それから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。遠くから聞こえた低く重い音に、ふっと夏梨は目を開けた。
雷の音のようだ。雨は止むどころか、どんどんひどくなっているらしい。硝子を雨が叩く音がする。
格子窓を見上げると、きっちりと閉まっていた。部屋には誰もいないようで物音ひとつしない。

何気なく身を起して、外を見ようとしてやっと、夏梨は何かおかしいことに気づいた。
身体が、金縛りにあったように動かない。無理やり力を込めても、上から強く押さえつけられているように、重い。
肘が、膝が、全く言う事を聞いてくれない。歯を食いしばって全身に力を込めた瞬間、身体が一瞬浮き上がり、ぱたっと軽い音とともに倒れた。

畳の目が、やたらと大きく見える。横を見れば、巨大なからし色のマットのようなものが見えた。夏梨の体の何倍も大きく、端が見えない。
―― なにこれ。さっきまであたしが座ってた座布団と同じ色……?
壁際に立てかけられた鏡を見て、夏梨は喉の奥で悲鳴を上げた。

鏡に映っていたのは、無人の部屋だった。
座布団、畳、ちゃぶ台、長火鉢。夏梨が持ってきたトートバック。部屋の向こうには薄暗い店内が中ほどまで見える。。
そして……座布団の隣には、さっきまで棗が作っていた赤い着物の人形が転がっていた。じわり、と嫌な予感が拡がる。
角度からして夏梨が映っていなければおかしいのに、自分の姿は、どこにもなかった。
夏梨はしばらく凍りついたように鏡を見つめていたが、やがて渾身の力を右腕に込める。それと同時に、鏡の中の人形の右腕が、わずかに動いた。

声がまともに出る状態だったら、思い切り叫んでいたに違いない。でも人形の口が少し動いたくらいだった。
そういえば、今の人形には目鼻もついている。そして、背筋が寒くなるくらいその顔立ちは夏梨に似ていた。
自分が人形になっている。「入っている」という方が正しいのかもしれないが、どうでもいい。
あまりにも非日常な状態にいることに気づいて、夏梨はなぜか心のどこかで「安心した」。
とりあえず状況は把握できたからか、あまりにもコトが異常すぎて、恐怖や驚きが追いつかなかったのかもしれない。


その時、軽い磨り足が近付いて来るのに気づく。必死に人形の首を巡らせると、着物の裾がちらりと見えた。棗の茶矢羽根小紋だ。
「あっ、あの……」
顔を上げ、なんとか声を出したものの、掠れた小さな声しか出て来ない。というよりも、声が出た、ということにまず驚いた。
棗は、ちらりと人形を確かに見たようだった。しかし、無表情のまま座布団に腰を下ろした。
夏梨は、棗の無表情を初めて見た。陶器のような白い肌に、微かに目じりが赤く見える切れ長のまなざしは、人形よりも人形のようだった。

さっさとちゃぶ台の上に広がった糸や端切れを裁縫箱の中に仕舞っているような音が聞こえてくる。
―― どういうことだ?
畳に転がったまま、夏梨の頭に混乱が拡がってゆく。外はまだ真っ暗ではないようだったし、それほど居眠りしてから時間は経っていないはずだ。
いくらなんでも棗が、そこに転がっている人形の中に夏梨の意識が入り込んでしまったことに気づくのには無理がある。
それでも、部屋にいたはずの夏梨がいなくなった、とは思うはずだ。それなのに、どうして夏梨を探さないのだろう?
視線の隅に見える棗は、ひと声も発さず落ちつきはらって見える。不意に、自分が人形になっていることが分かった時よりも、ぞうっとした。

裁縫箱をぱたんと閉める音がする。雨音に混ざって、トントン、と店の方で引き戸がノックされた。
「はい、どなた?」
棗が、膝に手を置いて立ち上がり、店の灯りをつけた。鏡越しに、夏梨の位置からも店の様子が中ほどまで見渡せた。
入口に歩いて行く棗の後ろ姿が、鏡の端に消える。その直後に聞こえた声に、夏梨の心臓は跳ね上がった。
「もう閉店か?」
間違えようもない、日番谷の声だった。
「いいえ、開店してるわよ」
「暖簾が落ちてるのに?」
「冬獅郎くんだったら、いつでも開店中よ」
「ワケわかんねぇ」
日番谷が低く笑う気配を感じた。
「それにしてもどうしたの、ずぶ濡れで。今日は死神の恰好じゃないのね」
「現世に行く時は、仕事じゃなけりゃ義骸……人間の姿じゃなきゃいけねぇって決まってるんだよ」
「いろいろ決まりがあるのね……タオル持ってくるね」
「悪い」
二人の足音が近づき、ほどなく鏡の中に姿が現れた。

棗の差しだしたタオルを受け取った日番谷の髪は確かに濡れ、髪の先から雫が滴っている。
襟のある白シャツにジーンズを履いている。
シャツの襟から無造作に緑色の石のアクセサリーを覗かせている辺り、やはり子供のファッションセンスではないように思える。
「ありがとうね、来てくれて」
「……偶然、前を通ったんだよ」
ざぁ、と雨の音がひときわ強くなったようだった。
今の夏梨には、ぶっきらぼうな日番谷の声音さえ泣けそうなくらいに懐かしかったが、このままでは夏梨一人が置いて行かれた登場人物だ。
気づけ! と夏梨は心の中で強く念じた。
「本降りになってきたわね。そろそろ梅雨入りかな?」
「明日にはそうなる」
ちらりと窓の外を見やり、日番谷が言った。天候を操る彼がいうのだから本当のことだろう。
それきり関心をなくしたように、タオルを肩に引っかけたまま、棚に並べられた着物を覗きこむ。

