6月。
仰向きの目覚めとともに目に入ったのは、カーテンの隙間から見える雨だった。
ベッドに背中を沈めたまま、しばらく何とはなしに目を凝らしていた。
数日前からずっと強くなり弱くなり降り続く雨は、今は絹糸のように細く絶え間なく外を濡らしている。
風も吹かない、雨音も聞こえない、いつになく静かな日曜の朝だ。


「おはよー」
一護は寝ぼけ眼のまま、リビングのドアを開けた。
「おはよ!」
「一兄、おはよー」
キッチンの奥からは遊子の、リビングのテーブルからは夏梨の声が返した。
父親の一心はすでに診療所に行っているのか、姿は見えなかった。
シャワーを浴びた後なのだろう、夏梨の肩までの黒髪は半乾きのままだ。
青いランニングシャツに、黒のスパッツを履いた、いつもながら動きやすそうな格好をしている。
食パンにハチミツを塗りながら、チラリと一護を見た。

「ほら、お兄ちゃん。日曜だからってボンヤリしてたらダメだよ」
キッチンから出てきた遊子が、湯気の立ちのぼるコーヒーカップを一護に手渡した。
夏梨と双子とは思えない、小麦色の髪に明るい茶色の髪をしている。
服も対照的に、エメラルドグリーンのTシャツに、黄色いスカートを履いていた。
「おー、サンキュー」
ううん、と伸びをしてからコーヒーカップを受け取り、口をつける。
苦い液体が口の中に流れ込むと同時に、半濁していた意識がはっきりしてきた。
それと同時に、さっきから流れていたテレビの音声が、突然耳に入り始める。
―― 「それでは、東京都○○市、橘(たちばな)町の現場です」
朝のニュース番組では、黒い雨合羽を着たキャスターが、深刻な顔でマイクを握っていた。

「橘町? ……ったら、隣町じゃないの?」
「あぁ」
顔を上げてテレビに見入った夏梨の隣の椅子に、一護が腰を下ろした。
―― 「昨日6月14日深夜、神崎匠さん(46歳)の自宅で、一家三人が惨殺されるという痛ましい事件が起こりました。
警察当局は、殺人の容疑で捜査本部を設置し、捜査を開始しました」
沈痛な面持ちでキャスターが告げ、背後の家が大きく映し出された。
門の前には「神崎」とネームプレートが取りつけられていたが。

「な、なんだこりゃ」
その家の映像に、一護と夏梨も、キッチンから出て手を拭いていた遊子も絶句した。
まるで爆弾でも落ちたかのように、家は半壊し、台所や部屋の残骸が雨ざらしになっていたからだ。
冷蔵庫がまるで小石のように庭の片隅に吹き飛んでいるのが、衝撃の大きさを示しているようだった。
映像を見る限り周囲は閑静な住宅街のようで、整然と立ち並んだ建物の中で一軒だけ崩れているのが痛々しかった。
―― 「殺害に使われたと思われる鋭利な刃物も現場からは見つかってはおらず、捜査当局は犯人が現場から持ち出した、との見方を強めています。
また、黒い着物のような衣服の人影を見たとの証言もあり、慎重に捜査が進められています」

「黒い……着物、だって?」
夏梨が眉をひそめ、チラリと一護を見やった。
「お前が気にすることじゃねーよ」
一護はそれだけ言うと、遊子が運んできたトーストを齧(かじ)った。
テレビは直ぐに切り替わり、「数字を理解するワンコ」の話題へと移っていた。


***


その後、いつもと変わらない態度で朝食を食べ終わった一護は、自室に戻って来るなり、長い息を吐いた。
そして、ごろりとベッドの上に仰向けになる。
―― 黒い着物に、鋭利な刃物、だと?
ニュースキャスターの言葉が、朝食を食べている間もずっと耳に引っかかっていた。
素人目に見ても、犯人が黒い着物なんかを着て殺人現場に行くとは思い難かった。
逃げる時に、その格好では人目に付きすぎるだろう。

黒い着物。鋭利な刃。そこから連想できるのは、一護にとってただ一つだった。
「でも、そんなわけねぇ」
無意識のうちに、つぶやいていた。

死神。
死してなお、様々な理由で現世にとどまる魂を、あの世まで導く者たちだ。
彼ら彼女らは常に、死覇装と呼ばれる漆黒の着物をまとい、日本刀そっくりな「斬魂刀」を帯びている。
一護自身も、ひょんなことから死神代行として、その末席を名を連ねる身になっている。
その立場だから尚のこと分かるのだ。一護の知る死神には、非常識な言動で彼を驚かせる者も多い……というより、
完全にマトモな者を見つけるほうが難しいほどの個性派揃いではあるものの、基本は律された軍隊だ。
どれほど無茶をしても、普通の人間を手にかけるような死神は、一護の知る限り一人もいなかった。

そう分かっていても、一旦浮かんだ疑念はそうそう頭から去ってくれなかった。
あの半壊した建物は、まるで死神の術「鬼道」で破壊されたのに似ていないか?
そもそも、「黒い着物のような衣服の人影を見た」という程度の証言からしておかしいのだ。
本当に大砲でも打ちこまれたのなら、周りの住宅から人が飛び出してくるだろうし、そうなれば犯人の顔が目撃されないことのほうがおかしい。
……どう考えても、不自然だ。「人間業ではない」と思う。


