「なつめ堂」の格子窓は大きく開け放たれ、窓からは猫の額ほどの小さな庭と、玄関先に置かれた大きな水瓶が見える。 ちょうど正方形の形をした庭は、決して日当たりはよくないそうだ。 だから、日陰が好きな草花を選んで植えていると、さっき夏梨は棗から教わった。 花たちはシンプルだけど、よく見ると可愛い。さらに良く見るとしっかりした茎と根を持っている。 Tシャツの袖を揺らした風に、水の香りを感じた。 「あ」 水瓶に、ぽちょん、と音を立てて雨粒が落ちた。 すぐに、水紋がいくつも瓶の中に広がる。格子窓の傍に立って見下ろすと、瓶の中で赤と黒の金魚が慌てふためいて泳いでいるのが見えた。 お買い上げありがとうございました、と店の中から棗の声がした。 雨とよくなじむ、しっとりとした、たおやかな声だ。ガラガラと引き戸が開けられると同時に、 「あ、雨だね」 「雨だ」 男女二人連れらしい声がした。 「どうぞ。この傘を持って行ってくださいな」 「え? でもこれ、店長さんのじゃないんですか?」 「ええ、だからお貸しするんです。ここは私の家ですから、傘は使わないし」 何度か押し問答があった後、結局二人は傘を借りることにしたようだった。 店の奥の居間から夏梨が覗くと、二人連れが一つの傘に入って店を出ていく背中だけが見えた。 自分の傘を赤の他人に貸してしまうことも、二人いるのに一本だけ貸すことも、どちらも棗らしかった。 傘の中で、仲睦まじく傘の中で身を寄せ合う二人を見送って、棗はふふっと微笑んだ。 相手をそれと知らずに微笑ませる、ほんのささやかな仕掛けを、棗はいつもこんな風にして仕込んでいるのだろう。 夏梨が何とはなしに見ていると、棗は、ちらと掛け時計に目をやり、店先の暖簾を外した。もう6時を過ぎていることに気づく。 棗は暖簾を胸に抱えると、夏梨を振り返って申し訳なさそうに微笑んだ。 「ごめんなさいね、夏梨ちゃん。せっかく寄ってくれてうれしいのに、お構いもできなくて」 「い、いいよいいよ」 夏梨は、普段夏梨を見慣れている人たちが見たら吹きだすほどうろたえて手を振った。 「こっちこそ、いきなり押しかけてごめん。家がうるさくってさ」 家に帰ったら、兄の友人が何人も来ていて、ケイゴとかいう約1名の声が家じゅうに響き渡っていたのだ。 おまけにその約1名が、突然 「夏梨ちゃん? まじで夏梨ちゃんかよ! すっげー綺麗になったな!」 と、兄の一護に後ろから蹴りを入れられたにも関わらずしつこく話しかけて来た。 面倒くさくて勉強道具をトートバックに詰め込んで、中学の制服のまま家を飛び出して来たのだ。 図書館にでも行くか、と町を歩いている時に、夏梨を呼びとめたのが店先にいた棗だった。 薦められるままに上がらせてもらい、お茶とお菓子を傍らに、涼しい居間で宿題をやらせてもらえたのはラッキーだったと思う。 店なのだからある程度賑やかだと思っていたが、まるで音を吸いこむ生き物が棲んでいるかのように今は静かだった。 たまに、店先から棗と客の話し声が聞こえてくるくらいで、宿題はもうとっくに全部片付いていた。 「傘、いいの?」 「え?」 夏梨が問うと、棗は子供のように少し目を丸くした。 「返してくれないよ、きっと」 「そうかな」 棗は少し悪戯っぽく笑う。 「あの傘、もらいものなの。前に傘を貸した人が、忘れたころになって返してくれて。申し訳ないって、なぜかもう一本くれたの。 貸したり返してもらったり、もらったりしてるから、傘の数はいつも同じくらいよ」 いや、オカシイから、それ。と夏梨は言いそうになる。 普通の人はそこまで親切じゃないし、傘を返しにいかないとなぁ、と思いながら忘れてしまったりするものだと思う。 敢えて言えば、理由は棗だからだ。立ち居振る舞いは完全に大人なのに、時々感性が子供より子供みたいだから、後ろめたくて誰もだませないんじゃないだろうか。 「……そう」 別のことを考えながら、頷く。すると棗の視線を感じた。 何か違うことを話したいんじゃないの? 目を合わせると、言葉よりも雄弁に棗の言いたいことが伝わって来る。 「ところで、さ。……冬獅郎って最近、このお店に来てるの?」 数秒も経たないうちに折れて、夏梨は棗に尋ねた。 日番谷が、たびたびこのなつめ堂を訪れていることは本人から聞いていた。 品物がいいこともあるだろうが、この店主に会いに来ているんじゃないかと夏梨は踏んでいる。 ―― 「偶然、その辺を通ったんだ」 夏梨に負けないほどツンデレな日番谷のことだから、そんな無駄な嘘のひとつもついていそうだ。 