「一護! 一護、降りて来い!」
 親父が一階から怒鳴る声に、俺はいやいや体をベッドから起こした。全く、あんな声を出さなくても広い家でもなし、十分に聞こえるだろうに。
「あんだよ」
 二階の階段から顔をのぞかせると、一階の台所から遊子が目を輝かせて手を振っている。降りてこい、ということらしい。すでに夕飯の支度を始めているらしく、ダシを取るいい匂いがしてきている。階段の上から覗き込むと、夏梨が中学の制服姿のままダイニングテーブルに座っているのも見えた。降りて行くと、なぜか三人とも揃って振り返った。
「お兄ちゃん、見てこれ!」
「あん?」
 遊子が声を弾ませ、テーブルの上に出したパンフレットに視線を落とす。
「星遊山ホテルで蛍と過ごすロマンティック・ディナー」とキャッチがあり、いかにも高いですと言わんばかりのフレンチのフルコースと、飛び交う蛍の写真が載っている。星遊山といえば、最近オープンしたホテル兼レストランで、和風の名前に似合わず、ヨーロッパの城をモチーフにしたゴージャスな外見らしい。テレビ番組で紹介されているのを何度か見ていたが、黒崎家には関係ない建物だなと心の中で一蹴していた。

「これが何だよ?」
「患者さんがね、無料チケットくれたの! 明日行こうよ、蛍見たい!」
「三人で行って来い」
 ひらひらと手を振る。
「なんで!? お兄ちゃんも行こうよ!」
 遊子は頬を膨らませた。中学生になっても、こういう顔はほんの子供のころのままだ。俺は頭を掻いた。
「あのなぁ。18の男は蛍にはしゃいだりしねぇの」
「お兄ちゃんだって、見たことないくせに」
「あ? あるぜ」
「あれ? そうなの? いつ」
 聞かれて、口ごもる。そういえば、昔母方の祖父の家で蛍を見たとき、まだ幼かった妹たちはついてきていなかった。多分川沿いの夜道が危なかったからだろう。もっともあの時二人を連れてきていたところで、覚えてはいないだろうが。
 
「行った方がいいと思うよ、一兄」
 パンフレットをめくりながら、夏梨が言った。
「あたしたち三人が行ったら、明日の夕飯ないよ」
「……行く」
 蛍はとにかく、豪華ディナーがちょっと気になるのは事実だった。決まりだ! と親父が無駄にテンション高く膝をたたいた。こういう仕草だけ取ると、この親父が一家の中で一番子供っぽい。
「明日はホテルで夕飯だ。となると必然的に、今日は節約デーになる訳だ。今日のお好み焼きは、ネギ焼きに変更。一護、ネギ買って来い! たっぷりな」
「ちょっと待て。患者さんがくれた無料チケットがあるんだろ? なんで今日が節約なんだよ」
「自分でちょっとは稼いでから叩けそんな口は! ほら、行って来い!」
図星を突かれて切れるとは、本当に大人げない父親だと思う。親父はそう言って、堂々とエコバックを突きつけてきた。しかもそいつは、ポケ○ンがでかでかと描かれ、背景も原色の緑だった。
「ださっ……」
「流行りだろう! エコバック!」
 こんなありえないエコバックにネギを詰め込んで歩いている姿など、間違っても同級生には見られたくない。俺はエコバックをできるだけ小さく畳むと、心なしかこそこそと家を出て行く羽目になったのだった。


***


 スーパーへの途中で、信号が青になるのを待っていた。住宅地から少し離れた坂の上で、横断歩道を渡った先にある公園には誰もいない。ガードレールの脇から住宅地を見下ろすと、もくもく入道雲が立ち上っていた。
「夏だな……」
 そういえば、と不意に思い出す。ルキアは夏が苦手だった。時代劇を見ているかのようだったあの瀞霊廷にはクーラーなんてないだろうし、今ごろ暑さに参っているかもしれない。俺の部屋の物置で暮らしていた頃も、夏場は「暑い」と戸をガラ開きにしていた。もう、ずっと昔のことに思える。でも考えてみれば、俺が死神代行としてルキアとこの街を飛び回っていたのは、ほんの2年前までの話だ。

 信号が青になり、横断歩道を歩き出した。と、無人の公園の中をふっと白い影が駆け抜けた気がして、視線をやる。
「……石田?」
 死神としての力は失っても、動体視力はそう変わらない。俺の目は、一瞬の間に石田の顔を捕えていた。あの格好、滅却師のものに違いない。とてつもなくスピードの速いその姿は、常人の目には止まらないだろう。あっと言う間に、家々の間を縫うようにして姿を消してしまった。
「あいつ、あのダッセぇ格好に着替えてから虚退治してんのかよ」
 だとしたら呆れた話だ。それにしても石田はたぶん、俺にさっき気づいたんじゃないかと思った。そのうえで、敢えて声をかけなかった。石田ならやりそうなことだ。力を失ったことを俺が気に病んでいるんじゃないか―― とか、普段は悪意を感じるほど無愛想なくせに、時々妙に気を回す奴だから。

