がつん、と嫌な音を立て、携帯が遥か下の地面にぶつかる音がした。完全に壊れた、と夏梨は妙に冷静に思った。
「なんだ? 携帯が……空から降って来たぞ、今」
「誰もいるわけないよね? 高い建物もないし。怖っ!」
下にいた人々が、ざわめくのが電柱の上にいても聞こえてくる。
誰にも当たっていないようだ、と、こんな時なのにほっとした。
会話中だった「夏梨」は、今頃いきなり大音響が聞こえて驚いているだろう。

しかし日番谷は、下から大勢の人間に見上げられているのも気づいていないようだった。
嘘だろ? という感情を前面に出して、穴があくほど人形をじっと見つめている。
日番谷なら、たとえどんなことが起こっても、呆れながらも何とかしてくれるイメージがあった。
流石に眉ひとつ動かさないだろうとは思っていなかったが、ここまで驚かれるとますます不安になって来る。
と、雨が混ざった風が吹き抜ける。人形が、力がいつの間にか抜けていた日番谷の腕からスポッと抜けた。
「あ!」
風にさらわれて空中に投げ出されそうになった時、日番谷が慌てて人形を捕まえる。
風雨にさらされて、人形の布地がどんどん濡れて行く。
さっき日番谷の体温を感じたくらいだから仕方ないのだろうが感覚はしっかりあり、体が濡れるのが分かる。

「あ……あの、さ」
夏梨は非常な体力をつかって、やっとこの一言を押しだした。物凄くゆっくりではあるが、努力すれば話せる。わずかだが意思の通りに体も動く。
しかし、一体どうやって、今のこの状況を説明したらいいのか分からなかった。
実体験している夏梨でさえ信じられないのに、どうすれば日番谷が納得してくれるというのだろう。
「人形から夏梨の声が聞こえるような気がする……」
案の定、日番谷は遠い目をした。
「最近疲れてるからな……」
ちょっと待て。いつもの夏梨なら、そう言ってキレているだろう。
しかし、この状況でそこまで冷静になれるはずもなかった。そこで夏梨は、自分でも全く思いがけない行動に出た。

うわぁんと大声を上げて突然泣き出した夏梨に、日番谷はびくりと身を退いた。
涙は一滴も出なかった。でも、次から次へとせぐりあげてくる嗚咽をどうすることもできない。

自分が人形になっているというショック。
棗も兄の一護でさえも、自分ではない誰かを「夏梨」だと、当たり前のように認識していると言うショック。
そしてやっと存在に気づいてくれた日番谷でさえ、分かってくれないと言う三つ目のショックが重なって、
堰止めていた自制心が粉みじんに吹っ飛んだ気分だった。
問題にぶち当たった時に、泣いたってしかたがないだろうと思ってきた。
辛い時だからこそ考えに考えて、冷静に行動しなければなんにもならないとも。
でも、そもそも涙は何かを解決するために流すのではなく、本当にどうしようもないから泣くのだとわかった。

不意に、頭上に暗い影が差した。そして、人形の体に降り注いでいた雨が遮られる。
見上げると、傘が真上に差しかけられていた。日番谷が、人形を掴んだ手を自分に引き寄せる。
「とりあえず、ここに入ってろ。濡れないから」
襟を開いて、袂に人形を突っ込んだ。太陽の匂いに似た日番谷の匂いが、ふわりと香る。
と、人形の輪郭が、日番谷の襟元と同じようにぼんやりとした輝きを放った。雨粒が、人形の体をすり抜けていくのを、夏梨は涙も忘れて見やった。

日番谷は傘をたたむと、人形を入れた胸元を上から掌で押さえ、ふわりと地面に舞い降りた。
地面に落ちている夏梨の携帯を掴み取ると、
「急に携帯が消えたぞ……?」
ざわめいている人々をよそに、その場から姿を消す。


