「……ばあちゃん?」
とっさに口に出し、俺は言葉を途切れさせた。なんだか急に、ばあちゃんのことを思い出した。
ちらりと、部屋の机の上においてある、巾着袋に視線をはしらせる。
いつもばあちゃんが差し入れてくれてきた甘納豆と同じものだ。
ばあちゃんは、今何をしているんだろうか。俺からは、何も知らせていない。何も知らなければいい、と思う。
何が起こったか知ってしまえば、きっとばあちゃんは泣く。
あの流魂街の質素な家の中でたった一人、小さな背中を丸めて泣く姿は、想像するだけで俺の胸にずんと堪えた。

持って来たのが朽木ルキアで、朽木白哉の遣いだったということが、思い出したように気になってくる。
朽木白哉が、流魂街に足を運ぶことはまずない。ということは、どんな経緯でこれはあの男の元に渡ったんだ?
俺は、ゆっくりと身を起こした。この雨乾堂にかくまわれて初めて、周囲を見回した。
「……浮竹?」
声をかけるが、返事はない。そっと隣室を覗き込むと、畳の上にじかに寝転がり、微かに寝息を立てていた。
その額に、汗が浮かんでいる。この暑さだ、無理もない。
俺はとっさに手を伸ばしかけ……すぐに、引っ込める。
氷を出そうと、反射的に考えていた自分に苦笑する。もう、力もないくせに。

浮竹が眠っているのは都合がいい。なぜなら、浮竹はここを出るなと、折に触れて言っていたから。
なぜなのかは分らないし、俺自身ここを出る気はなかったから、特に気にもならなかった。
俺は足音を顰め、そっと雨乾堂を抜け出した。
いくら霊圧をなくそうが、誰にも見つからずに流魂街へ赴き、ばあちゃんの様子をそっと見てくるくらいのことはできるだろう。
一時間くらいで戻れば、浮竹も気づかないはず。
かすかな音を立てて木の門を開き、十三番隊舎の敷地内に足を踏み入れた時だった。

『……と……け、た』
俺は耳をそばだて、立ち止まった。現世で前に目にした、周波数が乱れたラジオのような。
そんなかすかな声が、聞こえてきたような気がしたからだ。
「……天廷空羅、か?」
その声は、むしろ俺の頭の中から聞こえた。しぃん、と静まり返った中、聞こえてくる声に集中する。
と、その瞬間。その声は、はっきりすぎるほどはっきりと、俺の脳裏で木霊した。
『日番谷君。やっと、見つけたよ』
「藍……!」
頭を、思い切り張り飛ばされたような衝撃に、たとえでなく俺はぐらりとよろめいた。
「てめえ……が、なんで生きている!」
無意識のうちに、扉を掴んでいた腕に力が入っていた。ぎしり、と音を立てて扉がきしむ。
忘れるはずがない、忘れようもない。藍染の、あの笑みを浮かべた口元がはっきりと思い浮かんだ。
『君こそ。どうして、生きていられるんだい? ギンが言っていたよ。雛森君に血を流させた者は殺す、と言っていたんだって?』
ガンッ、と拳を、背後の扉にたたきつける。ささくれ立った表面が俺の掌を傷つけたようだったが、痛みは全く感じなかった。
扉が、ゆっくりと崩れ落ちる。

殺してやる。どくん、と心臓が波打った。自分の心臓の音しか、聞こえない。
殺してやる。あいつを殺せたら、もう何がどうなったって、かまわない。

「日番谷君!」
遠くで……遠くで、険しい声が聞こえた。と、思った時には腕をつかまれていた。
「京楽!」
「……知ってしまった、ようだね。藍染が生きていることを」
雨乾堂に行くところだったんだろう。京楽は、いつになく厳しい表情をしている。
「好都合だ! 俺がこの手で、殺してやる!」
俺は、京楽の腕を振り払おうとしたが、万力のような力で俺の腕を掴み返してくる。
「復讐に囚われるのはやめるんだ! 君はそういう男じゃないはずだ!」
「俺がどんな人間か、てめぇに分るのか! 『それ』は俺じゃねぇ。てめえが見たいものを、俺に映してみてるだけだ、違うか!」
その言葉が、京楽になにか影響を与えると思ったわけじゃなかった。それなのに、あいつは俺が驚くほど……動揺した。
口ごもったその腕の力が、一瞬ゆるむ。俺は渾身の力でその腕を振り払い、駆け出した。