 今の俺は、腕っ節が異常に強い、ということを除けば普通の人間にすぎない。人間にだったら誰が相手でも負けない自信はあったが、虚や破面のような霊圧を持った奴には勝ちようがない。そもそも姿を見ることもできない。俺が死神でなくなってからというもの、空座町に現れる虚は、全て石田が対応していた。

 坂の上から見下ろす空座町の町並は、二年前とほとんど変わっていない。レプリカだったとはいえ、この町がめちゃくちゃに壊されたことがあるのを思い出さずにはいられない。
―― これで良かったんだよな?
 藍染と命懸けで戦い、勝利と引き換えに力を失った。死神たちとの関係も途絶えてしまった今、死神だったころの痕跡は何も残っていない。唯一、全身に残った古傷が、あれが夢ではなかったことを思い起こさせるだけだ。
 あの時は藍染を倒すために、何を犠牲にしても、どうしても無月を使わなければならなかったのだ。使わなければ、今ごろ瀞霊廷は壊滅していただろう。その時の選択を、後悔したことは一度もない。

 それに、力を失って以来、妹たちが戦いに巻き込まれることはぱったりとなくなった。虚退治を事実上引き継いだ石田はとにかく、井上もチャドも平和に暮らしている。俺があいつらを護ったことは事実かもしれないが、逆に危険に巻きこむ原因を作っていたのも俺だったんだ、と認めるほかなかった。力を失って、みんなのためには結果的に良かったんだと、今ではそう思っている。

「いーのかよ、それで」
 その声に、ハッとして思わず周りを見まわした。そして一人で、苦笑いする。今のは俺の独り言か? 無意識のうちに声が出るなんて我ながら気味が悪い。いいのかも何も、どうしようもないではないか。
―― いいのかよ、か……
 自分の声を反芻する。その言葉に、返してくれる何者も俺はもう持たない。そして思わずにはいられない。確かにあの時、力を失うという理解はしていた、でも未だに俺はこうなったことに心の底で「納得」できていない。気持ちの上では何も変わらないまま過ぎた2年間だった。

―― なにウジウジ考え込んでんだ、俺は。
 考えに沈み込みそうになったところで、そんな自分が嫌になった。俺は前から、こんな風に終わりなく、ぐるぐる考え続けるタイプではなかったような気がするのに。気を取り直して、石田が去って行った方向を見下ろしたが、肉眼では何か事件が起こっているようには見えない。きっと、うまく場を収めてくれたのだろう。何も問題は起こっていない、いつも通りの日常が続くだけだ。視線を逸らし、スーパーへと向かおうとした時だった。数メートル先に、いつしか立っていた女性の姿に、視線が吸い寄せられた。
「……あ」
思わず、声が洩れた。


 水の流れを思わせる、涼しげな流線を描いた青地の和服を着た女性だった。長い黒髪は上へ結いあげて、ガラスの簪を挿している。白い日傘を差していた。
「こんにちは」
 俺の視線に振り返った彼女は、驚いた様子も見せずに微笑みかけた。簪の硝子が、振り向いた拍子にカランと綺麗な音を立てた。この暑いのに、顔には汗ひとつ浮かんでいない。
「棗……さん? 確か前、夏梨に料理を教えてくれた……」
 棗さんに出会ったのは、二年半ほど前の冬だった。風邪で寝込んでいた夏梨を置いて、俺と遊子で具合が悪くなった患者の家へ行った時のことだ。その間に、残された夏梨は昼食の準備をしようとしていたらしい。夏梨の料理の腕だと壊滅的な状況になるはずが、奇跡的に美味いチラシ寿司が俺たちを出迎えたのは、ひとえにこの人のおかげだった。あれから二年が経ち、服装も髪型も化粧も夏の装いに変わっているが、清々しいまでに綺麗な立ち姿は同じで、時間の流れを感じさせない。というよりも、一体今何歳なのだろう。昔も今も、20代の半ばくらいに見える。が、あのときからずっと着物屋の店長をしていると聞いたから、外見からは信じられないが30歳は越えているのかもしれない。

「あなたに会うのは久しぶりね、一護くん」
「……妹が店にお邪魔してるみたいで、すんません」
「いいえ、夏梨ちゃんは本当にいい子ね。私、いつも楽しみにしているのよ」
 初めて会った時も思ったが、棗さんと話していると自分が子供に戻ったような気分になる。俺はその時々の思った通りのことしか口にできないが、この人は一言一言、相手に負担をかけないような言い方を選んでいるのが分かる。今にしても、「気にしないで」などとは言わないところが棗さんらしかった。あのエコバックを手に持っていることに気づき、俺はさりげなく背中の後ろに隠した。「一護くん」などと呼ばれることが日常生活にないせいか、並んで歩いていると妙に照れくさい。