そこまで考えて、一護は勢いよくベッドの上で上半身を起こし、立ち上がった。
シャツをベッドの上に脱ぎ捨てると、クローゼットを開ける。
少し悩んで、無地の黒のTシャツと、薄手の黒のジャケットを引っ張り出した。

考えていても、仕方がない。
現場に行ってこの目で見たところで、死神がやったともやっていないとも答えは出ないだろうが、
それでもここで延々と考えているよりもましだ。
服を手に振り返った一護は、
「ふっ!」
息を吐いて、その場で固まった。


思いがけないほど近くに、いつからいたのか……
「久しぶりだな、一護」
大きな黒い瞳が、一護を見上げていた。
「ルキア! お、おめーいつからそこにいた?」
まさにさきほど一護が思い描いた死神のイメージと同じ、死覇装に斬魂刀を差した姿。
驚く一護を見て、ルキアの目が、睨むように細められる。
「いい加減にお前も、霊圧関知能力を鍛えたばどうだ」
それだけ言うと、ベッドに腰を下ろして、立ったままの一護をもう一度見上げた。

ルキアは基本的に、「馬鹿」がつくほど生真面目な性格だ。現世に遊びに来たとも思われない。
「……何かあったのかよ」
あのテレビの映像が頭をよぎったが、とりあえず聞いてみることにした。
ルキアは口を開きかけたが、一旦言葉に迷うように視線を宙に泳がせた。
「なんだよ? 言いにくいことなら……」
「そうではない」
ルキアは、一瞬口ごもったのを否定するように、一護の言葉をさえぎった。
「お前には関係がないことなのだ。……とある、死神代行が事件に巻き込まれてな」
「へぇ、俺と同じ死神代行が……、て、待て」
頷きながら聞いていた一護が、顔をひきつらせた。
「あんまりサラッと言うから流しそうになったけどよ。死神代行って、俺の他にもいるのかよ?」
「お前一人しかおらぬと思っていたのか?」
ルキアは逆に聞き返した。
「そんな訳があるまい。お前のような経緯は特殊だが、様々な理由で死神代行になった人間は昔からいるのだ」
「……全っ然、知らなかったぜ」
「まあ、無理もない。死神代行同士が接点を持つことなど、普通はありえぬからな」
「なるほど」
一護は頭を掻いた。考えてみれば、死神代行と呼ばれ、代行証を手渡された時点で、自分以外にも同じ立場の者がいるのは自明だ。
「で? そいつが、どうしたんだよ」
「……殺されたのだ。家族ともどもな」
頭にやった手がぴたりと止まる。
「殺されたって、誰に。何のためにだよ!」
意図せず、強い声が出た。
「お前には関係がないと言ったろう」
返すルキアの言葉は、心なしか力がなかった。

「私にも、いや瀞霊廷にも、まだ原因は分かっておらぬのだ。昨夜、何が彼女の身に起きたのかさえ。
それを調べるために、私が派遣されたのだ。ただ……死神代行は、虚からの恨みを受けやすい。
その上、瀞霊廷の死神と異なり仲間の庇護も受け難く、常に虚と隣合わせの現世で暮さねばならぬ」
「つまり、虚の襲撃、ってことか?」
「おそらくな」
「でもよ」一護は、ベッド脇に放り出してあった代行証を見やった。「これ、全然昨晩反応しなかったぜ」
ルキアはその言葉にも、意外そうな顔はしなかった。
「瀞霊廷でも、虚の霊圧は関知できておらぬ。霊圧を消せる虚すらいるのだ。代行証が反応しなかったから虚ではない、と結論付けるには早い」
「……そーかよ」

ルキアはつかの間うつむいたが、すぐに顔を上げた。
「お前も気をつけるように。言いたいことはそれだけだ。私はもう行く」
「隣町だろ。俺も行く」
さっさと背中を向けたルキアが、首だけ振り返る。
「なぜ知っておるのだ?」
「人間が何人も死んで、ニュースにならない訳ねぇだろ。さっきまでもやもや考えてたことが、あっさりつながった」
抗えない何かに否応なしに巻き込まれていくような、力を不意に感じた。
予感など信じるタイプではないが、後味が悪い料理のようにそれは脳裏に残った。

ルキアは、つかの間逡巡するように動きを止めた。そして一護を見上げる。
「……同じ死神代行だからと言って、自分と重ねすぎるなよ。お前と『彼女』は違うのだから」
「サンキュな、ルキア」
一護がそう返すと、ルキアは眉間に皺を寄せた。
「何だ。別に礼を言われるようなことは……」
「でもやっぱり、他人事じゃねぇよ。俺も、何度も家族を危険にさらしてきたんだ、放っておけねぇよ」
きっぱりと言い切った一護に、ルキアはわずかに辛そうに頷いた。
「そうか」
そして、窓の外を白く煙らせる雨に視線を移した。