雨乾堂、10月中旬。
周囲を見渡せば、縁側には雲と青空がくっきりとした陰影を形作っていた。
上空にもくもくと立ち上がる入道雲に、眉をひそめる。
季節はずれの蝉が鳴く木々は、葉が黄色く変色しているもののほうが多かった。
この調子では、植物が枯れ出すのは時間の問題だろう。

わずかに部屋に残る香水の薫が、さっきまでこの部屋に来ていた女性の存在を思い出させる。
風が吹き抜ければ飛んでしまうようなささやかな薫りの残滓を、愉しむ。
その時、わずかに隣の部屋から物音がした。どうやら、目を醒ましたらしい。

「……日番谷隊長。起きたかい?」
「……。俺はもう、隊長じゃねぇよ」
わざと、返事はしない。襖の向こうの彼も、押し黙っている。
襖一枚隔てたこの共同生活も、もう一ヶ月半になる。

京楽が、八番隊に彼が欲しいと言い出したときは、おや、と思った。
京楽は万人に対して開けっぴろげな態度をとるが、一歩踏み込んで誰かに関わりあうことは、あまりないと長い付き合いで知っていた。
が、あいつはどうも日番谷隊長に対して、何かこだわっている。戦いの最中に、並々ならぬ気遣いを見せていたのも、あいつらしくなかった。
―― 「引き取るのはいいが。どこに匿うつもりだ? お前の住む範囲に、人気がない落ち着いたところってあるのか?」
今更のように問うと、京楽はあちゃあ、という顔をしたものだった。
開けっぴろげすぎるというのか、あいつの周りには、どうしたって人が多い。
―― 「俺が、雨乾堂に引き取ろうか? あの場所なら、俺が呼ばない限り誰も来ない。療養してるって立て付けにすれば、
いつだって彼の様子を見ることもできるしな」
―― 「踏み込んだねぇ」
京楽は、少し驚いた顔をしていた。
長い病に冒されている俺が、他人と長く深い関係を築くのを避けたがると、あいつも知っているからな。
しばらく考えた上で、京楽はうなずいた。
―― 「君もいつ体調を崩すか分らないし、持ちつ持たれつでいいでしょ。役割があるほうが、日番谷君もいやすいだろうし」

ただ、ゆっくりと何も考えずに休んでくれれば。
俺はそう思っていたが、日番谷隊長はそう思わなかったようだ。
あの戦いの後に体調を崩し、以前よりもひんぱんに寝込むようになったからかもしれないが、気遣われているのを感じることがある。
ほら、今も。
「……浮竹? どうした」
返事をしない、身ひとつも動かさない俺をおもんばかって、そっと声をかけてくる。
こういうところは、全然変わっていないと思う。

しばらく躊躇したのだろう、静寂の後、
「開けるぞ」
そっと襖が引き開けられる。そして、待ち構えていた俺と目が合った途端、「だまされた」とでも言いたそうな顔をした。
「……お前、性質(タチ)悪ぃぞ」
「そういう君は相変わらず、人がいいね」
「何が相変わらずだ」
日番谷隊長は、自嘲気味に片方の口角を上げた。こんな表情は、これまではなかったものだ。
彼は一ヶ月半前、誰よりも大切にしていた幼馴染に、瀕死の重傷を負わせてしまった。
誰よりも憎い相手だと思い渾身の力で突き込んだ刃は、彼女の内臓を粉砕し、四番隊でも治療ができなかったと聞いた。
藍染に騙されたのだから、藍染のせいだと思えれば、まだ楽だろう。
でも彼はきっと、責任は実際に雛森君を貫いた自分にあると思っているに違いない。逃げない強さが、こんな時は諸刃の刃になる。
今の日番谷隊長にとって、誰よりも憎み、誰よりも疑っているのは自分自身なのだろう。
ちょっとした表情にも、そんな変化は現れていた。

日番谷隊長は、そのまま襖を閉じてしまいそうな手つきをしたが、ふとその手が止まる。
「お前、熱あんだろ。寝てろよ」
「ん? そうか?」
この暑さのせいなのか、実際に熱があるのか自分でもよく分らない。額に手をやれば、確かにいつもより熱い気はした。
「……俺に気ぃ使って、ここに誰も呼ばねぇんだろ」
「ン? いや、そんなことはないさ。皆、忙しいからね。よほどのことがなければ、呼びだてたりしないさ」
それは半分事実であり、半分は嘘だ。
これまでは、日に一度か二度は、隊士が顔をのぞかせていたのを、日番谷隊長が来てからはきっぱりと断っている。
日番谷隊長がここにいると知らない他の隊士は、疑問に思っているかもしれない。

額に手をやっていたら、ぱしん、と襖が閉まる音がした。閉じられてしまったか、と思うより早く、
「氷、そこにあんだろ」
ぶっきらぼうな声に顔を上げる。向こうの部屋にいるとばかり思っていたが、いつの間にか俺の部屋の中に入ってきていた。
「たく、世話がやける……」
氷が入った桶に目をやった、その時。日番谷隊長の表情が強張る。
「……この薫り」
さすがに、気づくか。もともと、慣れ親しんだ薫りだろうしね。

どう切り出したものかと思っていたところだった。俺は普通の声音を保ちながら声をかける。
「さっき、ね。お見舞いがてら、氷を持ってきてくれたんだ。この異常気象で、氷は貴重品だからねぇ。
熱が出ててもそういつも手にはいるものじゃなくなってる」
日番谷隊長は、まるで初めての部屋に入れられた猫のような落ちつかなげな顔をして、周囲を見回した。
その途端、喉の奥で押し殺した悲鳴を漏らす。俺は、彼がそんな声をあげるのを初めて聞いた。

