いつ果てるとも知れない、絹糸のような雨。
音もなく夜の街に降り注いでゆく。
立ち上る水蒸気の向こうで、ぼんやりと輝くのは、夜空のたった一つの光源。
雨の中の朧月は、美しいというよりも……おそろしかった。

黒い睫毛に落ちた雨粒が、スウッ、と見開いたままの眼球の上を滑って地面に落ちた。
それでも、その瞳は瞬きをしない。
輝きを失った瞳孔は、その人間がただの「モノ」と化していることを示していた。
倒れ伏した体の下に、水よりもワントーン暗い色の液体が広がってゆく。
ワンピースの上にエプロンを纏っているが、肩口に石榴(ざくろ)のような傷口がぱっくりと開いていた。
そして、その上に庇うように覆いかぶさっていたのは、スーツ姿の男だった。
スーツは、雨にぐっしょりと濡れ、伏せた頭から黒い液体が流れ出している。
……濃厚な、血のにおいがする。

壊れた雨樋の水が、どっと零れ落ち、二人の体を更に濡らした。
その二人が先ほどまで談笑していたに違いない、一戸建ての家は半壊していた。
ジジッ……壊れた蛍光灯から、火花が散る。
部屋の中からは、突然の破壊から免れたテレビがチカチカと光を放っている。


目の前の光景の中から、全ての命は拭い去られているか?
それを確かめるような、温度のない見下ろす視線が、ゆっくりと庭を舐めてゆく。
屋根の上の、微動だにしない人影。
風にあおられ、ばさり、と着物の裾が揺れた。
漆黒の単衣と袴に身を包んだ、少年とも、女とも取れる小柄な体格だった。
チャキ、と音を立て、手にした日本刀を中空に差し出した。
その銀白の刃を、悪夢のように赤い血が滑っていく。
それは、黒と白に閉ざされた世界の中で、唯一色を持っていた。
その惨劇とは裏腹に、雨音さえ聞こえない世界は、まるで絵画のように閉じていた。

「あんたを、絶対に許さないわ」

その絵画の中を、凛とした声が貫き……世界は息を吹き返した。
倒れた二人の傍に、フッと人影が現れたのだ。
それは、見下ろす人影と同じように、上下とも黒の着物で固めた少女だった。
年のころは16歳くらいで、長い黒髪をポニーテールにまとめ、赤いリボンで結わえている。
澄んだ琥珀色の瞳が目を惹く、街を歩けば「かわいらしい」と評されるだろう容貌。
しかし、その瞳は今は、相手を焼き切ろうとでもするかのように、爛々と燃えていた。
手にしているのは黄金色の錫杖。
切っ先を、まっすぐに屋根の上に立つ影に突きつけていた。

「……ムダだ。お前に俺は殺せない」
屋根の上に立つ人影が、初めて口を開いた。
大人の男にしてはまだ高い声……まだ声変わりも迎えていない少年だと知れた。
その時。
「疾風(ハヤテ)!」
張りのある艶っぽい女の声が、その場に異質に響いた。
疾風、と呼ばれたその少年が、首を巡らせて声の主を見た。
「……もう一人。いや、二人いたのね」
少女が、新しく現れた二つの影を睨み据え、つぶやいた。
少年の隣に降り立った影は、輪郭から察するに明らかに女。
その隣に一呼吸置いてフッと現れたのは、大柄な男の影だった。


「疾風。あんた……」
女の方が、眼下の状況を見下ろすと同時に、言葉を発した。
「邪魔したから、二人殺した」
返したのは、少年の平坦な声。
その、モノを片付けたかのような何気ない声音に、庭に立つ少女の肩が震えた。
「その女も殺すか」
少年の声に、ぎり、と歯をかみ締める。
「ふざけるな……殺すのはあたしの方よ!!」

「疾風。その娘は殺すな。それじゃ『意味がねぇんだよ』」
意外にも、それを止めたのは、女の隣に佇んだ男の方だった。
そして、自分を見上げる少女に、冷たい視線を走らせた。
「その実力じゃ千年早い。帰るぞ」
最後の言葉は、女と少年に向けられた。
そして、3人は少女を無視して、背中を向ける。
「……帰るってどこよ! ソウル・ソサエティね?」
「だったらどうした。俺達を追ってくるか? 独力じゃソウル・ソサエティにも入れない死神代行風情が」
ぎり、と茜雫が唇をかみ締める。その眼前で、次々と3人の姿が掻き消えた。


「待て……!」
少女がバッ、と庭を蹴り、身軽な動きで中空に飛び上がった。
しかし、屋根に降り立った時には、その3人の姿は、もうどこにもなかった。
「くそっ……」
少女は辺りを見回し、気配すら完全に消えたことを悟ると唇を噛んだ。
男が言い残した言葉が事実であると、少女は分かっていた。
死神代行である自分は、独力でソウル・ソサエティにたどり着くことはできない。
死神の力を借りれば可能だが、現世で生きる人間でもある彼女に許可が下りることは、まずないだろう。
しかしこのままでは、永遠に両親の仇を、取り逃がしてしまう。
今この瞬間にも、少女の手が届かない遠くへ逃げようとしているのに。
―― どうしたらいい。どうしたらいいの?
強気な言葉とは別に、涙と雨が一緒くたに、頬を流れてゆく。


「やっぱり。この方法しかないわね」
どれくらいの時が流れただろうか。
不意に、少女は顔を上げた。
「……お父さん。お母さん」
庭で倒れた一組の男女は、少女の目に、やけにちっぽけに見えた。
「今、そっちに行くからね。……絶対、仇を討つから」
無表情で両親を凶刃にかけた、あの少年のどこまでも冷たい瞳を、思い出していた。
少女は、ゴクリ、と一度唾を飲み込んだ。
そして……手にした錫杖を、大きく振りかぶる。
力の限り振り下ろしたその錫杖の一撃は……少女自身の胸をまっすぐに貫いていた。