蝉が、高く高く鳴いている。見上げると、一筋の汗が額から首元に流れ落ちた。
「オイ、ルキア! んなとこにいたら干からびるぞ!」
朽木邸に似合わぬ粗野な男。というか、女性に向かって干からびるとは何だ。
私はムッとしながら振り返る。上半身裸で、手ぬぐいでパタパタと顔を扇いでいる恋次と目が合った。
池のふちにしゃがんでいる私を、変なものでも見るような眼で見返している。本当に失礼な奴だ。
「そっちは余計暑苦しい。誰が行くか」
「なに? つーか、ほんと熱射病になるぞ。最近四番隊は熱射病患者であふれてんだ」
そこまで言った恋次は、私が手に持っている抜き身の「袖白雪」に気づき、怪訝なまなざしを寄こした。
「なにやってんだよ」
背後にスッと恋次の影が差す。それだけのことなのに、涼しくなる。
「いや、池がもうぬるま湯になっているのでな。氷を出してやろうかと」
水不足と言われて久しい。といっても朽木家は恵まれているし、池であっても枯れないように使用人たちが気を使ってくれている。
それでも、すぐに池の水はあたためられ、鯉たちは苦しげに口をぱくぱくとさせている。
私は、袖白雪の純白の刀身を半分ほど池に沈める。そして、力を解放した。
指で押せば割れるほどの薄い氷が、池の表面を覆ってゆく。
こんなものはすぐ溶けてしまうだろうが、しばらくは池も涼しくなるだろう。
全体を氷で覆ったのを確認すると、私はようやく立ち上がった。

「ったくよー。総隊長、自分の斬魂刀がやらかしたことなんだから、どうにか尻拭いできねぇのかよ」
「言うな恋次。当時は藍染を倒すことが全てだった。その後のことなど、二の次にならざるを得なかったのだから」
あの戦いで、総隊長は持てる力のすべてを解放した。天をも焦がし、雲の影も消滅させるという流刃若火。
その後遺症が、十月も半ばなのに蝉が鳴き日照りに悩まされる、この異常気象の原因となっている。
「私が少しくらい氷を出せたところで、文字通り付け焼刃だな」
私が自嘲気味にそう言うと、恋次はため息をついた。
「お前、氷雪系だろ。どうにかなんねぇのかよ!」
「無理だ」
縁側に腰掛け、私は言下に否定する。
「この気象に、斬魂刀も影響を受けているのだ。袖白雪の力がこれほど弱まったのを知らぬ。
虎徹副隊長の『凍雲』も常時の半分ほどしか、力を出せぬと聞いた」
氷の下で、スイッ、と緋色の魚影が横切ってゆくのを、見下ろす。

「これをどうにかできる斬魂刀など、一振りしか思い浮かばぬのだが」
それ以上、続けることはできなかった。続けるはずの語尾は、ため息をともに消えた。
「……無理、だろうと思うぜ」
無理。そんな言葉を恋次が口にするのを、初めて聞いたかもしれない。私は思わず顔を上げる。
恋次は、深刻な顔をしていた。……この男を表現するにはそぐわないが、「悲しんでいる」と言ってもいい。
「あの人は、雛森を誰よりも大事にしてた。傍から見ててもはっきり分かるほどに。
それなのに、あんなことになっちまって。俺はあの人じゃねぇから、気持ちは分からねぇけど。
……もう二度と、あの人は『氷輪丸』を振るえねぇと思うぜ」
俺だったら。そう続けて、恋次は黙ってしまう。
「……私は、少し分かる気がする」
私がぽつりと呟くと。恋次はハッとしたように眼を見開き、黙ってしまう。本当に、分かりやすい男。

かつて。私は、ある死神を殺した。
あの時、私ほど、彼を失いたくないと思っていた者は、いなかっただろうという確信があるのに。
心とは裏腹に、私の腕は勝手に動いていた。貫いたのは、袖白雪。
あくまで純白なあの刃は、今でも時折、私の心を苦くさせる。
あれほどのことがあったのに。どうして私は刀を捨てないのだと、不思議にもなる。

