教室の窓からは、水彩絵の具で刷いたような灰色の空が広がっているのが見えた。
授業が始まる前の教室は喧騒にあふれていたが、雨竜は席に腰掛け、本に没頭していた。
不意に、視界の隅に飛び込んできたのはオレンジ色の頭だった。
意識をそちらに向けてしまったことに忌々しい気持ちになりながら、雨竜は本から顔を上げる。
その拍子にずれてきた眼鏡を、右手でクイッと押し上げた。

「ッス」
一護は雨竜と目が合うと、挨拶ともいえない声を発して歩み寄ってきた。
「やぁ。相変わらず能天気な頭で何よりだね」
「いつだってこの頭だ俺は! 相変わらず嫌味な奴」
カバンを雨竜の前の机に置くと、自分の体をどさっと投げ出すように、椅子に腰を下ろした。

「ったく、なんでこんな奴が俺の後ろの席なんだ。越智サンに文句言ってやる」
「あぁ。背中には気をつけるんだな」
「気ィつけてられるか、一日中! 全く、執念深い奴だな。まだ死神を毛嫌いしてんのか?」
「当たり前……」
当たり前だろう。いつもならためらいなく言い捨てていただろうが、雨竜はそこで言葉を止める。
今朝見た銀髪が、頭をよぎっていった。

あん? と一護が胡散臭そうな視線を、黙り込んだ石田に返す。
「なんだ? 熱でもあるのか石田君?」
「気味悪い呼び方するな!」
石田が一護をにらみつけた時、一護は既に視線をそらしていた。


「オス、一護」
「おぅ、たつきか」
男のようなショートカットの少女が、カバンを片手で肩に担いで教室に入ってきたところだった。
空手の腕では間違いなく全国レベルという、学校……いや、空座町全域で知らぬ者のない少女だ。
素手で熊に勝ったとか、ダンプカーを「はねた」とか、一概に笑えない噂が絶えない。

「あんたの病院、今忙しいの? うちの道場、最近怪我人多くてさー。かかりつけの病院決めたいんだけど」
「……そりゃ、お前が気をつければ済むことじゃねぇのか」
「気をつけるたって、空手なんだからしょうがないだろ。怪我はつきものだ」
「……かわいそうに」
「あ? ケンカ売ってんの? あたしに」
勘弁してください、と頭を下げる一護の向こうに、石田は栗色の髪を見つけた。


うふふ、と顔全体をほころばせて一護とたつきのやり取りを見守っていたのは、井上織姫だった。
カバンの取っ手を両手で持ち、短めのスカートが軽やかに揺れている。
長い栗色の髪が、窓からの風にそよいでいた。
「おっはよ! 黒崎くんっ」
満面の笑みを浮かべて、一護に声をかける。
毎日毎日一護とは学校で顔を合わせているというのに、心から嬉しくてたまらない、という顔をするのだ。
見守っている石田が、面映いような気持ちになるほどに。

「……おぅ」
それに対する一護の返事は、織姫に比べれば物足りないことこの上ない。
元々不器用な男で多弁でもないのだから、これくらいの反応が関の山なのだろうが。
「もったいなさすぎるな」
つぶやいた石田の声に、耳ざとく聞きつけた一護が振り返った。
「あん? 何がもったいないって?」
「……別に」
思い切り馬鹿にした視線を投げつけると、一護は眉間に深い皺を寄せた。


「おーす、一護ゥ!」
「おはよう、一護」
次々と声をかけてくる友人に、一護は同じように無愛想に返す。
不思議な奴だ、と思う。
お愛想ひとつ言えるわけじゃなく、楽しそうに笑うわけでもない一護は、ぱっと見は強面なのに。
なぜか皆が、いつの間にか一護のところに集まってくる。

あんなヤツ、と普段は顔を背けている雨竜でさえも、気を抜けばその引力に引き寄せられてしまいそうだ。
―― そんなのは、ゴメンだな。
そう思い、読んでいた本にまた、意識を戻した時だった。
「おはよ、石田くん」
笑みを含んだ柔らかな声が、上からかけられた。


「……井上さん。おはよう」
「おはよっ」
顔を上げて挨拶を返すと、律儀に繰り返した織姫は、屈託のない笑みを雨竜に向けた。
「何読んでるの?」
「……大した本じゃないよ」
覗き込まれて、とっさに本の表紙を見えないように倒す。
何のことはない、どこの本屋でも並んでいる文庫本だったのだが、
何だか自分の中を覗き込まれるような気がして、気恥ずかしくなったのだ。

「ふうん?」
前かがみになると、栗色の長い髪がさらりと流れる。
そのまま、じっと一点に見入ってしまった織姫を、雨竜は首を傾げて見やった。
「……僕の手が、どうかしたかい?」
その視線の先を辿れば、本というよりも、本を支える右手に向けられているのが分かった。

織姫は雨竜の視線を感じると、ふるふると首を振る。
「なんでもないの。でも……」
どこか不思議そうな表情のまま、雨竜に手をのばした。
その華奢な指先が右手に触れ、ドキリとする。
「……何か、あった?」
右手の甲に触れたまま、織姫は尋ねてきた。
え、と雨竜は息を飲む。
そう聞かれると同時に、この手が数十分前まで、祖父の形見の十字架を握りしめていたのを思い出したからだ。




***


それは今朝、日番谷を見送った後のことだった。
雲間から光が差し込んできて初めて、雨竜はいつの間にか雨が止んでいるのを知った。
日番谷が去ってから、どれくらい時間が経ったのだろう。気づけば、随分明るくなっていた。