今の俺には、藍染の居場所はおろか、死神の霊圧の補足もできない。
その状態で、向かう場所はひとつしか浮かばなかった。一番隊舎、総隊長のところだ。
隊舎の屋根から屋根へ飛び移り、一直線に向かう。当然周囲の死神たちが俺の気配に気づかないわけもなく、どよめく気配を感じる。
なまりきった体は、あっという間に痛みを伴いきしみ出す。
しかし、そんなものに構っている余裕はなかった。
あいつを……殺す。そしてあの笑みを、二度と見られないように、掻き消す。
そうしなければ、俺が生きてはいられない。まるで悲鳴のような……そう、悲鳴のような衝動が俺を満たす。

なんで、と俺は歯噛みする。
これほど力が必要な時はないのに、なんで俺の中の龍は黙っているんだ。

だん、と足音を立てて、一番隊の敷地へ飛び下りた。
「総隊長!」
総隊長は当然、俺が近づく気配は感じ取っていたはずだ。俺がその背中に呼びかけても、全く動揺を見せなかった。
あの戦いが終わってから、まともに総隊長に向き合うのは、隊長を辞することを告げて以来になる。
その片腕は、やはりなかった。鬼道でも、治療することはできなかったのか。
「……藍染の、ことか」
「なんであの男が生きている!」
敬語を使うことすら、頭からは吹き飛んでいた。総隊長は険しい顔のまま、ゆっくりと首を振る。
「崩玉の力を取り込んだあ奴を殺すことは、何びとたりともできぬのじゃ」
「じゃあここに連れて来てくれ! 俺が、あいつを斬る!」
殺せぬというのなら、死ぬまで斬り刻んでやる。諦めきったような総隊長の顔に、俺の怒りは頂点に達した。
「ならぬ。……中央四十三室の決定でもあるのじゃからな」
「そんな腰抜けの四十三室はいらねぇ!」
「殺すというか」
総隊長の眼光が鋭さを帯びる。
「殺してやるさ。俺の邪魔をするやつは、誰だって」
「馬鹿者! それでは藍染と変わらぬ!」
「同じだってもう、かまわねえ!」
はっきりと認める。俺はその時、思っていたんだ。邪魔をするなら、総隊長だって殺してやると。
足が、勝手に総隊長に歩み寄る。眼は、武器になるものを探していた。
怒りに全てを奪われていた俺は、気づかなかった。背後の通路から、ばあちゃんと松本が駆け込んできたことを。

「冬獅郎! 何をしてるんだい!」
その声は、熱しきった俺の心を一瞬でも引き止めるだけの力を持っていた。弾かれたように振り返ると、そこには見慣れたふたりの姿があった。
「隊長……」
松本は、そう呟いたきり、絶句している。今の自分がどんな顔をしているのか、その松本を見るだけでも分るというものだ。

ばあちゃんは、総隊長と俺を順番に見比べた。そして、何が起こっているか、大体理解したようだった。
その表情に、絶望がちらついている。
……もう、知ってしまっているんだな。何が起こってしまったのか。
「……ばあちゃん。流魂街に帰って待っててくれ」
「なに、を」
「すぐに。藍染の奴をこの手で殺してやるから。そうすれば、俺達は元へと、戻れるんだ」
そう。藍染が、全ての元凶を作ったんだ。雛森と俺との間を引き裂き、今ばあちゃんにこんな顔をさせている。
藍染さえ、この世から消え去れば。そしたら、何もなかったことに出来る。……もとに、戻れるんだ。

「……総隊長。藍染の居場所を教えてくれ。教えないなら、あなたでも容赦はできない」
俺は総隊長に向き直る。炯炯と輝く眼が、俺を見た。
「……霊圧を失ったおぬしに、何が出来る。正気に戻れ、日番谷隊長」
「俺はもう隊長じゃねぇ!」
悲鳴のような声が、背後の松本から漏れた。その痛みは、俺の衝動をさらに掻きたてる。
総隊長に一足飛びに飛びかかろうとした、まさにその時だった。俺よりも一回り小さな影が、敢然と俺の前に立ちふさがった。

