外は、夕暮れを一気に飛び越えたように暗かった。高いビルの上の辺りは白い靄に隠れ、遠くで雷が鳴り続けている。 ピシャッ、と音がして空が明滅した。大粒の雨がアスファルトを叩き、歩道にはあちこちに水たまりができている。 「台風みたいだな、まだ6月なのに……」 「早く、早く!」 傘を忘れて、高校生のグループが走ってゆく。その大きな鞄の端が、杖をついて歩くお年寄りの肩に当たった。 「あ……!」 よろめいた老女の背中を、傘を差して後ろから歩いてきた日番谷が無造作に支えた。 「大丈夫か?」 「あ、ありがとうね」 ちょっと手を上げ、肩にかけたトートバックを肩に掛け直すと、とっとと歩いてゆく。 こんなに早足で人混みの中を歩いているのに、日番谷は誰ともぶつからずに、次々と人を追い越していた。 ―― 苦しい…… 夏梨は、トートバックの中で息苦しくてもがいていた。まさか、自分の教科書の中で溺れる日がくるとは思わなかった。 しかしもがいているうちに、少しずつ体が動くようになってきた。 ぷはっ、バックの縁から顔を出すと、すでに帰り道の半分くらいは来ていた。 もともと歩いて30分程度の道のりで、日番谷なら15分もあれば歩きついてしまいそうだ。 人形の目線から見ると世界は高く、ひとつひとつが大きく、そして大きく揺れてどんどん遠ざかってゆく。 一体自分はどうなってしまうんだろう、と心細くてたまらなくなってくる。 ただ、日番谷が自分を探してくれている以上、遅かれ早かれ自分がいなくなったことには気づいてくれるはずだ。 「何をやってんだ、あいつは……」 ふぅ、と日番谷は歩きながらため息をついた。そして、ジーンズのポケットから携帯電話のようなものを取り出す。 「伝令神機」というのだと、日番谷からは前に聞いたことがあった。 一体どこに電話をするつもりだ? と夏梨が思った時には、プルルル、と小さな音が電話から漏れだしていた。 乱菊か、雛森か、それともあの京楽という死神か。しかし日番谷が口にした名前は、夏梨が知っている誰とも異なっていた。 「……阿近か? 日番谷だ。今、手空いてるか?」 ――「いつものように涅隊長から無理難題出されて、三日寝てないっス。何です」 耳を澄ますと、返事をする男の声が雨音に混じってかすかに聞こえた。 アコン、とは聞いたことがない名前だ。伝令神機で会話しているのだから、この男も死神なのだろう。 「調べてほしい事がある」 日番谷は阿近とやらの返事に頓着することなく続けた。 「無理くり頼むなら、初めの質問いらないじゃないスか」 「手を貸すなら、後で涅の宿題を手伝ってやる。人畜無害な範囲で」 「最後の一言がなきゃ嬉し涙を流すトコですがね。で、何なんですか?」 どうやら、この目下にしては横柄な口のきき方をする男に、無理やり何かを頼みたいらしい。 呆れる日番谷や仏頂面の日番谷、怒る日番谷や困る日番谷ならよく知っているが、ごり押しをする日番谷というのは初めて見た。 夏梨が聞き耳を立てるなか、会話は続いている。 「黒崎夏梨、ていう人間の霊圧を捕捉してくれ」 「あ? そりゃ黒崎一護の妹じゃないですか。そんなん調べてどうしようってんです?」 あたしのことだ、とドキリとして日番谷を見上げる。彼は不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。 「詮索しねぇのがお前の長所だろ?」 「はいはい。その通りですよっと……ちょっと待ってください。今調べてます。……ん、確かに何か変ですね。 空座町にいるのは間違いないですが、場所が特定できないです。えらく小さいし」 「何かに危害を加えられた可能性は?」 日番谷の声が鋭くなる。 「誘拐なんて面倒なことする虚はいないでしょうが、その時でもこんな風に霊圧がぼやけることはないです。 まあ普通、やつらに襲われたら人間如きは死にますから、霊圧は消えますけどね。それなら話は早いんですが」 「……お前、云い方には気をつけろ」 「怒りましたか、それは失礼しました。でも科学者に情緒ある表現なんて期待してないでしょ?」 はぁ、と日番谷はため息をついただけだった。 「とにかく、この気配は確かに気になりますね。引き続き調べてみましょう。分かったら連絡します」 「ああ、頼む」 ピッ、と音を立てて伝令神機を切った日番谷は、しばらく考え込んでいるようだった。 