梅雨が明けたばかりだ、と思えば、納得できるような気候だった。
私がここソウル・ソサエティに来て百年近くが経つけれど、こんな異常気象は記憶にはない。
けれど何か夏とは致命的に違っている。なんだろう、と考える。
手にしていた団扇で、目の前で眠っているひとを扇ぐ。
その人の目の下には隈が見える。投げ出された手が、黒く汚れている。墨のようだ。
あの子が、いつもあいつは仕事をしねぇんだ、と文句を言っていたのを思い出す。
慣れない書き仕事に、疲れているのだろう。さらり、と長い金髪が肩から滑り落ちる。
さらり、と音がして気づいた。
こんな微かな音が聞こえるほどに、周囲は静まり返っている。
夏なら当然聞こえるはずの蝉の声も、鳥のさえずりも、そこにはない。
死に絶えた夏。そんな言葉が、心に浮かんだ。
私がここ四番隊に引き取られて、もう十日ばかりになる。
次々とここに通院してくる死神たちの姿、会話を知るにつけ、死神達に何が起こったのかおぼろげにわかっていた。
考え出すとたまらなくなり、何度でも私は冬獅郎を探しに街へ出る。そのたびに連れ戻される日々が続いていた。
「おばあちゃん!」
庭から聞き慣れた声が聞こえて、私は顔を上げた。
黒い日傘を差しかけた桃が、縁側から部屋の中にいる私たちを覗き込む。
まだ仕事には復帰していないんだね、臙脂色の袴に、青い生地の着物を着ていた。
「……乱菊さん。こんなところに」
静かな寝息を立てているひとに気づいて、慌てて声量を落とす。
部屋の中で正座をした桃を、私は見返した。
「……案外元気だって、そう思ってる?」
心の中を見透かしたように、そう言う。私をじっとみつめてくるその黒い大きな眼から、私は思わず視線を反らした。
死神になってからも子供だ、子供だと思っていたけれど。突然、大人びた表情を見せたものだから。
「……不思議ね。ここに怪我をするのは二度目だけど、今回の方が全然、辛くないの」
そっ、と胸に手をやる桃を見て、私は何も言えなかった。胸に怪我をするのが二度目だなんて、知らなかった。
私は、ふたりを育て上げてきたのに。何も知らずにいたのだと、思い知らされる。
「……桃。お前は、死神を辞める気はないのかい?」
「辞める気はないわ」
即答だった。私達は、無言のまま対峙する。
「お前は、目標をうしなったんだろう? それなのに、まだ」
「私は、何もうしなっていないわ」
そう言われて、一瞬、やせ我慢を言っているのかと思った。でも、桃の目はまるで他人のように見えて。
その心の奥底に、どんな気持ちが宿っているのか、もう私には、わからない。
「……シロちゃんを、探しているの?」
泉のように潤いをたたえたその眼は、今は痛みのような表情をたたえている。
桃が、私が疲弊しきっているということに、気づかないはずはない。私はゆっくりと頷いた。
「シロちゃんは今、どこにもいないわ。でも、あたしが必ず、連れて帰るから。だから、おばあちゃんは流魂街のあの家で、待っていて」
「でも……」
「雛森の言う通りよ」
急に聞こえてきた声に、私だけでなく桃も、弾けるように顔を上げる。
「乱菊ちゃん。起きてたのかい」
「書類の山に埋もれる夢を見て、さっき起きたのよ」
あながち冗談でもなさそうな声音で言うと、乱菊ちゃんはまだ眠そうに眼をこすっている。
「……隊長が帰ってきたら、あたしたち怒られちゃうわ。おばあちゃんをこんなに疲れさせたって。隊長、おばあちゃんっ子だから」
私は、何も返せなかった。
毎日、毎日、冬獅郎を捜し歩いて。その疲労が、全身を覆っていることに気がついている。
たとえ一度死んだ身であっても、病気にもなるし倒れもする。万が一もう一度死をむかえれば、二度と戻れないということも。
私がこの瀞霊廷にいる限り、さがしつづけるだろうことを、ふたりとも察しているのだろう。
乱菊ちゃんは、私から団扇を取り、逆に私をあおぎながら、言った。
「……だから、もう自分をいじめるのはやめてね、おばあちゃん」
……どこかで。私のせいだと、思っていた。ふたりを育て上げた私が、どこかで何かを間違えたのだと。
死神になると言ったふたりを送り出したのが悪かったのか? そもそも、ふたりを拾い、出会わせたのが悪かったのか。
でも。
何度過去に立ち返って、同じ場面に出会ったとしても。
やはり私は、路頭に迷っていた二人を見過ごすことはしない。
死神になりたいと、凛と言った二人に、首を振ることもしない。
こんな「結末」を迎えると、分っていてさえ。
「桃」
立ち上がると、ふらり、と体が揺らめいた。とっさに支えようと身を乗り出した桃の半身を、抱きしめる。
まるで、子供の頃の桃によくやっていたように。
桃は一瞬、身を震わせた。そして、抱き返してくれたその腕は、もう私よりもずっと大きかった。
冬獅郎が、この手の中にもう一度戻ってくるなら。もう皺だらけの手だけれど、同じように抱きしめてやりたいと思う。
「……おばあちゃんの身の回りのもの、持って来るね」
桃は微笑むと、私の肩を撫でて立ち上がった。
※「日番谷梅」は、日番谷君のおばあちゃんの名前、という設定でした。
なんて安直なネーミングセンス…!