七月十日
刃ではなく、十字架を。
憎しみではなく、ささやかな祈りを。
鋼のような冷たい夜の中、
私は唯、己の罪の前に跪く。
十字架を掻き抱き、名も知らぬ滅却師に代わり、祈りを捧げる。
自分が赦されたいわけではないのだ。
どうか、この殺戮の輪廻を誰かが絶つ日を願って――
「あ……」
しまった、と日番谷は声を上げる。
畳の上に、落ちた十字架が弾む。その隣に日記帳がばさりと落ちた。
残処理が必要な書類を自室まで持って来たのはいいが、まとめて持ちすぎたらしい。
―― 預かったのはいいが……
昼間やってきた未亡人のうち一人が寄越してきた、来栖という死神の日記。
隊長に持っていて欲しいという未亡人の願いから預かりはしたが、開く気はなかった。
しゃがみこみ、日記帳を畳もうとした手が、ふと止まった。
その頁が開いたのは偶然ではないらしく、その紙だけ濡れたあと乾いたようにくしゃくしゃになっていた。
「『刃ではなく、十字架を……憎しみではなく、ささやかな祈りを』」
目に飛び込んできたその文字を、ゆっくりと読み上げる。
まるで、これは遺言のようではないか。そこまで考えて、ふと日付に目が留まった。
七月十日。三人が虚に敗北し、残酷な死を迎えたその日に、書かれた日記だ。
それを裏付けるように、その日から後は白紙になっている。
死神としての矜持を忘れ、結果的に滅却師の死に加担した三人は、日番谷からすれば許すことはできない。
でも……乱れたその文字が、日番谷に何かを訴えかけているような気がして。
日番谷は開いたまま日記を手に取り、机の前に腰を下ろした。
揺れる行灯の下で、日番谷は深いため息を漏らした。
―― この殺戮の輪廻を誰かが絶つ日を願って。
そんなことができるなら。戦いなどとっくに終わっている。
二度と開かない気持ちで、その日記を閉じ、行李の奥に深く仕舞いこんだ。
―― 誰か。
日記の言葉が、幾人もの男の声で頭の中によみがえり、消えてゆく。
「俺、しかいねぇじゃねぇか」
思わず苦笑いする。願いを託すべき「誰か」は、この日記を読んだ人間でしかありえないのだから。
その時命を落としていなければ、今頃自分の部下であったであろう男の言葉だ。
日番谷は机の上の十字架を握り締める。来栖が掻き抱いて祈ったという十字架を。
祈り方なんて知らない。滅却師の祈る神とやらが、誰なのかも知らない。
しかし日番谷は、しばらくその十字架を握ったまま、動かずにいた。
***
「っ!」
日番谷は、滅却師の男が放った矢を、身をひねってかわした。
血しぶきが弾けて初めて、避けきれていなかったことに気づく。押されるように背後に下がった。
「紙一重で避けても無駄なこと。私の矢の衝撃波はかわしきれん」
左肩に熱い痛みと、血が流れ落ちる感覚を感じる。しかし、気にしている余裕はなかった。
―― 強い……
石田雨竜のデータは、瀞霊廷に忍び込んだ時に残っている。
日番谷も目を通していたが、参考にならないくらい竜弦の力は強かった。
竜弦は、白いスーツを全く汚しもせず、無表情のまま佇んでいる。
日番谷の羽織を見て、わずかに眉を潜めた。
「貴様、隊長格か」
「だったらどうした」
「なぜ攻撃してこない」
「俺の勝手だ」
斬魂刀がなくても、鬼道など攻撃の手段には事欠かない。
それでも日番谷は、戦いが始まって約三十分、避けるばかりで一度も竜弦に攻撃はしなかった。
場所は、人気のない森の中の公園だった。
テニスコートの裏で、打ちっぱなしの壁が道路からの視界をさえぎっている。
竜弦は、青白い光を放つ弓を左手で持ち上げる。同時に右手に矢が現れた。
慣れた手つきで矢を番え、日番谷に向ける。
「……さっきは破面と一緒にいたな。逃がしたのか」
日番谷は、それには無言を保った。
あのプラチナの髪の、生意気だった破面の少女を思い出す。
今頃虚圏に戻って、変な死神見習いに会った話でもしているかもしれない。
「逃がした」と言われれば、それ以外のなにものでもなかった。
「反吐が出る」
今まで感情らしい感情を見せなかった竜弦が、不意に口元をゆがめて言い放った。
「なにがだ。死神が、お前の父親を殺したことか?」
「それは構わぬ」
目を見開いた日番谷の前で、竜弦はこともなげに言い放った。
「死神と滅却師は、互いの性質上決して相容れない。生まれながらの敵同士だ。
死神には、滅却師を殺す理由があった。それがどんな死に方であったかに関わらず、理屈にはかなっている」
「……理屈だと?」
耳障りの悪い言葉を聞いた気がして、日番谷は眉を潜めた。
血の繋がった家族を持たない自分には、実感として理解することはできないが。
自分の父親の死を……恐らく、あんな残虐な死を察しながら、なお「理屈」で割り切れるものだろうか?