「ど、こ、行くの……?」
「とりあえず、どこにも向かってねぇよ」
誰もいない河川敷を見下ろしながら、土手の上の道を行く。周りは白くけぶって見えた。
かろうじて顔を上げると、日番谷が自分を見下ろしている。
怒っているようでもなければ、もちろん嬉しそうでもない。いつもどおりの仏頂面だった。
「人形になるなんて。今度はいったい何のつもりだ? 夏梨」
「知らないよ……」
これまでも色々と日番谷には迷惑をかけているが、一度だって迷惑をかけたいと思ってやったわけではない。
今回だって、夏梨が望んでそうしたように言わないでほしい。そう言いたいが、何分うまく話せないままだ。
回らない口をもどかしく思いながら、ふと気付いた。今、「夏梨」と名前を呼んでくれた。

「信じて、くれるの?」
「ここまで俺を困らせるのはお前だけだろ……」
そうぼやかれても、困る。繰り返しになるが、わざとやっているわけではないのだし。
夏梨が無言の抗議を視線に乗せて見つめ返すと、日番谷は真顔になって夏梨を見下ろした。
「とにかく、どんなことにせよ、起きたことには原因がある。原因が分かれば、解決策は見つかるさ」
夏梨が八割話せば日番谷は二割話すくらいだが、いつもに似ず口数が多いのは夏梨が話せない分、補ってくれているのだろうか。
「う……ん」
しゃくりあげていた心が、少しずつ落ちついてゆく。こくりと夏梨は頷いた。
「こんな風になった原因は、今の時点でもいくつか思い浮かぶんだが、どれも確信はねぇ」
そう言われて驚いた。さっき驚きのあまり携帯を滑り落としてから、まだ5分くらいしか経っていないというのに、さすがに頭の回転が速いようだ。
日番谷は、ぽん、と袂の上から夏梨に掌を置いた。
「だから、何がどうなったのかゆっくりでいいから俺に話せ。ちゃんと聞くから」
「……うん」
どうして日番谷には、夏梨が今一番してほしいことが分かるのだろう。

人生にそう例がないほどパニックになり、我に返った今、夏梨が一番してほしいのは、誰かに種明かしをしてもらうことではなかった。
勝手に結論を出されて納得されても、置いて行かれたような気持ちになるばかりだ。
話を聞いてほしい。どうしたらいいのか一緒に考えてほしい。そのうえで、自分も納得できる答えを見つけたかった。
夏梨が答えを見つけたところで、自力で人形から人間に戻れるはずもなかったが、それでも気持ちの面で、もうパニックにはならずに済むと思う。
そのためには、まず夏梨が説明しなければならない。日番谷は急かすことなく、ゆっくりとした足取りで歩いている。夏梨は嗚咽を呑み込んだ。

偶然なつめ堂の前を通りかかって、なつめ堂で宿題をやっていたこと。
そして、手作りの人形をつくる棗を見つめていたら眠くなり、うとうとと眠ってしまったこと。
そして目が覚めたら、自分が人形になっていたこと。そして、日番谷の手に渡ったこと。
話してみれば案外、起きたことはシンプルだった。

「……それだけか?」
「……うん。棗……さんに、不思議な力があるってことは……?」
ん? という顔を日番谷は一瞬して、夏梨を見やった。
「なんでそう思う?」
「なんとなく、だけど」
一言しゃべるだけで精いっぱいの状況だ、というせいもあるが、何にしろうまく話せはしなかったと思う。
夏梨から見た棗は、ほんのたまに、不思議な気配を醸し出していることがある。
その気配は、どちらかというと自分たちよりも、日番谷たち死神に近いような気がしていた。
ただ、その気配とはなんなのだと聞かれればやはり、うまく説明できない。
はっきりしているのは、夏梨がはいっている人形が、棗が作ったものだと言うこと。
そして、夏梨が人形になってからの棗の行動が不自然だったことの二つだった。