「……それでも。私は、死神なのだ」
視線を手の中の袖白雪に落とし続けた言葉に、返す言葉はなかった。

「ルキア」

代わりに、室内からかけられた静かな言葉に、私は弾けるように身を起こした。
隣の恋次も、ピッと背筋を伸ばし、ゆったりとした足取りで歩いてきた兄様を迎える。
「雨乾堂に、浮竹を訪ねるとよい。これを持ってゆけ」
手にしていた袋を、有無をいわさず私に寄こす。
両方の掌にすっぽりと収まるそれは、古びた布地ではあるが、大切に使われてきたものだと分かる。
「……甘納豆、ですか?」
確かに、浮竹隊長は好きだろうが。なぜこんなものを?
そんな私の視線に気づいていたのだろうが、兄様はいつものように、何も語らない。
「……よろしく伝えておいてくれ」
どこか兄様には似合わない言葉を残して、そのまま通り過ぎてしまう。
私は、恋次と思わず目を見交わした。


***


私は、浮竹隊長が寝起きされる雨乾堂が好きだった。
しかし、少し前から、「こちらから声をかけない限りは雨乾堂には近づかないように」との
通知が隊長から流れ、私達は皆、思わず顔を見合わせたものだった。
人間嫌いの気がある兄様ならとにかく、浮竹隊長がそのようなことをおっしゃるなんて。
しかも、藍染との戦い以後、体調がまだ完全に戻られていないというのに。
でもきっと隊長のことだ。この忙しい時期に、周りを煩わせてはならないと、気を遣われているのだろう。
そんな訳で、私もここ2ヶ月ほどの間、雨乾堂からは足が遠のいていた。

木が少し風雨で古びた縁側。箪笥を置いた跡が青々と残る畳。
派手ではないが、いつも庭をいろどる季節の花々。
失礼なのだろうが、瀞霊廷でもっとも、私に流魂街を思い出させる場所だった。

朽木隊長に言付けられました、と伝えれば口実になる。
十三番隊舎から雨乾堂へと続く渡り廊下を歩く私の足取りは、軽かった。


「……隊長? 浮竹隊長。いらっしゃいますか?」
声をかけると、待っていたように障子が開かれる。
隊長のことだから、私が近づく気配を感じ取っておられたのだろう。
「よく来たな朽木!」
突然訪れた私を責めるつもりなど微塵もなさそうな、明るい笑顔で迎えてくれる。
しかし、一瞬ちらりと、奥の部屋を窺われたのが気になった。襖がぴたりと閉まっている。
奥の間にはなんの気配も感じない。気のせいか、と思った。
「兄……、いえ、朽木隊長から、これを届けるようにと申し付かりました」
「ん? 白哉が、これを?」
明らかに浮竹隊長は、不思議そうな顔をした。
確かにもっともだ、と私も思う。
隊長は確かにいつも大量にお菓子を買われるが、ご自分はそれほど甘党ではないのだ。
子供に手渡した時の笑顔を見るのが好きらしい。
どうして甘納豆を掌いっぱい分渡されたのか。理由が思いつかず、私は口ごもった。

「……甘納豆、なのか」
巾着袋を開け、中を覗きこんだ隊長は、一呼吸おいて、そう言った。
そして、ゆっくりとその表情に笑みが広がる。
「俺が知る限りは、初めてだな。白哉が、そんな優しさを向けるのは」
そして背筋を伸ばすと、背後の奥の間に向かって声をかける。
「どうやら君への贈り物のようだよ」
「え?」
私は思わず隊長の顔をまじまじと見た。ひゅう、と音を立てて、一陣の涼やかな風が吹き抜ける。
「明日は槍が降るぜ」
ピクン、と思わず肩が揺れた。この声。忘れるはずがあろうか。
「そんな言い方するもんじゃないよ」
苦笑する、いつもの隊長の声。

隊長職を退いた後の彼の所在については、死神達の間で様々な憶測が飛び交っていた。
流魂街に戻った。
精神崩壊を来たし、「蛆虫の巣」に幽閉された。
八番隊にかくまわれた。等等。
「亡くなった」という憶測がひとつもなかったのは、死神達の願いが込められていたのかもしれない。
どんな形であれ、生きていて欲しいと。

