もうこれは、誘惑だ。
どんな女も、どうでもよかった。家族も旧友も、私には路傍ですれ違う他人とどう違うのか区別がついたことはない。
権力ーー私が望んでいるのがそれだ、と指摘した者もいた。しかし、私はそれを心の底では否定した。嘲笑った。
私を突き動かすのは誘惑ーー生命を絶つこと、即ち「殺す」ことへの飽くなき欲望だ。

幼い頃の私は、両親の自慢の息子だった。小さな妹がいた。名前は忘れてしまったがね。
妹は、親にねだって白い猫を飼っていた。両方の掌の中にすっぽり納まる程度のまだ子猫だった。
その猫の名前も、同じく覚えてはいないよ。
殺したら。まずそう思った。この猫を殺したら、どれほど鮮やかな赤が噴出し、どんなに美しく白い体を染めるだろう。
その青い眼は、何色に染まる? その時、どんな眼で私を見るのか?
うっとりと子猫をなでる私に家族は言った、惣右介は動物が好きなのね、と。

理想的な家庭だった、と思うよ。親も妹も、教科書に出てきそうな清い、美しい人々「だった」。
ただ、私だけが違った。私だけがこうなった。

ある意味それは必然だっただろう。親と妹が買い物に出かけ、森閑とした屋敷の中で。
畳の上をひたひたと踏み歩み寄ると、私はじゃれついてきた小猫の脇を掴んで掬い上げた。
そして、無邪気に足をばたつかせる子猫の喉に両方の親指の爪を当て、ぐっと爪先を押し付けた。
猫の変化は劇的に訪れたーー綿毛のような体と愛くるしい青い眼をしたその子猫の目が、驚愕に見開かれる。
次の瞬間、獣の本性を露にした。小さな牙をむき出し、私の親指に噛み付いた。
どくどくと、その体の下で鼓動が激しく鳴っている。痛みと共に血が流れるーー
ああ、嬉しい。興奮に私の胸も高鳴った。私は今、生きものの命をこの手に握っている。左右できる。
力任せに爪先を押し込む。ぐ、ともげ、ともつかない音と共に、ざくりと指先が入る感触があった。
まるで、いっぱいに水を含んだ水風船に穴が開いたようだ、と思う。さあっ、と舞った血しぶきに、見とれる。
子猫の手足が痙攣する。ゆっくりと、力を失う。その心臓が止まる最後のひと音を、私は陶酔しながら聞いていた。
家族が帰ってくる。猫の死体を見る。私が犯人だと知る。そのとき、どんな顔をするだろう?
今までのように何事もなく、自慢の息子として私を見るだろうか? ……否。絶対に、否だ。
オセロの白と黒のように、私の人生が一転する。その時を、私はゆっくりと待った。

両親も妹も、猫の死を悲しみ泣いた。しかし、私が期待したことは起こらなかった。
誰もが、私が犯人だとは夢にも思わなかったらしい。猫は座敷で死に、座敷には私しかいなかったのに、だ。
つまらない。そう思った。
初めて生きものを殺した感覚も。思ったよりつまらなかった。
反抗し、死ぬ。そこには体の死はある、しかし「それだけ」ではないか。所詮は獣なのだと思った。

ああ、なんと愚鈍な者達なのだろう。微笑む私の薄皮の下に、お前達を殺したくて堪らない私がいることに気づかない。
私が隣を横切る妹の笑顔を見るたび、どれほどの誘惑に耐えているかも知らず……そう、また、無邪気に、歩み寄ってくるのか。
「ねぇ、お兄ちゃん。シロは(ああ、シロという名前だった。思い出したよ)どうして死んじゃったのかなぁ?」
「ねぇ。お母さん、どこ行っちゃったの? お父さんはどうして泣いてるの?」
「……ね、お兄ちゃん。お父さん、悲しすぎて消えちゃったの?」
ああ。何と、何と愚鈍な妹よ。

「……知りたいかい?」
母親が、どれほどその瞬間、恐れおののいた眼で私を見て泣き叫んだか。
父親が、どれほどみっともなく死から逃れようと這いずったか。
もっとも私を信頼し、最も私を愛しているお前、妹よ、お前はどんな顔をするのだ?
「……どうしたの? お兄ちゃん。刀なんて持って」
「いや」
私は涼やかに首を振る。初夏のさわやかな太陽の下、座敷は清浄に青かった。
「お前を殺そうと思ってね」
小さな鞠を手に持ち、柱を背に立った彼女に、私は無造作に歩み寄る。
「……なに、言ってるの?」
「お前もそろそろ淋しいだろう? 父上と、母上に会いたいだろう」
「知ってるの? 父様と母様がどこにいるか」
「ああ、知っているよ」
一歩踏み出すほどの、手ごろさで。私は音もなく、抜き身の刃を妹に胸につきたてた。
研ぎ澄まされた刃は、トン、と音を立て、柱に突き立って、止まった。
私の掌と柱の間に挟まれた妹の体が、びくん、びくん、と揺れる。