その視線をもう少し下に、自分がいる方へ向けてくれれば疑問は晴れるのに。 そう思ったが、この事態を一体どうやって日番谷に伝えればいいのか。 なつめ堂を出てわずかな間に、夏梨に何か起こっていることに気づいてくれた。 それは嬉しいが、プロの(?)死神達が戸惑うほど、今の自分の状況は異常らしい。まあ、確かにどう考えても異常なのだが。 日番谷がまたため息をつくのが、頭上で聞こえた。 次の瞬間、彼の輪郭がぶれたように見えた。あっ、と思った時には黒い着物の死神姿に変わっていた 通りを行く人の目には、いきなり日番谷が消えたように見えただろうに、誰も気づいたそぶりはない。 その場にいる人の目線が誰にも向いていない一瞬をうまくとらえているのだろう。 そしてトートバックを抱え、たん、と軽く地面を蹴り、近くの電信柱のてっぺんに着地した。重力がないような、冗談のような脚力だ。 「……ぁっ……」 身を乗り出していたせいで、人形の体が不安定に揺れる。叫んだつもりが、雨音にまぎれる程度の小さな小さな声が出た。 そろそろ人形の様子がおかしいことに気づかれそうなものだが、人形が動く、という発想がないせいか、日番谷の視線はまったく人形に向かない。 それにしても、人通りの多い往来でいきなり死神に戻るなんて、日番谷らしくない行動だった。夏梨は日番谷の横顔を見上げる。 唇を引き結んで、雨が降りしきる空を見上げている日番谷の視線は強く、怒っているふうに見える。いや、焦っているのか? 傘をずらしているせいで、顔にまともに雨が降ってきている。 傘の意味がないだろうと思ったが、雨が日番谷の顔には当たらず、そのまま体を通り抜けて下に落ちて行くのを見てハッとした。 ―― 実体がないのか? よく見れば、日番谷の輪郭はわずかに光っていて、後ろの町並が透けて見えていた。 これほど近くで死神姿の日番谷を見たことがなかったから、今まで気づいていなかった。 この世界に、本当は「いない」はずの存在なんだと、いきなり思い知らされる。 そんなこと、夏梨は知らなかった。なぜなら、夏梨といる時の日番谷は、死神の姿でも普通に傘を差していたから。 今になると、それが全く意味がない行動だったと分かる。……いや、意味はなくとも理由はあるのか。 「……知らなかった」 日番谷は、夏梨といるときは相当に気を使ってくれているのかもしれない。 町を見下ろしている、半透明に透けた日番谷の横顔は、店で見た棗と同じように、やはり夏梨の知らない表情をしていた。 とたん、また電話の着信音が響き、夏梨は心中飛び上がった。 音は、自分の真下から聞こえている。聞き覚えがあると思ったのも当然だった。夏梨の携帯がチカチカと光りながら鳴っている。 携帯の画面には、「一兄」と出ていた。自分が戻らないことに気づいて電話して来てくれたのか? 胸が高鳴る。 日番谷は、ちらりとトートバックを覗きこむ。そしてバッグから飛び出しかけていた人形をひょいと取り上げて左脇に挟むと、携帯を取った。 一瞬ためらうように指が泳いだが、結局接受ボタンを押した。 ―― 「もしもし?」 一護の声が雨の中でもくっきりと聞こえる。 「……俺だ。夏梨は――」 ―― 「冬獅郎!?」 言いかけた日番谷を、素っ頓狂な一護の声が遮った。 ―― 「なんでお前が出てんだ? 一体この携帯どこにあんだよ」 「どこって」 日番谷が周りを見まわした時、電話の向こうで一護が大声を出すのが聞こえた。 ―― 「おーい夏梨。携帯、冬獅郎が拾ってくれてるみたいだぞ」 パシッ、と小石をぶつけられたような衝撃が走る。気づけば、雨音も車の行き過ぎる音も、何も聞こえなくなっていた。 今一護は、電話の向こうで誰に何と呼びかけた? その衝撃にとどめを差すように、 ―― 「お、ほんとか一兄?」 電話の向こうから聞こえてきた声に、夏梨は本気で気を失いそうになった。……自分の声を、聞き間違えるはずがない。 日番谷が怪訝な顔で聞き返す。 「? おい待て。夏梨はそっちにいるのか? ていうかどこだ? そこ」 「そりゃ、俺がお前に聞きてぇんだけど。こっちは家だ。夏梨がさっき帰って来て、携帯がないって騒ぐから、夏梨の携帯に掛けてみたんだよ。 まさかお前が出るとは思わなかったけど」 イチ兄代わって、という声が小さく聞こえる。