※ほぼ全て捏造です!
十月。藍色の空の向こうに、ぽっかりと白い月が浮かんでいる。
昼間の熱気のせいか、この時期にはめずらしく、ぼんやりと輪郭がかすんで見える。
あたしは、開け放った障子の向こうに浮かぶそれを見上げる。指先には、日本酒がたっぷりと満たされた盃がある。
―― 「たいちょ、知ってますかぁ? 月にはカニが住んでるんですよぉ」
―― 「はぁ? 蟹?」
―― 「ほら、あの模様。カニみたいに見えるでしょ」
―― 「……なんで、お前はそう舌なめずりでもしたそうな顔をしてんだ?」
―― 「いやぁ、酒のつまみにカニがあったら今、幸せだなぁって……」
―― 「あぁってめぇコラ、何、酒飲んでんだ! まだ仕事は終わってねぇぞ!」
ふふっ、と思わず笑みが頬からこぼれた。この会話を日番谷隊長と交わしたのは、一ヶ月もたたない最近の話だ。
「……なに、笑ってるんだい?」
穏やかな声音。見上げると、差し向かいで盃を傾けている京楽隊長が、優しげな瞳で見返している。
自分は今、笑っていたのか。そう自覚すると同時に、笑みは頬からはかなく滑り落ちてしまう。
「……隊長は、元気なのかしら」
独り言のように、つぶやく。隊長、という響きに、自分で自分を傷つけたような痛みがはしる。
日番谷冬獅郎が、十番隊隊長の座を自ら辞したのは、藍染との戦いの直後だったという。
雛森の無事を見届け、あたしが帰ってくる霊圧を感じ取った後の、あっけなさすぎる退任劇だったとか。
……総隊長は、退任については受け入れたらしい。その代わりに、死神を辞める事は、認めなかった。
そして、瀞霊廷から隊長の気配は消えた。今、どこで何をしているのか。あたしすら、知らされていない。
誰かがかくまっているのか、隊長が自らの意志で姿を消しているのか、あたしにはもう分らない。
……きっと、同僚だった隊長格だけは、おぼろげにでも知っているのだろうけれど。
以前の隊長とあたしの関係を知っている人たちは、あたしが何も知らないことに一様に驚く。
ごまかしているのか、とも思っているらしい。本当に知らないの、と言うのも気が重くて、黙っている。
副隊長なのに、隊長に退任のことを事前に知らされないなんて。不人情だと言われてもしかたがないけれど。
あたしは、隊長を責める気にはなれなかった。
あの戦場で、抜け殻になった隊長を、見てしまったから。
死神を目指してから、誰よりも早く頂点まで駆け上った彼は、今目標を失って佇んでいる。
もうあたしたちは、上司でもなければ、部下でもない。
でも、だからと言って、「隊長」以外の呼び方は、もうあたしには思いつかないのだ。
「日番谷君は、そうだねぇ……」
京楽隊長は、ゆっくりと盃を口元に運びながら言った。
「元気だとまでは言わないけれど。穏やかに日々を送っているよ」
「隊長に、会ったんですか?」
弾けるように、身を乗り出してしまう。京楽隊長は微笑んだ。
「まあねえ。ていうか、八番隊の所属になってるんだよ、彼。もっとも、七緒ちゃんすら知らないけどね。
総隊長と僕と、日番谷君だけが承知している。退任後、所属をどうするんだって話になってね。
日番谷君はどうでもいいって言ったから、僕が引き取ったのさ」
「そう……ですか」
それならそうと、もっと早く言ってくれればいいのに、と思ったけれど。
戦いから一ヶ月過ぎ、落ち着いた今だから言う気になったのかもしれなかった。
京楽隊長なら、安心して隊長をまかせられる。
あの忌わしい戦いの最中も、逸る隊長を抑え、フォローしようとしていた姿を思い出す。
隊長は、どこかで確実に生きている。そのことに、思いがけないくらいほっとしている自分を見出す。
そうか。あたしは、心配していたんだ。ギンみたいに、隊長までもいなくなってしまうことを。
でも、喜びが浮上したのは、少しの間だった。京楽隊長は、そんなあたしの盃にお酒を満たす。
「彼には、こういう時間が必要だったんだよ。……そう、淋しい顔をしなさんな。僕まで淋しくなって来ちゃうじゃない」
「もしも、もしも、あたしが……」
堰を切ったように、押さえていた思いが口からあふれ出してしまう。
「もしもあたしがあの時、隊長の傍から離れなかったら……」
隊長が雛森に瀕死の重傷を負わせてしまった直後、あたしは隊長の元に駆けつけるのではなく、ギンを追うのを選択した。
そのときの心の動きを、あたしは自分でうまく説明できない。
ただ、その場に留まり、隊長を支えていたら。こんな断絶は避けられたのだろうか?