「……なにを思う? 妹よ。兄の私に貫かれて? 思いも、しなかっただろう……」
血が。私の腕を、胸を、顔を、ぬらしてゆく。痙攣を続ける妹の目が、ひた、と私を捉えた。
「……ってた」
「なんだい?」
「しって、た。シロを、殺した……でしょ」
父様も、母様も。その目が、そう続けていた。
憤怒の目。恐怖の目。狂人の目。それら全てに微かにも動かなかった私の心に、ぴしりとひびが入る。
「知っていたのか? ならば、どうして私から逃げなかった」
殺す快楽は飛び去り、私は声を荒げる。妹は、血に濡れた両腕を、ゆっくりと私に差し延ばした。
その両腕は、糸のないからくり人形のように、ばたんと私の肩の上に落ちた。
「……おにいちゃん。     。」
びくん、ともう一度揺れた其れは、本物のからくり人形となった。
腕がずるりと私の肩からはずれ、横倒しに倒れる。その頬には、あるかなしかの微笑が残っていた。


足りぬ。全く、死には足りぬ。
私は妹を殺した。完膚なきまでに、一部の情もなく、殺した。
それなのに、殺したのはその体だけで。心は……兄を信じる妹の心は、曇りもしなかったではないか。
敗北したように思った。何の力もなく、愚鈍だと思い続けたあの妹に。

何が足りないのだ。絶対的な冷酷さか、ただ殺しの数が足りないだけなのか?
もっともっと殺せば、満足が得られるのか? どうすればもっと、殺せる?
……そんな私が、死神となったのは、偶然でも何でもない。必然である。


死神になってから、幾千の命を奪ったか数え切れぬ。合法的に殺せる、私には天職だと思った。
しかし、物足りない、と思う欲求は、どんどんと高まるばかりで収まることを知らなかった。
どうすれば、より完璧に、完膚なきまでに「殺せる」のだ?
あらゆる殺し方を試したよ。研究して、実験して、結果を積み重ねた。
親に子を殺させ、兄に妹を強姦させ、最後には全員、殺した。
しかしなぜだ。百人に一人、いや千人に一人かもしれないが、納得して死んでゆく者があった。
親に殺されるのなら、構わない。兄に犯されるのなら、しかたがないと。
なぜ、なぜなのだ? なぜ彼ら彼女らの心は、殺されずにいる。どうすれば殺せるのだ?

ゆっくりと、私は夕映えの中流魂街を歩いていた。
当時、もう私は隊長となっていたから。流魂街の人々も皆、畏れながらも声をかけてくる。
「藍染隊長。こんばんは」
「藍染隊長!」
「やあ、こんばんは」
私が微笑み返すと、恥ずかしそうに微笑むあの娘。
殺したらどうだろう。そう思うが、どんな顔を浮かべ、どんな風に死ぬか、既に試しきった私には新鮮味がなかった。

なぜだろう、と漠然と思う。
私ほど多くの命を奪った生きものはそういないだろうに。皆は私に集まってくる。
そして残虐の限りを尽くしながらも。私はまだ、死の秘密を得られずにいる。

「シロちゃん!」

その声にふと眼を上げたのは、遠い昔、飼い猫を呼ぶ妹を思い出したからだ。
鼻にかかった、今にも泣き出しそうな、泣けば誰かが助けてくれると信じて疑わない、甘ったれた声。

「どーしたんだよ、寝ションベン桃」
「もう! 失礼ね!」
視線の先に、腕をでたらめに振り回す少女がうつった。その少女の肩くらいしかない背丈の少年が、ひょい、と其れを交わす。
銀色の髪、青い瞳。私の視線は吸い寄せられる。
どこにでもいるような粗末な服を着た二人組みだ。しかし、少年の髪と眼の色だけが異質だった。
私の手の中で暴れに暴れて死んだ、あの子猫が彷彿とする。

少年はそんな私に気づくはずもなく、歩み寄って少女を見上げた。
「なんで眼、つぶってんだ?」
「さっきの風で、ごみが入ったの。両方ともなんて、最悪よ」
ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、眼を閉じたまま指で眼をこすろうとする。
「ああっ、やめろって。眼に傷がつくだろ」
「だからって、このまま眼をつぶってたら歩けないじゃない」
「しょうがねぇな」
少年が、ぐい、と桃と呼んだ少女の腕を取った。手を引かれて、少女が歩き出す。
眼をつぶっているとは思えない少女の迷いない足取り。その原因たる少年を、見る。

彼は、気づいていないのだろうね。
自分が今、どれほど優しい眼をしているか。
もちろん、眼を閉じている少女には映ることはない。

その瞬間。いきなり笑い出した私を、少年は眉を顰めて見上げた。そして、そのまま通り過ぎる。
その背中がゆっくりと通り過ぎても、私は含み笑いをとめられずにいた。

面白いことを、思いついたよ。
少年のために少女を殺しても、少女のために少年を殺しても、信愛しあっているらしい二人の心まで殺せはしない。
でも……少年が少女を殺したら? 殺意と憎しみを込めて、一瞬のためらいも無くその胸を貫いたら?
その時、二人はどうするだろうか?
あなたがやったことだから赦せると、何事も無かったように、受け入れるのだろうか。

もちろん、通常ではそんな事態はありえない。
あの少年は、たとえ殺されても少女を手に掛けることはないだろう。
しかし、私の斬魂刀を使ったら? この斬魂刀は、まさにそういう遊戯のために創られた刀ではないのか?
少女が、別人のように殺意みなぎる少年に追い詰められ、殺される。
そして少年は、手遅れになってから少女だと気づき、その死を看取る。

これぞ肉体の死であり、精神の死だ、と思えた。
そう、死とは肉体というよりも、精神により重きを置く。
私は少年を殺さないだろうーーそして少年は、永劫の闇を生きるのだ。
愉悦が、私の体の中を満たした。