ほ ほ ほたる来い

 母親の歌声が、闇の向こうから聞こえてくる。自分の掌も見えないような暗がりの中、楽しげな軽やかな足音だけが聞こえる。
 当時9歳だった俺は、母親を呼びとめたくてたまらなかったのをこらえて、平行棒の上みたいに手を広げながら、かろうじて声の方へついて行った。周囲は暗くて見えないが、おそらく段々畑になっていたのだろう。両側から、蛙の合唱が互い違いに聞こえる。夕方の雨を吸った土は柔らかく、ビーチサンダルを履いた足は草の露で濡れた。見上げると、夜空にさらにくっきりと黒く、巨大な山の輪郭がいくつも見えた。まるでこちらに落ちかかってきそうな圧迫を感じる。

 土手を上がって行く母親の姿は、黒いシルエットしか見えない。いつもなら手を引いてくれるのに、こちらを振り返りもしないようだ。
 あれは本当に母親なのか? 急に、おそろしくなる。母親の姿を取った別のもので、どこか別の世界に連れ込まれてしまうんじゃないか―― そんな風に想像をたくましくするほど、周囲は暗かった。


「ママ?」
「こっちよ!」
 おずおずと声をかけると、すぐに聞き慣れた母親の声が返って来て、ほっとする。後を追い、土手を駆けあがった。さらさらと水の音がする。川の傍に来たのだ。むわっと全身にまとわりつく湿気を払うように、涼やかな風が吹いた。
「竹箒、持った?」
「うん!」
 俺は、来る時に祖父に持たされていた、腰ほどもある竹箒を示してみせる。とたん、あ! と母親が声を上げた。ふわり、と闇の中で、光が横切った。光が、いくつもいくつも曲線を描いて、点滅しながら飛んでゆく。
「ほたる!」
 思わず、叫んでいた。
「懐かしいわ。お母さんが子供のころと、ぜんぜん変わってない」
 いままで怖かったことは、すっかり頭の中から飛び去っていた。
「足元に気をつけて!」
 母親に返事もせず、俺は竹箒を手に、土手を降りようとした。うっそうと茂った雑草が足元を阻んだ。
「そっと捕まえるのよ!」
 竹箒を光の方に向かって振り下ろす。そうすると、蛍は竹箒に捕まるので、そこを捕まえるというわけだ。蛍は、まるで人間を怖がっているようにも見えなかった。目の前をすうっと通り過ぎる蛍を捕まえるのは簡単だった。俺は、竹箒にしがみついた蛍を間近から覗き込んだ。まるで呼吸するようなリズムで、点滅している――その光は黄色に見えたが、良く見ると少しだけ緑色だった。

 草を入れた虫籠に、何匹も何匹も閉じ込めた。点滅しているその小さな虫は黒くて、触ると嗅いだ事がない匂いがした。
「ママ、持ってて!」
 俺は、ゆっくり飛んでいる蛍を見つけて、籠を母親に押し付けると、光の方へと駆けだした。あれは駄目よ、と止められた気もしたが、耳には入らなかった。

 勢いよく振り上げた竹箒は、ぱしっと微かな音を立てて、蛍を打った。と思ったら、他の蛍のように竹箒にしがみつくことはせず、そのまま地面に落ちてしまった。
「死んじゃった……?」
 急にどきどきしてきて、蛍が落ちた辺りにしゃがみこんで探した。蛍はすぐに見つかった。ほのかに点滅しながら、飛ぼうと小さな羽根を広げている。でもその光は弱く、点滅の仕方も早い。
「待ちなさい」
 母親が、後ろから俺の肩を掴んだ。俺たちの目の前で、蛍は弱弱しく舞い上がった。でも、俺の目の高さまで来たところで力尽きたように、光は消えた。小さな黒い体が、ふっと力を失って落ちて行く。あの暗い中で、あの小さい蛍が落ちるのを見たというのは幻覚かもしれないが。ただ少なくとも、力なく落ちる蛍、その死ぬ瞬間を俺は見たような気がしたんだ。

「僕のせい……?」
「もう、蛍の季節は終わりだから。寿命だったのよ」
「じゅみょう?」
「死んでしまう時だった、ていうことよ。あなたのせいじゃないわ」
 母親はそう言ったが、俺は何もいえなかった。俺が死なせてしまったんだという気が強くした。
「埋めてあげようね」
 掌にのせた小さな死骸のために、小さな墓をつくり、露草の青い花を供えた。
「ちゃんと埋めてあげたら、また生き返って、来年の夏にまた一護の前に現れるわよ」
 人の手に捕まれば、蛍たちは生きてはいられないから。そう言って母親はそっと虫籠の入口を開いた。やがて蛍が次々と舞い上がり、仄明るく母親と俺の顔を照らし夜空に消えて行った。子供のころ読んだ絵本のワンシーンのように、その時の光景は頭の中に残っている。


*


 母親が死んだのは、それからわずか、数ヵ月後のことだった。
 まだ幼かった俺にも、その化物が襲ったのが「俺」だということは分かっていた。そして、母親がそれを庇おうとして身代りとなったことも。母親の体の下に広がってゆく血。その温もりと色も、その時頬を打った雨も、今も昨日のことのように覚えている。

「ちゃんと埋めてあげなきゃ、駄目だよ」
 真っ白な骨壷が墓の中におさまるのを見て、俺は親父に食ってかかった。
「だってお母さん言ったもん。ちゃんと埋めたら生き返って、また僕の前に出てきてくれるって」
 周りからすすり泣きが起こった。大きな掌を俺の頭に置いて、親父は無言だった。

「……ぼくのせいなの?」
 色とりどりの菊を見ながら、俺は呟いていた。俺が好きになったものは、全部死んでいくんじゃないだろうか。口に出すのは怖かったが、心の中に押し込めておくのはもっと怖くて、俺はその問いを口にしたんだと思う。
「……違ぇよ、馬鹿」
 親父はそう言った。そして、しゃがみこんで俺と同じ位置に目を合わせた。
「母さんが死んだのはな、俺のせいだ」
 いつものふざけた親父とは別人の、真面目な顔をしていた。その目が充血して赤くなっていた。親父も辛いのだ。そう思って、俺はこみ上げてくる嗚咽を呑み込んだ。
「一護。父さんと一緒に、強くなろうな。自分の手に触れるものを、ちゃんとこの手で護れるように」
 父親と初めて交わした握手は、全てが冷たくなってしまった世界の中でただひとつ、温かかった。

 あの時、俺に優しい嘘をついてくれた母親も、俺と向き合ってくれた父親も、まだ20代だった。
 今の18歳になった俺から見れば、もうそれほど大きな年の差はない。俺はあんな時、あんな風に誰かを悲しみから護ることが、できているだろうか?
―― 今の俺の答えは、残念ながら"NO"だ。



2012/8/22