「……日番谷、隊長!」
びいんと弦を撥ねられた私の心。喉から出た声は、やはり震えていた。
隊長に手渡された甘納豆の巾着袋を手に、立ち上がる。
「……失礼、します」
そっと襖を開ける。前の間と同じようなつくりのその和室は、無人だった。
しかし、長い影が縁側から畳の上に差し込んでいる。
ゆっくりと縁側に歩み寄ると、そこにはまばゆいばかりの銀髪が見えた。

「っと!」
その姿に視線を奪われた瞬間、私は縁側の柱に、無造作に立てかけられていたものにぶつかった。
ガラン、と重々しい音と共に縁側に転がったそれに、私は息を飲む。
「も! 申し訳ありません、日番谷隊長!」
星型の柄。鞘に収まっていても美しさが眼に浮かぶような、綺麗な反りの刃。
私がいつも憧れを乗せて見ていた、氷輪丸。私は跪くようにその柄に触れた。
「かまわねぇよ」
その声に、顔を上げる。すると、翡翠色の瞳とぶつかった。

その瞬間、「違和感」があった。
相変わらず、ハッとするほどに美しい瞳だった。
しかし、例えるならまるで写真を見ているかのように、彼の気配がないのだ。
霊圧を消している、という意味ではない。「存在そのものが」その場にないかのようだった。

日番谷隊長は、淡々と続けた。
「その刀に、もう力はない。ただのガラクタにすぎねぇよ」
「力が……ない?」
私は思わず、はじけるように顔を上げた。
霊圧を、わざと隠しているのだと思っていた。そうではなく、本当に、ない、のか?
「なぜなのです? 日番谷隊長ご自身が、望まれたこと……なのですか?」
「俺の意志だ。それに、『あいつ』も、俺が刀を振っているところなど、二度と見たくはねぇだろうよ」

「あいつ」が誰を指すのかは、察するのが苦手な私でも分かる。
そして、その名前を敢えて口にしない、その気持ちも。
「お前が、なんでそんな顔をする」
日番谷隊長にそう言われ、私はうつむけていた顔を跳ね上げる。
いつもの無表情の中に、わずかに当惑と、微苦笑の色を見て取った私は、思わず首を振る。

あなたに憧れていた。そう言えば、この人はきっと困った顔をするのだろう。
氷雪系最強の刀を持っていたから、その力に憧れた、ということもあるが、
本当を言えば、日番谷隊長と、雛森副隊長の関係が私には謎で……そして、うらやましかったのだ。

二人のことを知ったのは、私が朽木邸に迎え入れられ、十三番隊に配属されたばかりのこと。
家族となったはずの兄様とは普段顔を合わせることも会話すらなく、
兄様が私のことをどう思われているのか、推し量ることすらできなかった。
そして、十三番隊の中でも、実力を伴わぬまま貴族であるがために入隊が認められたのだと、陰口を叩かれた。
かつて心を通い合わせた恋次とも、疎遠になってしまっていた。
恋次との才能の差を見せ付けられた私の劣等感が原因のひとつだったことは、受け入れざるを得ない事実だった。
いや、結局は、すべての原因を作ったのは、私自身だった。
どんな人間関係にもうまく溶け込めず、大切なはずの誰とも、うまく日常を送ることができない。
私はどこか欠陥があるのだと思った。

だから、うらやましかったのだ。ずっと親しくありつづける日番谷隊長と、雛森副隊長の関係が。
雛森副隊長はすぐに日番谷隊長に追い抜かれてしまったことになるが、私のように劣等感を感じる様子は感じられなかった。
当然だろう、彼女は「副隊長」という押しも押されもせぬ地位があるのだから。
二人が歩いてゆく後姿を、私は何度も見送ったことがある。
くったくのない冗談、笑い声、そして肩を並べて歩いてゆく距離感。
どうしてこの人たちは、時が流れても、関係が変わっても、変わらずいられるのだろう。
不思議でもあり、そして焦がれるほどに、うらやましくもあった。