「な……んで」
部屋の隅に、彼女がさりげなく立てかけて帰った、一振りの長刀。
きちんと鞘に収められたそれは、今の日番谷隊長には、亡霊のようにでも見えたに違いない。

氷輪丸。

日番谷隊長の愛刀であり、雛森君を貫いてしまった刃でもある。
あの時、抜けば出血多量で彼女の命が危ないため、そのままになっていたのだ。
卯ノ花によって引き抜かれた後も日番谷隊長は受け取らなかったという。そして、そのまま四番隊に残されていたのか。
……今の日番谷隊長が、正視できないのも当然だろう。
ただし、彼は自分の罪に向き合わなければならない。そうしなければ、この先一歩も前に進めない。
やっぱり、こんな役目は、俺には荷が重いんだけどな。俺は、意を決して日番谷隊長に向き合った。

「……何を、怯えることがあるんだ? それは、君の刀だよ」
「この刀を持って来たのは誰だ? やっぱり……あいつなのか」
彼の動揺に釣られてはならない。俺はわざと冷静に返す。
「ああ、雛森君だ。君は寝入ってたようだけど、それに気づかなかったなんて、本当に死神としての力を失ったんだね。
彼女だけじゃないかな。君が霊圧を失おうが、君の元に迷わずやってこれるのは」
死神の力を失った、とはっきり口にしたのは、それが本当か確認する意味もあった。
匿ってしばらくの間は、わざと霊圧を消しているのだと思っていた。
しかし、やってきた雛森君の存在にも気づかない、となれば。霊圧を探知する、という基本的な能力まで失っているということか?
だとしたら、隊長に復帰する、しないの問題ではなくなる。

「……あいつは、何て」
「何も、言わなかったよ。ただし、その刀を君に返したがっていたのは明らかだ。
もう一度、この刀を振るってもいいと。君に伝えたかったんじゃないかな」
「それはできない」
返したその声は、わずかに震えているように聞こえた。
「俺の力は、禍を呼ぶ。敵も味方も見境なく傷つけるような力なら、なくなって好都合だ」
やっぱりか。嘆息したい気持ちを、俺はかみ殺す。

そして、傍にあった手ぬぐいを手に取る。
桶に入っていた、もうぬるくなった水の中に浸す。そして、さっき雛森君が持ってきてくれた桶の氷を、ざらざらと水の中に移した。
手ぬぐいをぎゅっと絞ると、額に当てる。ひんやりとした感触に、ほぅ、と息をついた。
「それにしても暑いね。君は平気なのかい?」
肩透かしを食らったような顔をした日番谷隊長に、ぽんと氷の一欠けらを投げる。
とっさに受け取った彼は、無言で掌の中の氷が溶けていくのを見下ろした。
「この暑さ、総隊長が流刃若火を解放した影響らしいよ。どうりで尋常じゃないと思った。
先生は、ため息混じりに言っておられたよ。火がなくとも、人は生きていける。でも水がなければ駄目だと」
「……何が言いたい」
「君が必要だと、そう言っておられるんだよ。総隊長は」
「人を生かす氷と、殺す氷がある。俺は後者だと、さっきも言ったろう」
「そうかな」
彼は、さっさとこんな会話は切り上げてしまいたいんだろう。
しかし俺は、わざとゆっくりと、床の間にある斬魂刀「双魚の理」を視線で指し示した。
「この刀の属性、なにか知ってるかい?」
「片方が水属性、片方が雷属性だろ」
「さすが。でも俺は、素直に水や雷を出さない。どういうわけか相手の攻撃を屈折させて跳ね返すために使ってるんだ。
破面からは、性悪な能力っていわれたよ。属性はなんであれ、それを使うものの心のあり方によって、使い方は変わってくる」
「だから。何が言いたいんだ」
「君の属性は氷雪系。それ以上でもそれ以下でもない。その力が、殺すためにあると考えているのは君だ。
君がそう捉えるからこそ、氷輪丸は全てを滅ぼす力となる」
日番谷隊長は、ひとつ、あえいだ。

「……全ては、俺の意志の結果だと言いたいのか」
残酷な言葉を口にした自覚はあった。苦しげに低められた日番谷隊長の声に、舌鋒を緩めたくなる。
でもそれでは駄目なんだ。また一歩踏み込もうとしている、と思いながらも、俺は言葉を進める。
「自分の力に、畏怖を感じずにはいられない過去が、君にはあるのかもしれないね。
だけどそれを今、掘り起こす気はないんだ。でも氷も水も、人を滅ぼすばかりじゃないよ。
松本君がずっと前に、俺に言ってくれたことがあった。昔彼女にとって雪は、死を連れてくる孤独の象徴だったって。
誰もいないあばら家の中、凍えそうに身を冷やしながら、何時間も戻らぬ人を待っていたんだね。
でも君に会って初めて、雪に安らぎを感じるようになったと言っていたよ。君が生み出す氷や雪は美しいと」
日番谷隊長は、黙ったままだ。
ただ松本君の名前を聞いた時、少しだけその瞳が和らいだ気がした。

「君だけが知らなくて、他の皆は知っている、君のことが一つあるよ」
「……」
「君にも、護ってきたものがたくさんあっただろ? 思い出しなよ。
そして君自身を赦せたら……きっと君は、氷輪丸の別の顔を見ることができるよ」