乾いた音が、その場にこだまする。
「……ばあ、ちゃん」
小さな肩が、震えている。皺だらけの掌が、俺の目の前にある。頬が、しびれたように痛んだ。
ばあちゃんに頬を叩かれたのだと気づくのに、しばらく時間がかかった。
「……あんたは、冬獅郎じゃない」
一歩、二歩、とあとずさって、ばあちゃんは俺を見た。
「このばあちゃんを……桃を護るといったあんたは、何処へ行ったの。
そんなに誰かを殺したいなら、このばあちゃんを殺して行くがいいよ」
その顔が、両手で覆われる。その指の間から、ぽたり、と涙が落ちるのを、俺はどこか遠くのものを見るように見ていた。

おかしいな。
ばあちゃんは泣かせないと思っていたのに。
藍染を殺せば全てが元に戻るはずなのに、どうしてみんな邪魔をする?
殺そうとすればするほど、全てが遠のいてしまうのはなぜなんだ?

「おばあちゃんっ!」
よろめいたばあちゃんを、唖然と様子を見守っていた松本が支える。
「脱水症状を起こしてるわ……誰か、誰か、水を……!」
松本の必死の視線が、俺とぶつかる。俺はためらい、迷い……そして、踵を返した。

俺は、やっぱり、変わってしまったのかな。それとも、狂ってしまったのか?
ばあちゃんがこんなに苦しそうな顔をしているのに。ばあちゃんを護るためなら、なんだってすると思ったはずなのに。
たった一滴の水さえ、出せる気がしないんだ-


***


死をはらんだ静寂。
流魂街に飛び出した俺を待っていたのは、恐ろしいまでの沈黙だった。
潤林安から数里と離れていないこのエリアは、治安が悪くはないはずなのに。
井戸の傍には乾いた桶が転がり、家々の戸は開いたまま。
住人達は、いたるところに見られた。しかし、その分沈黙が異様だった。
ある者は足を投げ出し、ある者は虚空を見上げる。乾き、とは、これほど人を摩滅させるものなのか。

乾いている、と言えば、俺も同じなのかもしれないな。不意に、そう思う。
狂気のように襲ってきた怒りは、嘘のように霧散していた。
ただ、その場に座り込んでしまいたいような虚脱感だけが、俺の中に留まっていた。

「誰か!」
突然、しわがれた男の声が静寂の中に木霊した。誰も、顔を上げさえしない。
駆けてくる人影に視線を上げると、流魂街のどこにでもいそうな男と眼があった。
「あんた、死神か!」
普段は死神はおそれられる存在だが、それどころではない、という勢いで、男は俺の胸倉をつかんだ。
「俺の家族が、死にそうなんだ! 頼む、水を、水が手に入らないか!」
「日番谷冬獅郎」なら。こんな悲鳴を、無視できるはずがないと思う。
自分で水を出しただろうし、できなかったとしても、水を求めて走るだろう。見ず知らずの男の家族のために。
……でも、残念だ。そんな奴は、俺の中からいなくなってしまった。

男のすがるような眼は、やがて絶望に……すぐに、怒りに変わった。
ちっ、と舌打ちをすると、俺がよろめくほどの勢いで突き飛ばすと、そのままその場を駆け去った。
俺は、無言のまま俺の掌を見下ろした。

『どうしたんだい? もう、諦めてしまったのかい? それとももう、死んでしまった、のかい』
もろいものだ。そう、哀れむような藍染の声が、俺の頭の中で響いた。
死んでしまった、か。言い当て妙だと俺は思う。
体の死が、すべてじゃない。今の俺は、体は歩いていても、その中には何もない。これが死じゃなくて、何だと言うんだろう。
『君はね。雛森君のために、僕に対して憤っていたわけじゃないんだ。
雛森君の心を奪い、そしてあんな目に会ってもなお奪ったままでいるこの僕が、憎かっただけなんだよ。
君が護りたかったのは雛森君じゃなく、自分自身の心だったんだ』
あの男の声は、今は優しく甘くさえ聞こえた。そうやってあいつは、相手に最後の刃を突き立てるんだ。
分っているのに、聞き入ってしまう。あいつが人を殺すのには刃は必要ない。ただ、ささやくだけでいいんだ。
『君がすべきことは、ひとつしかない。それは……』