二人の会話を聞きながら、秘密をこっそり盗み見ているような罪悪感がよぎったが、考えてみればそれどころではない。。
日番谷は死神だし、遠くにいる人の気配を、まるでその目で見たように言い当てることができる。
棗が気づかない以上、日番谷に頼るしかなかった。

久し振りに会う日番谷は、幾分身長が伸びたように見えた。
少し前まで逆立てていた銀髪が、額に軽くかかっている。心なしか、表情が穏やかになったように見える。
―― 冬獅郎!
呼びかけようにも、やっぱり声が出せない。こんな自分を置きっぱなしにして、いつも通りの会話が店内で続いているのを見ると、本当に泣きたくなってくる。
「失礼」
その時、不意に日番谷の声が大きくなった。見れば、日番谷が部屋の中を覗き込んでいる。
「ごめんね、散らかしててお見苦しくて」
「全然散らかってねぇじゃねぇか……夏梨、来てねぇよな。一瞬、気配がしたように思ったんだが」
―― さすが冬獅郎!
身体が自由に動くなら手を叩きたいところだが、ぴくり、と手の部分が動いただけだった。
しかしその人形の動きには、日番谷は気づかなかったらしい。ぐるりと部屋の中を見渡しただけだった。

その銀色の頭より少し高い位置に、棗が音もなく現れる。
「……近ぇよ」
日番谷は全く警戒心の感じられない声で背後を振り向く。夏梨には、こんな子供のような表情を見せることはないのに。
深い意味はきっとない―― それなのに、少し心が痛んだ。
「いねぇな。おかしいな」
「隠したりはしてないわよ。こんな小さな部屋だもの」
「だよな」
頷きながらも、日番谷は釈然としない表情だ。
こっち向け! と念じるが、日番谷の視線は一瞬人形に向けられ、すぐに通り過ぎた。
「種明かしをするとね」
にっこりと笑って棗が日番谷を見下ろす。
「さっきまで、夏梨ちゃんはここへ来てたのよ。少し前に帰っちゃったけれど。残り香みたいなものかしらね」
―― うそだ!
口がきけたなら、そう叫んでいただろう。
棗の目には、夏梨は「急にいなくなった」と映っているはずだ。
棗なら夏梨を探しこそすれ、「帰った」などとは決めつけないはずだ。
そもそも、夏梨は人の家に来ておいて挨拶もせずに帰るようなことはしない。
ここにいるのは本当に棗なのか? 今さらのように、胸がおののいた。

日番谷はそれでも、納得いかないように眉をひそめる。
「でも、奥にある鞄、夏梨のだろ? あいつの家で見たことがある」
ファインプレーだ冬獅郎! と夏梨は日番谷の記憶力の良さに感謝した。棗は、ちらりとそれを見やる。
「ほんとね、忘れていっちゃったみたい」
「あいつ意外と適当だからな……」
ひどい。でも事実だ。
「しょうがねぇな、あいつ……この雨の中帰ったのか? 傘は」
日番谷は、夏梨ががっかりするほどあっさりと疑念を解いた。
恨むなら、普段の棗の嘘などつきそうにない人柄か、自分の日頃の行いを恨むしかなさそうだ。

「傘は持ってなかったと思うわ。こんなに本降りになったの、さっきだし。今頃どこかで困ってるかも」
最後の一言だけ合っている。
「しょうがねぇな。棗、着物はまた今度だ。傘売ってくれ」
「傘は置いてないわ。貸してあげる」
棗が、夏梨の横たわる部屋を通り抜けて奥へ行くと、二本の傘を持って戻って来た。
「追いついたら、家まで送って行ってあげてね」
ふん、と日番谷が頷いたのか首を振ったのか分からない返事を返した。

日番谷が行ってしまう。そのことに気づいて、夏梨は今さらのように焦った。
なぜだか分からないが、棗は助けにはなってくれなさそうだ。とすれば、自分の正体を見抜いて、なんとかしてくれそうなのは日番谷しかいない。
何でもいい、叫んでも動いても何でもいいから、日番谷の注意を引かないと。
焦っていたせいか、夏梨は大きな掌が自分の上に落ちて来たのに気づかなかった。
急にすっと下から掬いあげられて、声を上げそうになる。視界がぐんぐん高くなり、畳の目が小さくなる、と思った時には、
棗は夏梨の人形を掌に載せて、日番谷に歩み寄っていた。

「なんだ? その人形。手作りか」
案の定、日番谷は不思議そうな顔をした。
「夏梨ちゃんにあげようと思ってたの。一緒に届けてあげてくれる?」
「ま、いいけど」
ひょい、とつまみあげる。
「なんか夏梨に似てるな」
似てるんじゃなくて、あたしなんだよ。突っ込みたいがやはり声は出ない。
日番谷は傘を小脇に抱え、無造作に人形をトートバックに突っ込むと、降りしきる雨の中足を踏み出した。

2012/6/17