「そうだ」
竜弦は頷くと同時に矢を放つ。考えに囚われていた日番谷は、完全に初動が遅れた。
放たれた矢は真っ直ぐに日番谷の胴体を貫く。しまった、と思った時には背後に吹っ飛ばされていた。
背後の壁が崩れるほどの衝撃。地面に膝をついて崩折れるのは堪えたが、喉元に熱いものがこみ上げる。
吐き出してみれば、それは薄暗い中でも鮮やかな真紅だった。
―― 「君に何かあれば、乱菊さんが泣いてしまうよ」
殺されるかもしれない。そう覚悟した瞬間耳によみがえったのは、今朝の雨竜の言葉だった。
随分苦しんだだろうに、日番谷には怒りの言葉ひとつ吐かなかった。
今あの少年は、何をしているだろう。乱菊は、十番隊の隊士は。
ぐい、と身を起こした日番谷の目の前に、男の影が迫る。
「私が嫌悪するのは偽善。曖昧さ。死神として祖父を殺しながら墓前に現れる偽善。
確実に殺せる破面を前にしながら見逃す偽善。……つまり貴様のことだ」
再びその右手に矢が現れる。この至近距離では、かわせないだろう。
―― 刃ではなく、十字架を……憎しみではなく、ささやかな祈りを
そんなのは無理だ。日番谷は、ぐっと地面を握る手に力を込める。
祈ることでは、誰も救われたりしない。
今だって、相手を殺す覚悟でかからなければ、殺されるしかないのだ。
許せ、と日番谷は顔も知らぬ隊士に呟く。
自分には、殺戮の輪廻を断つことなんて、できない。
自分を待つ人間がいる限り。
「蒼火墜!」
地面についた右手を払い、鬼道を口にする。同時に蒼い炎が噴出し、竜弦の弓を襲った。
握った左手ごと炎に覆われる。無表情で竜弦はそれを見やった。
そして、右手を日番谷の眼前に突きつける。
「……弓がなくても、矢は放てるのだよ」
まずい、と思った。目の前に相手の霊圧が集まる感覚に、背筋がぞわりと粟立つ。
「本気になるのが遅すぎた」
至近距離から放たれた矢が、日番谷の額を貫こうとしたその時――どん、とその肩が押される。
なにが起こったか分からない間に、背後に吹っ飛ばされた。
「なに……」
仰向けに倒れ、慌てて身を起こそうとしたが、何かが圧し掛かっている。
それを見下ろした日番谷は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「お前……リリネット! 何やってんだ」
「……てー……」
呆れたことに、あの間一髪の瞬間に、日番谷と竜弦の間に飛び込んだらしい。
日番谷は慌ててリリネットを見下ろしたが、ケガをしているようには見えなかった。
彼女は頭を振って身を起こすと、自分の下敷きになっている日番谷をいきなり怒鳴りつけた。
「やっぱり思ったとおりだ! 無様にやられちゃってさあ、見習いの癖に!」
「お……お前こそ、弱いくせに何しに来た!」
「飯おごられたから、仕方なく来てやったんだ、礼を言え!」
「……バカヤロウ」
本当にバカだ、と日番谷はリリネットを押しのける。
とてもじゃないが、リリネット一人加勢したからといって、この目の前の男に勝てるとは思えない。
この力の差が、こいつにはわからないのだろうか?
「……これは、面白い茶番だな」
近づいてくる竜弦の足音に、二人は跳ね起きる。
焼けたジャケットを脱ぎ捨てた竜弦が視界に入る。全くダメージを受けているようには見えない。
「おい、破面。助けられたのは礼を言うが、とっとと逃げ……」
「んなことよりさ」
リリネットは日番谷の前に出て、油断なく竜弦を見据えながら言った。
「あたしと手を組まない? 考えがあるんだ」