今は悪夢のようにしか思えない、自分自身の声が携帯から漏れた。 ―― 「冬獅郎? あたしだけど。久し振りだね。ていうか、久し振りすぎるだろ!」 「……本当に夏梨か? 何事もねぇか?」 日番谷は半信半疑である。 もしも何事もなく普通に家にいるのなら、夏梨の霊圧が捕えられないはずはないのだろう。 ―― 「は? 何言ってんの? 別になんもないけど」 声といい、話し方といい、夏梨そのものだ。夏梨だって久し振りに日番谷と会ってそんなことを聞かれたら、同じ返しをするだろう。 「何もなかったのならいいが――」 ―― 「それよりさ、携帯拾ってくれたの?」 「携帯どこじゃねえだろ。鞄ごとなつめ堂に置いてあったぞ」 ―― 「あー、ごめんごめん。いろいろあってさ」 いろいろって何だ、と思わず突っ込みそうになった。 今日番谷と電話で話している「夏梨」は何者なんだ? 前のように、人に化けることができる破面が姿を変えたものだとでもいうのか。 でも、破面だというなら、敵の気配を的確に把握できる日番谷が、今こんな風に普通に話しているはずがないのではないか? 混乱する夏梨をよそに、二人の会話は続いている。 ―― 「とにかく、ありがと。引き取りに行くよ。そこ、どこ?」 「どこぞの電柱の上だ」 ―― 「はぁ? 電柱とか言われても困るんだけど。どの電柱だよ」 「ついでだ。届けてやるよ」 ―― 「マジで? なんかお菓子なかったっけ、遊子ー!」 夏梨の声が嬉しそうに弾み、台所にいるらしい遊子を呼ぶ。 いらねぇって。そう苦笑いする日番谷は、もう全く疑っていないようだ。 確かに、何者かが化けているにしても、あまりにも「夏梨」そのものの言動だ。破面が化けているならそうはいかないはずだ。 どくん、どくん、と人形のはずの胸が高鳴る。 そいつはニセモノだ! と大声で叫びたい気持ちに駆られる。 日番谷が、今話している「夏梨」が本物だと納得してしまえば、今人形になってしまった自分を本物だとどうすれば分かってくれるだろう。 いや。ちがう――のか。 そこまで考えた時、夏梨の脳裏に戦慄が走った。 日番谷が来る前に、なつめ堂を出て行ったという、棗が語る「夏梨」が本当にいたとしたら? 携帯をなくしたと騒いでいる、と一護が言った「夏梨」が今家にいるとしたら。 そいつは遊子に今菓子を探させ、日番谷と何食わぬ顔をして話している。それがすべて「本物」だとしたら―― 自分はいったいなんなんだ? このあたしが、偽物だということか? こんな寄る辺なく、心細くなったのは、いつ以来だろう。 本当に子供だった時に、母を亡くした時以来かもしれない。 頭が真っ白になった夏梨をよそに、日番谷は電話で話し続けている。 人形を左胸の前に挟み込むようにして話しているために、日番谷が声を出す度にかすかに振動が伝わって来るほどに、近い。 これほど近くにいたことはなく、普通の状態だったら緊張しながらも嬉しいはずだが、、今は距離が近いは近いほど、逆に淋しく恐ろしかった。 日番谷からすれば電話の主こそが夏梨で、今人形に宿っている夏梨の存在には露ほども気づいていないのだから。 知らなかった、と思う。 いつもぶっきら棒な奴と思っていたが、一護や阿近に向ける声と比べて、「夏梨」に向ける声がとても優しいと言うこと。 着物の襟元の輪郭はよく見ればぼやけていて、光っているように見えること。 今まで、日番谷のことを見ているようで、知らないことがたくさんあったと思う。 いつも体温が低いイメージがあったがその懐は暖かく、かすかな鼓動が全身に伝わって来た。 「……冬獅郎」 無意識のうちに、彼の名前を呼んでいた。 「とにかく、何事もないならよかった。5分ほどしたら行く」 ―― 「ごめん、頼むよ」 「冬獅郎」 もう一度呼ぶ、しかし日番谷は気づかない。 「あ、あと、棗が人形を持ってけって……」 ちらり、と日番谷が人形を見下ろした。 「冬獅郎!」 「なんだよ、何回も」 日番谷が携帯を耳に当てた。 ―― 「え? 何回もって何」 「名前呼んだろ?」 ―― 「呼んでないよ」 電話の向こうの「夏梨」は不思議そうだ。日番谷の視線が泳ぎ、電話から胸元の人形に向けられた。 おずおずと、夏梨はもう一度呼ぶ。 「冬獅郎」 とたん。携帯が、日番谷の手から滑り落ちた。
2012/6/17