「……雛森副隊長は、本当にそれを望んでおられるのでしょうか」
日番谷隊長は、その瞬間異様な目をして私を睨んだ。
「……その話は、もうやめろ。終わったことなんだ」
「終わったこと……?」
パシン、と頬に何かをぶつけられたような、衝撃がはしる。その時こみ上げた感情はまるで、怒りにも似ていた。
「……では、話を変えます。私自身の話など、お耳汚しになるでしょうが」
日番谷隊長の気配が、また無表情なものに変わる。それを許諾だと捉え、私は口を開いた。


「……日番谷隊長はご面識はないかと思いますが、十三番隊にはかつて、副隊長がおられました。
名を、志波海燕殿。私の教育に当たってくださった方であり、上司とお慕い申し上げていました」
「……名前は、聞いている」
襖の向こうで静かに坐っているであろう浮竹隊長の気配が、揺れるのを感じる。
それに気づかれたのだろう、日番谷隊長がわずかに視線を、室内に戻す。
「私が慕い、私が殺した、私の大切な方の名前です」
こんな風に。気持ちを吐露したのは、海燕殿を亡くして初めてだったかもしれない。

「殺した?」
日番谷隊長は、眉を顰めて私を見返してきた。
「はい」
死神殺し……しかも上官を。当然、責めの言葉が続くだろうと思っていた。
「理由もなしに、仲間を殺すお前じゃないだろう」
私は、思わず日番谷隊長から目を反らした。そんなことを……そんなことを、言ってくれるのか。
責められるのなら良い。しかし、思いがけなく与えられる優しい言葉は、私が普段張っている壁をあっさりと破りそうになる。

海燕殿の奥方が、謎の能力を持つ虚に殺されたこと。
その仇を討とうとした海燕殿に、浮竹隊長と私が同行したこと。
そして海燕殿が虚に取り込まれ、襲いかかってきたところを、私が刃で貫いたこと。
言葉にすれば、何と短い事実だろう。

「……謎の能力を持つ、虚」
日番谷隊長は、私が話し終わっても、しばらく虚空を眺めたままでいた。
「そんな能力、聞いたことねぇ。おそらく、藍染の実験が絡んでるんだろうな」
「そうかもしれません。……虚圏で、再会しました。海燕殿の体を乗っ取った虚……いえ、破面に」
「なんだと?」
パン、と襖が開き、私は驚愕の色を隠せない浮竹隊長と視線を合わせる。
「……朽木。俺は聞いていないぞ」
「申し訳ありません。でももうあれは、海燕殿ではありませんでしたから」
「それで、どうしたんだ」
「殺しました」
一度目に海燕殿を刺したときは、無我夢中だった。
しかし二度目は、冷静そのものだった。そのときの手ごたえすら、分るほどに。

「……お前はなぜ、刀を振う?」
日番谷隊長の問いは、静かな声音だったが、その分重みがあった。
「それが、海燕殿の意志だと思うからです」
私の答えもまた、ゆっくりと返された。
「私にできるのはただ、海燕殿の隣にいるつもりで、あの方が生きられなかった死神としての人生を、共に全うすることだけですから。
それが……本当に海燕殿が望まれていることなのか、私には分かりませんが」
ぽたりと、膝に落ちたものを私は見下ろすことしか出来なかった。
お前には苦しむ権利も悲しむ権利もないと、自分に何度も言い聞かせてきたのに。

「私には、貴方の気持ちが少しは、分かるつもりでいました。でも、違うようです。私には、貴方の気持ちは分からない」
うらやましくて――うらやましくて、堪らない。
私は、無言のままの日番谷隊長を、睨むように見上げた。
「あなたの大切な人は、まだ生きているではないですか!」

できることなら、子供のように手足をばたつかせて、大声で泣いてしまいたかった。
全ては自分のせいだということを棚に上げ、海燕殿を返してくれと言いたかった。
しかし私がしたのは、氷輪丸と巾着袋をそっと床に置き、立ち上がっただけだった。
「雛森副隊長の願い、とは何か。聞いてみれば良いではないですか。
私には出来ず、貴方にはできることです。……だから私には、貴方の気持ちは分かりません」
涙にして全て流しきってしまいたいくらい、苦い思いが体を満たす。
朽木、と何度か浮竹隊長に呼ばれたかもしれない。
しかし私は振り返らず、雨乾堂を後にした。