「私もこちらだから」
 そう言って、先に立って歩き出した棗さんを、ちらりと横目でうかがってしまう。さっきこの人は、石田が走っていった方向―― 虚が出現しただろう方向を眺めていなかったか? もちろん、そうだとしても偶然かもしれないが。
「ちょっと、雰囲気が変わったわね」
 車道側に並んだ俺を見上げて、棗さんが微笑んだ。
「そりゃ、もう俺も高3だし。進路のことも考えなきゃいけねぇし」
「決めてるの? 進路」
「あー……まだ、はっきりとは」
「そう」
 話が途切れた。そろそろ決めたほうがいいとか、大学は行っておいた方がいいとか、年上から大抵投げかけられる返事は返ってこなかった。
 
 それほどの学力があるのだから、将来のことを考えると進学するべきだと進路指導の先生には言われている。その一方で、決して家計が豊かでもなく、後には二人の妹が続いている状況だ。大学で学びたいこともないのに大学に金をかけるのはおかしいと思っていた。
「そういえば、いま、よろず屋でバイトしてんだ」
「よろず屋?」
「いろんな相談ごとが持ち込まれて、それを解決すんだよ」
 進路指導の先生に言ったら、そんな怪しい仕事に高卒で就いても将来性がない、と一蹴されるに違いない。
 
 力を失って、よろず屋になってみて初めて、世の中には力ではどうにも解決できない問題がたくさんあるのだと知った。倒すべき敵と、護るべき仲間がいる世界に比べ、現実の世界はもっとややこしく、複雑だった。そんな思うままにならない厄介ごとと格闘しているとき、力を失ったというもやもやを忘れられた。そして最後に「ありがとう」と笑顔を見せられたときに感じた充足感は、虚と倒して仲間を護った時の気持ちと、少し似ていた。
 それに、よろず屋にいる限り、客からはいろんな情報が入って来る。高校に閉じこもっていたらあり得ない量と範囲だった。その中に、死神や虚に関わる情報はないかどうか、無意識のうちに神経を研ぎ澄まさせている。

 気づけば、道すがらよろず屋の仕事のことを棗さんに説明していた。彼女は聞き上手で、楽しそうに頷きながら聞いている。
「卒業しても、よろず屋の仕事を続けるかもな。やりがいもあるし」
 何気なくそう言うと、棗さんは同じくらいさりげなく返してきた。
「ほんとうに?」
 車がふたりの間を走り抜ける、たっぷり数秒間、俺は答えに詰まった。たった一言、流したっていい言葉のはずだ。それなのに、心が乱れた。「それは本当に、やりたいことではないでしょう」そう言われたように感じたんだ。このひとの言葉は、決して雄弁ではないのに、妙に心に響く。……俺は、棗さんに向き直った。
「……あの、さ」
「なぁに?」
 子供のような返事だ。俺は一瞬ためらったが、心の中にわだかまっていた質問を押しだした。
「冬獅郎……日番谷冬獅郎と、最近も会ってるか?」

 棗さんが二年前に黒崎家を訪ねた経緯を、俺は詳しくは知らない。夏梨によると、冬獅郎から預かった何かを返すために、冬獅郎と連絡を取りたがっていたらしい。あとで夏梨に聞いたら、アンティークきもの屋の店長と常連客の関係だと言っていた。棗が、冬獅郎の正体を知っているのかは分からない。まあ、死神の身分をそうそう明かすことはないだろうと予想はつくが。
 ただ、義骸の姿にしろ、冬獅郎が――死神たちが、今も空座町に現れているのかどうかを、確かめたかった。井上や石田、チャドに聞けばすぐに分かることではあるが、いつまでも往生際が悪いようで抵抗があった。それに尋ねられた方も、答えがどちらだとしても気を遣わせてしまうに違いない。

 棗さんは、固唾を飲んだ俺の隣で、すぐに首を横に振った。
「いいえ。随分、会ってないわ」
「どれくらいの間だ?」
諦めが悪いと思いながらも、食い下がる。
「……二年以上にはなるわね」
「そ、か」
 予想していた答えではあった。でも、探していた宝箱の中身が空だったような気分だった。本当にそうなのかよ、と心の中で冬獅郎に向かって呟く。お前なら、藍染の一件が片付いても虚が毎日のように現れるこの町を、放っておかないんじゃないか?
「……ごめんね」
不意に棗さんがそう言った。
「棗さんが謝ることじゃないだろ」
言い方が切実だったのが伝わってしまったのだろうか。何となく棗さんなら、サラリと聞けそうな気がしたが、やはり気を遣わせてしまったようだ。

「あ」
 その時、棗さんが微かな声を漏らし、急に背後に下がった。少し後ろを歩いていた俺の胸に、背中からぶつかる形になる。
「っと!」
 慌ててその肩を支えると、ふわりと和風の香料の香りが鼻を掠め、ドキリとさせられる。
「どうしたんだよ」
「前」
 棗さんの言葉は短かったが、その声音がさっきとは打って変わって固い。前を見やった俺の視線は、坂を逆側から上がって来る一人の男に吸い寄せられた。



2012/8/22(last update: 2014/3/18)