リリネットは、心中ごくりと唾を飲み込んだまま、言葉を挟めずにいた。
自分を使いこなす少年に、軽口を叩ける雰囲気はもうなかった。
日番谷が霊圧を込めやすいよう手を貸してやっていた二発目までと、三発目は明らかに違っていた。
もう、リリネットが止めようとしても、支配権は完全に日番谷に移っている。
もしかしたら、とんでもない死神に、自分は力を与えてしまったのかもしれない――

「さすがは隊長格、と言ってやろう」
そう思ったタイミングで竜弦が放った言葉に、リリネットは耳を疑った。
「た、隊長格?」
隊長と言えば、何千人といる死神の中でトップの実力を持つ十三人のことだと、リリネットでさえ知っている。
「まあな」
「まあなじゃないでしょ! 隊長のくせに、なんで刀持ってないのさ!」
「置いてきた」

はぁ? とリリネットはもう一度耳を疑った。
少し前に、空座町は破面と死神の戦場になると言ったのは、他ならぬ日番谷自身だ。
いつどこで戦いになるかも知れない中で、丸腰でやってくる神経が分からなかった。


ああ、と日番谷は、我に返ったような息を漏らして、不意に足を止めた。
五メートルほど離れて、竜弦と正面から向き合う。
「死神が、この男の父親だった滅却師を惨殺した。その償いをするつもりだった」
「償い?」
「ああ」
頷いた日番谷は、わずかに唇をゆがめた。
結局、償うどころか追い込んでいる自分に思い当たったからかもしれない。
続けた日番谷の言葉には、実感がこもっていた。
「でも、ここに来てよく分かった。償うなんて不可能だ」

「その通りだ。そもそも私は宗弦の死に思うところは何もない。
我々が殺しあうのは、我々がただ、滅却師と死神だからだ」
竜弦は再び、矢を形作る。
これほどの力が残っていたのか、と驚くほどに、段違いに強い力が矢に集中していた。
その全身が、青白く輝いて見えるほどだ。
「……これで最後だ、死神。どちらかが死んで、戦いが終わる」
「……俺、は」
「構えろ、死神」
竜弦がそう言うのと、矢を引き絞るのは同時だった。
「来るぞ!」
リリネットが叫び、日番谷を見上げる。

日番谷の視線は、竜弦に向けられていた。
その視線の先を追ったリリネットは、竜弦の胸ポケットから覗いている銀色の輝きに気づく。
―― 「貴様が、これをもってきた死神か?」
そう言った竜弦が示してみせた、十字架だ。一体なんのことかリリネットには分からなかったが――
瞬間、リリネットを握り締めた日番谷の手が、震えた。

ゆっくりと、銃口が地面に落ちていくのを、リリネットは信じられない思いで感じた。
「馬鹿、お前なにやってんだ! 戦えよ!」
「……その、十字架」
日番谷は、ゆっくりと竜弦の胸の十字架を指差した。
「それには、お前の父親と、俺の部下になるはずだった死神の祈りがこもっている。
殺し合いの螺旋を……止める。それが出来るのは、生きてる俺達しかいないんだ。
望んで叶わなかった部下の願いを、俺は隊長として叶える義務がある」

リリネットは、固唾を呑んで戦いの行方を見守った。
竜弦は、わずかに矢の切っ先を地面に向けた。リリネットがほっとしたその瞬間、
ふっ……と、竜弦の姿が消えた。

「冬獅郎!」
リリネットは思わず悲鳴を上げていた。
姿を消した竜弦が一瞬のうちに日番谷の眼前に迫り、その拳を振り上げていたからだ。
「ぐっ!」
腹を打たれた日番谷が、くぐもった悲鳴と共に背後に吹き飛ばされる。
カシン、と音を立て、銃が地面に落ちた。
「それが偽善だというのだ!!」
竜弦の激情がこもった一喝が、その場に響く。
「あたしを拾え! 拾えよ!」
リリネットの叫びにも、日番谷は身を起こしただけで反応しない。

「……お前が、父親の死に関心がないなんて嘘だ」
「まだ言うか」
竜弦が、日番谷の額に矢を突きつける。日番谷が弾かれたように顔を上げる。
「嘘だろ! じゃあ何でお前は、その十字架を――」
「問答は無用だ」
矢が、日番谷に向かい振り下ろされた……リリネットは思わず目を閉じる。
ガッ、と鈍い音がその場に響き渡った。