夏梨は、独りでいる時の棗の無表情が、人形のように綺麗で怖かったことを思い出す。
いつも夏梨の前では微笑んでいるからと言って、横を向いたその時も、微笑んでいるとは限らない…

「……なんとなく、俺にもお前の言いたいことは分かる」
奥歯に何かが挟まったような、遠まわしな言い方を日番谷はした。
「棗には、何かある。ただそれは多分、俺たち死神が全く知らない力だ」
命を司る「死神」である日番谷にも、人間について分からないことがあるのだろうか。
夏梨の疑念に気づいたのだろう、日番谷は言葉を継いだ。
「世の中には、死神以外にもいろんな力を持った奴がいる。正直、死神だってその全てを把握しているわけじゃねぇ。
俺たちの敵じゃなく、この世界に危害を与えるものじゃなければいちいち調べたりはしねぇ。だから棗のことも、わからねぇ。
少なくとも棗が、お前に危害を加える理由は何もないだろ」
「う……ん。たしかに」
瀞霊廷にいた時、死神は随分大勢いるように見えたが、それでもあの空間に住めるだけの人数しかいないなら、
一都市分の人口にも劣るだろう。人間の全てを知って支配するには、人数が少なすぎるということか。

「あたし、どうなっちゃうのかな」
心細くて、弱気な言葉が出るのを止められない。
もう一人の「夏梨」は今、一護や遊子と家にいるらしい。このまま、夏梨の机で勉強し、夏梨の茶碗で夕飯を食べ、次の日には学校に行って夏梨の席に座るのだろうか。
想像するは想像するほどじわじわと、怖くなってくる。夏梨の居場所は、刻一刻ともう一人の「夏梨」に奪われてしまうように思えた。
でもこんな人形の姿では、仮に本物だと認めてもらったところで、日常生活は望めそうもない。

日番谷はしばらく黙って考えていたが、やがて夏梨を見下ろした。
「お前、とりあえず浦原商店にいろ。瀞霊廷に戻って調べて来る」
「嫌だ!」
考えるよりも先に言葉が出た。
「嫌だって、お前な。今のその体で穿界門をくぐったら、何が起こるか分からねぇぞ。必ず戻って来るから」
「……それでも、いやだ」
「俺が信じられねぇのかよ? 短い付き合いじゃねぇのに」
違う、全然違う。日番谷は夏梨の言いたいことが分かっていない。夏梨はもどかしさに唇を噛んだ。
日番谷のことは当然信じている。でもそういう問題じゃない。
付き合いが長いとか短いとかも関係ない。初めて会った時から、夏梨は日番谷のことは信じられた。
「……離れたくないんだ。それだけ」
困ったように眉をひそめていた日番谷が、わずかに目を見開いた。

この手は、何もつかめない。この足は、走ることはおろか立つこともできない。
今の状態で日番谷と離れたら、自分の意思で日番谷の元に戻ることはできなくなる。
それに、人形に宿った頼りない意識は、次の瞬間にふわっと消えてしまうのかもしれない。
パニックは残っていたし、弱気になっていたことも間違いない。でも口から洩れたのは、本心だった。
相手を困らせている。それでも離れたくない。そう思ったのは、母親といる時以来だったかもしれない。