目の前で大切な者を失ったあたしと、大切な者に手をかけた隊長。苦しみは、絡み合うようで絡み合わない。
結局、どれだけ傍にいたところで、理解しあうことなどできなかったのかもしれないけれど。
「……できもしないことを、言いなさんな」
言葉ほど冷たい響きではなかった。京楽は酒肴に箸を伸ばしながら、なにげなさそうに続ける。
「君があの時、市丸君を追わなければ。その生と死の意味を、語れる唯一の人間にはなれなかった。
そしたら彼は今も、瀞霊廷の裏切り者として扱われていただろうね。君は市丸君を救い、彼を慕っていた三番隊士の心も救ったんだよ。
君は、どうしても追わなければならなかったんだ。日番谷君も、それは分っているはずだ」
「何を……何を、分ってるっていうんですか」
「死には、続きがないってことをさ」
おかしいな。あたしは胸をそっと押さえる。
あたしは、ギンの死を、いまだうまく理解できないでいる。
彼の体が冷たくなっていくのを、腕の中で感じていた時も。
隊長格として正式な葬儀が執り行われた場で、皆がすすり泣く中にいた時も。
そして唯一人、墓の前に立ち尽くしたときも。
なんだか自分が、覚えのない芝居の中に放り込まれたような気がしていた。
それなのに、今あたしはこんなにも心が痛んでいる。
「……藍染はさ。敢えて、僕らを生かしたって言ってた。あっさり死ぬより、生き続ける方がよっぽど苦しいからね。
でもね。生には、続きがあるんだ。きっと君たちは遠くない未来で、笑い合えるさ。命ってのは、したたかで柔らかいものだからね」
まだ、終わりじゃない。あたしはそう、自分に言い聞かせる。
「……十番隊に新たな隊長を。そんな話が来たら、蹴ってくれませんか? 京楽隊長」
「誰も、話を持ってくる隊長なんていないさ。当然だろ? 僕らはまだ誰も、諦めちゃいないよ」
「……隊長に会ったら。伝えてもらえませんか?」
しばらくの沈黙の後、あたしは盃を置き、京楽隊長を見返した。
***
「……日番谷くん。こんなところにいたのか」
呼ばれた少年は、縁側の柱に背中を持たせかけ、夜空を見上げている。
ゆったりとした足取りで歩み寄った京楽は、その隣に胡坐をかいた。
「……うん。月を見ていた」
隊長だったころの強さは、その声音にはもう含まれていない。
これほどまでに少年だったのか。月を見上げる細い頚を見やり、京楽は思う。
右の人差し指の一部分だけが、固く隆起している。
それだけが、つい一ヶ月前まで刀を手に、最前線で戦っていた少年なのだということを示していた。
「……やっぱり、あれは蟹じゃねぇよ。兎だ」
やっぱり、の意味が京楽には分からない。しかし、見上げる日番谷の表情はいつになくやわらかい。
怒ることを、止めた。悲しむことも、苦しむことも忘れたように見える。
一瞬胸を突き上げた焦燥を、京楽は押し殺した。
君は、こんなところで。こんな風に少しずつ死んでいく人間じゃない。君はそんな人間じゃない。
喉元まで言葉がこみ上げたが、口には出さなかった。
「お前はこんな人間のはずだ」なんて。押し付けがましいことを、普段の自分は嫌っていたはずだったのに。
代わりに、口にした。
「そういえば、乱菊ちゃんから伝言がある」
かつての副官の名前にも、日番谷が動揺したようには見えなかった。
「待ってる。ただ、待っていると」
日番谷は、無言だった。しかしその美しい翡翠が濁って見えたのを、京楽は見逃さなかった。
全てを押し殺したつもりでも、痛みは、まだあるのか。
「……どうしてかな」
永い、永い沈黙の後、日番谷は口を開いた。
「ずっと、強くなりたいと思っていたのに。強い奴に憧れたことは一度もないな。それなのに、優しい奴に出会うたび、自分もそうであればと願う」
「……君は、優しい男だよ」
日番谷からの応答はない。その心のうちは、全く分らない。
京楽は隣に腰掛け、同じように月を見上げた。