情緒ぶかくて、人の心の機微をちゃんと読んで、お店を経営する手腕を持つしっかりした女性。 きっと日番谷には、こんな女性が合うんじゃないかと、本人をよく知っているだけに思ってしまう。 棗はまさか、夏梨がそんなことを考えているとは思わないだろう。 「春先以来、来てないわ。また季節の変わり目だから、そろそろだと思うけれど」 棗はさらりとそう言うと、暖簾を片づけた。そして、ちらりと雨が斜めに降る窓の外を見やった。そして、ふと思い出したように夏梨の顔を見る。 「夏梨ちゃんの話をしてたわよ。会う度に、ずんと大人びるって」 どきん、とした。それを隠すために、夏梨は仏頂面になる。 「それは、あたしの成長が早いんじゃなくて、あいつが滅多にこないからだ。もっと来いって伝えておいて」 「でも、本当に大人っぽくなったと思ったわよ? お店の前で見かけた時、一瞬わからなかったもの」 「そう……かな」 夏梨は、部屋に置かれた姿見に映った制服姿の自分を見やった。 髪は肩をゆうに追い越すくらいまで、伸びた。でも女に目覚めたとかではなく、肩につくかつかないかより伸ばした方が手入れが楽だと気づいたから。 身につけている空座中学校のセーラー服は、初めて着たときは我ながら大人になったようでうかれたけど。 制服を脱いでTシャツとジーンズになってみれば、小学校の時とそれほど変わらないと思う。 棗は、陳列棚の上の着物を直しながら、夏梨をちらりと見て微笑んだ。 「……怒られたって言ってたわ」 「誰が?」 「冬獅郎くんが、上の人に。たぶん、総隊長、って言われているお爺さんのことだろうと思うけれど」 え、と思わず声が洩れた。一体どこまで知っているんだこの人は。 確かに日番谷の上司ならその人しかいない、というよりも、夏梨は会ったことさえある。 「怒られたって、どうして」 そんなこと、ぜんぜん知らなかった。 「そんなしょっちゅう、現世への許可証を出されたら部下に示しがつかないだろうって。この世界に来るのも、申請みたいなのがいるのね」 「え、でもあいつ、用事があっていつも来てるんじゃないの?」 確かに、日番谷は1か月に1回くらいは現世で会っている。ひんぱんだとは思うけれど、何かのついでに寄ってくれているのだと思っていた。 「ええ、あなたに会うっていう用事がね」 穏やかに切り返されて、夏梨は思わず赤面した。 「……棗さんは、そう言われて何って返したの」 棗はその時のことを思い出したのか、楽しげな目つきになった。 「駄目なのは、許可証を出すこと。理由は、部下に示しがつかないから。一言も、現世に行ったら駄目とは言っていないんじゃないのって言ったわ。 つまり、『許可証なんて出さずにこっそりやってくれ』って総隊長さんは言いたかったんじゃないかな」 「……なるほど」 夏梨は思わずうなった。確かに現世に行ってほしくないなら、禁止とか月に1回までとかはっきり言えばいい話だ。 棗はこんなところでも、仕掛けを作ってくれていたらしい。 「冬獅郎はなんて」 「笑ってたわ。今度からそうするって」 数年前よりも格段に大人びた日番谷が、ちらりと夏梨の脳裏をよぎる。 しかし、夏梨の頭の中の日番谷は、なかなかうまく笑ってくれない。 ―― 棗さんといる時は、笑ってるのか。 夏梨といる時の日番谷は、あまり笑わない。笑うとしても、口の端を少し上げるくらいだし、仏頂面をしていることのほうがはるかに多い。 「……総隊長に小言を食らったなんて話、はじめて聞いた。あんなに会ってるのに」 台所のほうで、カタカタと音をさせている棗には、聞こえないくらいの声のつもりだった。 でも棗は、すぐに返して来た。 「半分は、あなたに心配させたくなかったんじゃないかな?」 盆に急須を載せて、夏梨のいる居間に顔をのぞかせる。 「じゃ、あと半分は?」 「あなたの前では、格好をつけたいのよ」 ぶっ、と思わず噴き出した。 「ないない! あいつはいっつも腹が立つくらい普通だよ」 「そうかな? 冬獅郎くんは、たぶん見た目と年齢はそれほど変わらないわよ。けっこう、男の子だもの」 「そ……う」 夏梨は急須を盆から下ろしながら、頷くとも首を振るともつかない中途半端な返事を返した。 夏梨から見ると日番谷は大人に見えるが、棗からは子供に見えるということか? とすれば、彼の実年齢は本当は棗よりも年下なのだろうか。 正直、夏梨には全く見当もつかなかった。 「いただきものだけれど」 そう言って棗は、細くスライスした桃を出してくれた。 