「日番谷君」

藍染にかぶさるように聞こえた、その声。思わず、肩が震えた。
再会の日がいつか来ると、想像したことはあった。どんな風に、顔を合わせようかとも。
でも思いがけなくやってきたその瞬間に、俺は反射的に振り返ることしかできなかった。

「……雛森」
見返して、驚いた。こいつの目は、こんなに澄んでいただろうか? 異様なくらいに、輝いて見える。
「……傷、は」
俺の問いに、雛森は無言のまま、襟元をくつろげて見せた。
そのきめ細かい、真っ白な白い肌に、無惨に残った傷の形は……十字架のような、十文字。
「……お前は……俺を、恨んでいい」
藍染さえ殺せば全ては元に戻る。そう思っていたさっきまでの自分の愚かさを、見せ付けられた気持ちだった。
何もなかったことにする、どころか。赦しさえ、請えそうにない。

沈黙が少しでも入るたび、藍染の声が頭の中に響くような気がする。
いや、意識をこらすはこらすほど、いつも聞こえてくると言っていいくらいだ。

雛森は、大きく一歩俺に歩み寄った。対照的に、俺は小さく一歩退く。
「……おばあちゃん、泣いてたよ。自分の掌を叩いて、泣いてた。
日番谷君が辛いのを知っていたのに、追い討ちをかけるようなことをしたって。こんなはずじゃなかったって、悔やんでた」
「……ばあちゃんに、会ったのか」
「うん。日番谷くんが立ち去った直後に、駆けつけたの。何が起こったか聞いた」
雛森の頬に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「藍染隊長は、生きてたんだね。……よかった」
「……よかった、だと……」
お前まで。一番苦しめられたお前まで、まだそんなことを言うのか?
搾り出した俺の言葉は、もう悲鳴に近かったと思う。
「なんで……なんで、わからねぇんだ! あいつは、お前を……」
どうして、お前は微笑ってるんだ? 俺じゃなくて、お前が狂っているのか?
俺は衝動的に、雛森に大股で歩み寄った。
「力が使えないのに? みんなが、止めてるのに?」
「力なんてなくたっていい! 誰にも理解されなくたっていい! 俺は、藍染を……」
勝ち誇ったように藍染の笑声を、脳裏に聞いた気がした。

雛森の声が、ぽつん、と俺の中に落ちた。
「もういいよ、日番谷君」
やわらかな感触が、全身を包み込んでいる。抱きしめられているのだ、と分った。
「あたしは、日番谷君のこと、大好きだよ。これまでも、これからもずっと」
その腕に、力が込められる。

赦さない殺してやる。赦せない死にたい。心の中で叫んでいた自分自身の声が、ふ、と、止まった。
そして、なぜだか分らないけれど。
俺の中で響き続けていた藍染の声が、その瞬間戸惑ったように途切れ、その後、途絶えたんだ。
心の中が、静かになった。

刹那。

ぽつり、と音が頬にはじけた。
乾いた地面に、土ぼこりが舞う。

「……雨」
覚えず、二人同時に呟く。さあああ、と音を立てて、細かい雨が降り出した。
厚い雲が、あっという間に空を覆いつくそうとしている。
「……あ」
雲間に一瞬、龍の姿が見えたような。
体をうねらせ、咆哮し、雲を呼ぶ。真紅の眼差しが、俺を一瞬見た、そんな気がした。

「雨だ!」
「天の恵みだ! 助かったぞ!」
轟くような、地面を揺らすような、歓声が聞こえる。
護れるのか、と思う。もう一度、あの場所に立ち戻れるのなら。
俺は肩を震わせて泣いている雛森の背中に、腕を回した。