二人の間に沈黙が落ちた、その数秒の間に、また伝令神機が鳴った。
「……今日はやけに電話が多いな」
日番谷がぼやきながら、袖の中に手を突っ込んで伝令神機を取り出す。
「阿近か」
「調べましたよ、さっきの件。なんか、同じ霊圧が二つあるんですが? そのうちの一つはアンタと一緒にいるように取れるんですがね」
「さすがだな。俺のとこにいる方が、人形になってるのは分かってるか?」
「……日番谷隊長、疲れてんじゃないですか。それでそんな、似合いもしないメルヘンなことを」
同情的な口調の阿近に、日番谷は顔を引きつらせた。
「事実、そうなってんだから仕方ねぇだろ。原因を調べられるか?」
「こっちに連れてこれば、涅隊長は大喜びで解剖しますよ」
「その時は、俺が涅をホルマリン漬けにしてやるぜ」
「その時は、手伝いますんで声かけてください。にしても、困りましたね。そんな話聞いたこともない」
「俺は現世から動けねぇ。調査を頼みたい」
「俺だけに調べろと。それは高くつきますよ?」
突然、冷やりとするような口調に変わる。
「……分かってる」
日番谷の返す口調は苦々しい。
「高くつく」の中身は分からないが、少なくとも日番谷の意に反する事ではあるらしい。
賄賂なのか、良からぬことへの協力なのか、テレビドラマくらいでしか知識がない夏梨には、その程度の想像しかできない。

何を思ったか、ふふん、と阿近は笑ったようだった。
「アンタとの取引に勝ったようで気分はいいですが、気になりますね。一体何がアンタを現世に縛ってるんです?」
「……」
「話してくれるなら、好奇心満足料金を割り引いてもいいですよ」
「きるぞ」
電話を切るぞ、なのか、ついでにお前を斬るぞ、なのか分からない物騒な発音を残し、日番谷は電話をブチッと切った。


「……ごめん」
「お前は、自分のことだけ考えてろ」
伝令神機を再び袖に落とした日番谷に、夏梨は謝った。
「すぐに戻る方法がないなら、この状況を黒崎には伝えなきゃいけねぇだろうな」
「……でも」
「あっちにも『夏梨』がいる。放置すれば、お前の居場所がなくなるぞ」
「うん」
それは、夏梨だってずっと心配していた。日番谷の口から直接言われると、ますます切迫感が増してくる。
でも、それを打ち明けられた兄がどれほど葛藤するかも、夏梨には手に取るようによく分かった。
人形の夏梨が本物だと告げたなら、一護は家で、もう一人の「夏梨」とどのように接したらよいのだろう?
一護だけでなく、もちろん遊子や一心にも遅かれ早かれ伝えなければならなくなる。
夏梨が人形になっているだけならまだしも、もう一人いる以上、どんな解決策があるのか夏梨にはどうしても思い浮かばないのだった。
「あたしが、さ」
夏梨は唇を噛んで続けた。
「あたしが、偽物だと言う事にして。黙ってれば……他の誰も、悩まなくてよくなるかな」
一護や、一時的にとはいえ日番谷も、もう一人の「夏梨」を疑わなかったほどなのだ。
夏梨さえ我慢すれば、何も変わらずに日常が続いて行く。

夏梨が二人いるという事実。そして、日番谷は人形の方が本物だと信じてくれている。
その状況で一護や一心、遊子が事実を知れば、もう一人の夏梨とはまともに接する事ができなくなる。
それが意味するのは……黒崎家が壊れる、ということだった。
それほどまでの犠牲を払っても、夏梨が元に戻れる保証はどこにもない。

「お前の居場所が全て奪われるんだぞ! 俺が賛成すると思うか?」
日番谷が口調を荒げる。
「……全てじゃない」
黒崎家で、自分ではない自分が「夏梨」として暮らして行くこと。
居場所がなくなる、というより、存在がなくなる、と言った方がふさわしいような状況だ。辛くないはずがない。
でも、全てを失うわけではない。夏梨は、日番谷にわずかに身を寄せた。
「……まだ、結論を出すには早い。お前は弱気になってんだよ、諦めるな」
襟の上から夏梨に置いた掌が優しい。
今日が雨で良かった、と思う。雨は、夏梨の嗚咽や涙を隠してくれる。
雨の向こうで、日番谷の声が聞こえた。
「もし、万が一戻る方法がなかったら、俺のところへ来い」
ハッ、と息を飲んだ。思わず見上げると、日番谷は遠くの河の方を見ていた。

2012/6/24