「やっとゆっくり話す時間ができたね」 そういう彼女は、こっちが嬉しくなるくらい楽しそうだ。 そんな風に、相手に対する好意を普通に伝えることができたら、日番谷と自分の関係も少しは変わるかもしれない、と考えてしまう。 それなのに、実際の夏梨は日番谷に会うといつもいつも、好意を押し隠そうとばかりしてしまう。 嬉しいとか楽しいとかいう気持ちは口に出せず、喉もとで憎まれ口に変わってしまったりして。夏梨は思わずはぁぁ、とため息をついた。 「どうかした?」 「ううん。……それよりさ、その着物の模様、何って言うの? なんかアンティークな感じ」 もういいや。冬獅郎からは頭を離そう。夏梨は棗に向き直る。 「茶矢羽根小紋、ていうのよ。大正時代にはメジャーだったのよ」 ちゃやばねこもん、と夏梨は呪文のように繰り返す。言われてみれば、時代劇などで見たことがある柄だった。 小豆色に近い茶色のストライプは、よく見ると矢羽根の形をしている。 着物の胸や肩のあたりに水色の葉、黄色やピンクの花の紋様が入っていて、可愛らしくも華やかだった。 帯は渋めのエメラルドグリーン。雨の季節を吹き飛ばすようなくっきりとした鮮やかな色合いだった。 髪をすっきり後ろでまとめた棗は、二十歳そこそこにしか見えなかった。 「お茶、冷めちゃったね。ごめんね」 そう言って、温かい茶に入れ替え、お菓子も足してくれる。 「……ありがとう」 棗といると、夏梨はいつも、どうふるまっていいのか分からなくなる。 男みてぇ、とよく男友達に言われるようなガサツな行動はできなかったし、だからといってここでだけ女の子らしくするのも変な具合だ。 でも、いい匂いがする棗と一緒にいると、見たことがない母や、経験がない姉がもしいたらこんな風だろうと思えた。 棗といると、夏梨の気持ちはいつも柔らかになる。箪笥の上に置かれたそれに気づいたのも、きっとそのせいだろう。 夏梨の視線につられて、棗も棚の上を見やった。 「これ……なに? 冬の着物? すごい古そうだけど」 それは、赤ちゃん用の着物のようだった。ずいぶん着ふるしていて、あちこちに染みが目立つ。 冬用らしく中には綿が入っていて、ところどころ白く飛び出していた。 「そうよ。赤ちゃんの着物だから、人形にしようと思ってもらってきたの」 赤ちゃんの着物だから人形にする、というのが分からなかったが、棗らしい感性だと思った。 「でもこれ、どうやって?」 「見てて」 棗は、隣に置いてあった裁縫箱を下に下ろす。そして、針に糸を通した。 「綿入れ」と言うらしい分厚い着物を鋏で裁ち、布地の綺麗なところを選んで人形の着物を作る。 白い着物裏は、人形の手や顔にする。中から出した綿は、人形の体の中に詰め込んでいく。 「器用だなぁ」 夏梨は、見とれながら何回目かのため息をついた。どう間違っても、自分にはできない芸当だった。 棗の迷いない滑らかな手つきは、いくら見ていても飽きなかった。 「人形が好きなの?」 不意に問いかけられて、夏梨はふと、その問いを自分の中で反芻する。 女の子らしいものから縁遠く育ってきた夏梨は、人形で遊んだことがなかった。 いつも、遊子が遊んでいるのを傍から見ていて、「夏梨ちゃんもやろうよ」そう誘われても、首を縦に振ったことはなかったのだ。 「あたしはそんな女の子っぽい遊びはいいの!」と言い張っているうちに、誰も夏梨を人形遊びに誘わなくなった。 「……うん。嫌いじゃないかな」 思い出したように口にした言葉は、言ってみるとすんなり口になじんだ。。 もしかしたらあたしは、誘われなくなってちょっとだけあの時、淋しいと思っていたのかもしれない。 熱心に手を動かしていた棗は、不意に顔を上げて壁時計を見上げた。 「お家に帰らなくていいの? もうちょっとしたら暗くなるわよ」 「うん、もうちょっとだけ……」 単調に続く雨音。暑くも寒くもない気温。少しだけ開けた窓から吹き込む風は涼しくて気持ちがいい。 そして、平和そのものの部屋の中にいると、何だか急速に眠くなってくる。夏梨は目をしばたいた。 「はい」 うとうとしていた時、笑みを含んだ声とともに、手の中に小さなものが落とされた。眠い目をこじ開けてみれば、それは完成した人形だった。 小さな小さな花柄の、赤地のきものを着、刺繍糸の髪は肩くらい。目鼻はまだついていないが、なんだか自分に似ている、と思った。 そのあとも何か棗は言ったのかもしれない。でも聞き取れなかった。ストンと意識が部屋の底に落ちていく――
2012/6/10(last update: 2012/6/11)