「竜弦!」
リリネットの鼓膜を叩いたのは、聞き覚えのない少年の声だった。
恐る恐る目を開けた彼女の前には、黒髪の眼鏡をかけた少年が立っていた。
「お前……」
日番谷が目を見張っている。
少年は、竜弦と全く同じ矢で、振り下ろされた矢を日番谷の眼前で食い止めていた。
「雨竜! 貴様……」
竜弦の言葉に目を向けることなく、背後の日番谷を肩越しに見下ろす。
「こんなことじゃないかと思ったよ」
そして、全身に力を込め竜弦を弾き飛ばす。少し離れた場所に、竜弦は降り立った。

佇む二人の男は、その顔立ちといい、雰囲気といい、構えている矢といい、あまりに似すぎていた。
―― 親子、なのか……
「雨竜」
血が通っているとは思えないような冷たい声だった。
「敵である死神に背を向けるとは、滅却師としての誇りを失ったか」
「……滅却師をバカにしてるあんたが、滅却師を語るのか? ……あんたは、何も分かっていない」
「お前に何が分かる。まさか滅却師と死神が並び立てると思っているのか」
「もちろんだ」
雨竜は、ためらいなく言い切った。
日番谷が血に汚れた顔を上げ、その横顔を見上げる。いつの間にか振り出した雨が、その頬をぬらしてゆく。
「死神と滅却師は共存できる。それが祖父の信念だった」

「だが、父は死んだのだ」
そう言い放った竜弦の言葉が、かすかに……かすかに、感情の震えを帯びるのをリリネットは確かに聞いた。
「共存など、出来はしない」
矢を引き絞る。シンメトリーのように、すかさず雨竜も弓を構えた。
「やめろ。親子だろ」
日番谷が、背後から雨竜の袖を引く。
「親子なものか。あいつに、人の情なんてない」
「……見ろよ」
日番谷の視線の先を追った雨竜の表情が、竜弦の胸元でぴたり、と固まった。
「……滅却十字(クインシー・クロス)? 何であんたが、その十字架を持ってるんだ?」
信じられない、という風に続ける。
「墓前に来てたのか? まさかあんた、今日が何の日か……」
「ただの気まぐれだ」
竜弦は、息子の言葉を途中でさえぎった。


雨竜は、しばらく無言だった。
ふぅっ、と息を吐き、勢いよく矢の切っ先を下ろす。力尽きたように、その弓矢がふっ……と、消えた。

「……行けよ」
雨竜の声は、降り始めた雨の中でどこか優しく聞こえた。
「ただの気まぐれで、祖父を見舞ったっていうんなら。僕は気まぐれで、あんたを見逃してやる」
竜弦は、しばらく無言のまま、息子と日番谷、リリネットを順番に見た。やがて、ため息をつく。
「……お前達の甘さには、反吐が出る」
そう言い残すと、軽やかに踵を返した。



「……何だか分からないけど、終わった、のか」
竜弦の足音が聞こえなくなってから、リリネットは小さく呟いた。
あんな何も信じないような男の胸にあった十字架の輝きが、今も僅かに残っているように思えた。
「……だな」
日番谷が、ふっ、と全身の力を抜く。と同時に、その体が崩れ落ちた。
「冬獅郎君っ?」
雨竜が、慌てて駆け寄る。遠くから、別の死神がやってくる気配も感じていた。
潮時か。リリネットは、ふわりと人の姿に戻る。

日番谷に肩を貸して振り返った雨竜が、リリネットを見て目を剥く。
「なんだ、君……破面、なのか」
「……やめろ。敵じゃねぇ」
「敵じゃないって……」
雨竜が呆れたように日番谷を見下ろす。その小さな銀色の頭は、ぐらぐらと揺れている。
どうやら、平気な顔をして銃を扱っていたのは、やせ我慢も多分に含まれていたらしい。

「無茶しやがって、ば――――か」
ふわり、とリリネットは中空に舞い上がり、日番谷を見下ろした。
敵じゃない、だって? そんなことは、ありえない。
もうじき、破面と死神の全面戦争が始まる。
隊長らしいこの少年と、十刃の従属官である自分が敵として再会しない未来は、ありえない。
特別なひと時が……終わる。リリネットは笑顔で、日番谷に手を振った。
「でもあんた、なかなかイイよ」
無意識の間に、戦争の後のことを考えない自分がいた。
でも生きていれば、またこんな風に笑い会うことがあるだろうか?

「おい、お前……」
「じゃあな」
破面らしくもない感傷。それに捉まる前に、リリネットはその場から姿を消した。