掌の中にある、十字架に視線を落とす。わずかな日光に照らされ、鈍く輝いている。
いつも習慣のように、十字架を握り締めて祈っていた祖父の小さな姿を思い浮かんだ。
―― 「何に祈ってるの?」
そう尋ねた雨竜に、はっきりした答えが返されることはなかったが。
―― 「死神や虚、滅却師。すべてを越えた『大いなる意思』に、祈りをささげておるのじゃよ」
なんどか尋ねた時に、そんな答えが返ってきたのを思い出す。

「大いなる、意思……」
それは、神のことなのか。気づけば雨竜は、あの時祖父がしていたのと同じように、
両掌の間に十字架を包み込み、指を組み合わせていた。目を閉じようとして、はっと我に返る。
大いなる意思なんてぼんやりしたものに祈るなんて、自分にはそぐわない。
思わず苦笑いを浮かべ、両掌を開いた。
何千回、何万回も祖父の手にこすられ、握り締められてきた十字架は、いつも磨かれたように輝いていた。
今もその輝きは変わらない……まるで誰かが今でも、祈り続けているように。


祖父が何を思い、何を信じて、何を祈っていたのか分からない。もう、聞くこともできない。
「……護ってゆくよ、これからも」
祖父を護るのは、いるかどうかも分からない神ではなく、自分でありたかった。
来年も、再来年も、十年後も、自分はこうやって祖父の墓の前に立ち続ける。
その一方で、実の息子でありながら、一度も墓を訪れもしない男のことを、思い出す。
キリ、とわずかに唇を噛み締めた。
死神ですら祖父の死を悲しむ心があるのに、あの男の中には、本当に温かい血が流れているのだろうか。

いつか、父親の考えていることが分かる日が来る、と祖父は言っていた。
「……関係ないさ。僕には」
実の父であるなどと、認めたくもない。
石田竜弦。
思い出したその名を、雨竜は頭から振り払った。



不意に雲が割れ、差し込んできた朝の光が雨竜を照らした。
顔を上げたとき、
―― 邪魔したな。
子供にしては低く、大人にしては柔らかいアルトの声が、また聞こえた気がした。
思わず墓地を見回したが、当然、もうあの姿はどこにもない。

日番谷は、とっくに瀞霊廷へ戻っているだろう。
そして、何食わぬ顔で部下達の追及をかわし、すでに朝一番の書類に目を通しているに違いない。

「僕も、帰るか」
わざと声を出して、大きく息を吸い込む。
帰らなければ、何気ない日常に。
「じゃあ、行くよ。おじいさん」
微笑を落すと、握りしめていた十字架を、そっと墓の蜀台の横においた。
その銀色の輝きは、どんな美しい花よりも、老いた滅却師への贈り物としてはふさわしく思えた。


***




「あ! ゴメンね」
あまりに長く手に触れすぎた、と思ったのだろう。織姫が赤面して雨竜から手を引いた。
伺うように雨竜を見下ろすが、その時になって彼が、窓の外に目をやったまま動きを止めているのに気づいた。
「石田くん、どうしたの……?」
その視線が刃のように鋭く、織姫はためらいがちに声をかける。
まるで目の前に敵が立っているかのように、その視線は敵意に満ちていた。

答えない雨竜の横に立ち、織姫は周囲を見回したが、何もない。
虚らしいものの気配も感じなかった。
「……なんでもないよ」
雨竜はやっと振り返り、微笑を返す。
その時には、さっきまでの敵意は嘘のように彼から消えていた。

しかしその言葉とは裏腹に、石田はガタリと椅子を揺らし、立ち上がった。
「ちょっと出てくる。井上さん、越智先生には、用事があって退出しています、と伝えてもらえるかな」
「え? でも……」
「頼むよ」
それだけ言い残してくるりと背を向けた雨竜に、慌てた織姫が手を伸ばす。
前の席に座り、竜貴と話していた一護が振り返った。

「何だよ、石田? どーかしたか」
「本当に君は、能天気でいいな」
「あぁ?」
眉間に皺を寄せながらも、一護が腰につけた死神代行証をチラリと見下ろす。
虚に反応するはずのそれは、カタリとも音を立てなかった。
でも……雨竜を見上げた一護は、その背中にただならぬものを感じて立ち上がった。

「言えよ、何かあったんだろ?」
「プライバシーの侵害だ。ほっといてくれ」
「プラ……」
一護が絶句する。
「あのなぁっ、せっかくヒトが……」
「黒崎くん」
前に出そうになった一護を、織姫がそっと袖を掴んで引き止めた。
「なんだよ、井上」
ふる、と織姫が首を振る。


「……何かあったら、必ず駆けつけるから言ってね。石田くん」
雨竜を見上げた織姫の瞳の中には、色濃い心配が見える。
それでも一護を引き止めたのは、雨竜の性格が分かっているからだろう。
「……ありがとう」
以前なら突っぱねていただろうに、礼を言う自分は変わったのかもしれない。
教室を出ながら、チラリと思った。



―― どういうことだ……何故、アイツが……
教室を出ると同時に、小走りに駆け出す。
空座町に膨れ上がっている気配の正体が「滅却師」のものに他ならないことに気づくのは、
この町の中でも、滅却師の血を引き継ぐ自分しかいない。
そして、自分以外に滅却師でありえる人物は、ひとりしかいなかった。

石田竜弦。
雨竜の父親であり、滅却師であり……
雨竜にとって、最も大きな「壁」ともいえる男だった。

その男が今立ちはだかるのは、一人の死神だということは分かっていた。
彼が、どういう経緯で竜弦に出会ったのかは、全く分からない。
―― 早く行かなきゃ……
水溜りを跳ね飛ばして駆けて行くと、きゃっ、と通りすがりのOLが悲鳴を上げる。
自分は慌てているらしい。
他人事のように自分を分析しながら、ふと思う。
自分は一体、どちらに刃を向けるつもりだ?