばらく黙っていたが、やがて頭をガシガシと掻いた。 「あーもう、そんな目で俺を見るな! 悪役みてぇな気がしてくるだろうが。何だ、日番谷隊長にとって、それは必要な情報なんだろうな! って、なんで目を逸らす!」 「……きっと、だよ。俺も確証はねぇ」 「……聞くだけ、聞いてやる」 「一言だけでいいんだ。『お前にしかできないことがある。知念家に来てくれ』と」 「意味わからんな。他の死神じゃ無理なのか」 俺がうなずくと、車谷はしぶしぶ、といった風にうなずく。ふっ、とその姿が瞬歩で掻き消えるのを、見送る。 ほっと肩の荷を下ろしたところで、あたりが夕闇に沈んでいることに気づく。 それは、街が見下ろせる丘の上のコーヒーショップのオープン席で、あいつに初めて会った日を思い出させた。 ゆっくりとした足取り。キャスケットからのぞく銀色の髪。 俺は声をすぐにかけられなかった、その理由は―― 灯り始めた街の燈を見下ろす瞳が、あまりにさびしそうだったからだ。 ひとつひとつの燈の中に、誰かの小さな生活が詰まっている。 それを見て、祈る人間と、呪う人間がいるのだと、どこかの本で読んだことがある。 あいつは、祈るようにも、呪うようにも、見えなかった。 ただ、手が届かないものを見るように、うらやましそうな目をしていたよ。 俺たちは。もしかしたら、あいつのことを、何も分かってなかったのかもしれない。
最後あたりにある一護の回想、日番谷と初めてであった場面は halcyon daysで書いた捏造でございます。