道路の向こうから、一人の男が歩いて来ていた。グレイのスーツを来て、アタッシュケースを提げた、40代前後のサラリーマン風の男だ。
何もおかしいことはないじゃないか。棗さんの前に出つつも首を傾げた時、顔を上げた男の顔がまともに目に入った。その途端に、ぎくりとした。
「なんだ……? お前」
 にやり、とこちらを見て笑った男の口が、耳元まで裂けていた。口のサイズは顔の三分の一以上を占めていて、明らかにおかしい。口の中はまるでブラックホールのように真っ黒だ。その口が、ゆっくりと動いた。
「黒崎、一護」
 名前を呼ばれたとたん、悪寒が背中を走る。男の声は、まるでコンピューターのように抑揚がなく、感情も感じられない。人間の格好こそしているが、人間ではないのは間違いなかった。もう半ば忘れていた、虚や破面と対峙した時の戦慄が、数秒の間に蘇った。俺は、背後の棗さんを振り返った。
「行ってくれ。ここは大丈夫だ」
 こんな時なのに、平常心を保っていられるのは死神としての体験のおかげに違いない。もっとも、当時のような力はもう、自分にはないのだけれど。棗さんは数歩、後ろに下がった。そのまま動かないのを見て、怯えて動けないのかとちらりと振り返る。しかし彼女の目は、歩いて来る男の目にまっすぐ向けられていた。

 車が一台、俺たちの隣を通り、男の方へと向かった。しかし、その男の様子が尋常ではないことに、すれ違いざまに気づいたのだろう。車内から男女の悲鳴が聞こえると同時に、急ブレーキが町中に鳴り響いた。ハンドル操作を誤った車が大きく横へと曲がる。
「危ねぇ!」
 とっさに棗さんを庇って飛び下がる。狙ったように、その車は男に向かって突進した。男はまるでよくできた人形のように、口元に亀裂を走らせたまま動かない。不意に、その右手が動いた。その腕が、三メートルほどにも伸びるのを見て、棗が息を飲んだ。男の腕は、車のフロントガラスに打ち当る。一瞬後に、大音響を立ててガラスが砕けた。そして車は横転し、坂道を玩具のように転がり落ちてゆく。目を覆いたくなるような音を立てて、どこかに車が打ち当る音だけが聞こえた。きゃああ、と坂の下から誰かの悲鳴が聞こえた。
「棗さん、待て!」
 俺の脇をすり抜け、車を追って坂を下りようとした棗さんを慌てて止めた。坂を下りるには、あの男の隣を通り抜けなければならない。片腕で車を横転させた時点で、体格は人間でも、虚に近い馬鹿力を持っていることは明らかだ。

 男は張り付けたような笑みを浮かべたまま、ネクタイを緩めた。何の変哲もない青と黒のストライプのネクタイが宙を舞うのが、妙に非現実的だった。襟元を緩めた男の首に、視線が吸い寄せられる。そこには、黒く丸い穴があいていた。1年半ほど前までしょっちゅう目にしていたそれを、見間違えるはずはない。
「虚……いや、破面か? 今さら俺に何の用だ」
 俺の問いに、男は答えなかった。代わりに、その巨大な口をかぱりと開ける。その真っ黒の口の中に、光のようなものが集まってゆく。これは――
「棗さん!」
 俺は身をひるがえし、棗さんの小柄な体を引き上げるようにして抱き上げた。白い日傘が宙に舞ったが、構ってはいられない。虚閃が来る――そして、今の自分にはそれを受けることも避けることもできない。転がるように坂を下りようとした時、
「――虚閃」
恐れていた一言が背後から聞こえた。全身が強張る、しかし走ることしかできない。次の瞬間、まばゆい光が背後に炸裂した。


 棗さんを抱えて、目を閉じていた時間は長く長く感じた。しかし、いつまで経っても、予想していた衝撃は背中に襲ってこなかった。とん、と音を立てて、背後に日傘が転がる音がする。
「……誰?」
 強引に抱えられた時に乱れたのだろう、一筋頬に落ちた髪を、おそらく無意識に掻きあげながら、棗さんが俺の背後に声を掛ける。俺は棗さんから手を離し、振り返った。

 二人の少年が、俺たちと男の間に立ち、男に体を向けていた。一人は漆黒、一人は栗色の髪をしていて、身長から見て小学校高学年くらいか。どちらも、Tシャツにハーフパンツというありきたりな格好をしている。
「動くな」
 俺たちに背中を向けたまま、黒髪の少年が言った。子供の外見に似合わず、きびきびとした固い声音だ。よく見ると、その少年の前には、乳白色の壁が出現していた。その手前まで、アスファルトがえぐれているのを見ると、虚閃の攻撃を遮ったのはこの壁か。その様子を見ていた、栗色の髪の方が俺たちを振り返った。
「だいじょーぶだから。心配ないよ」
 この場の状況が分かっているのかと言いたくなるくらい、にっこり笑ってそう言った。黒髪とは打って変わって、軽い口調だ。色白の上に、目も明るい茶色で、全体的に色素が薄い感じだった。笑顔のまま、掌を男に向ける。と思った瞬間、男の前で爆発が起こった。大音響とともにアスファルトのかけらが飛び散り、俺は慌てて棗を庇ったが、乳白色の壁に打ち当って落ちた。直撃を受けたらしい男はもんどりうって地面に倒れる。棗さんが息を飲んだ。
「やめて」
 茶髪の少年に話しかけた、顔色が蒼白になっている。男の下には、血だまりがどんどん拡がって行く。こんな風景を目の当たりにしたことはないだろうから、怯えて当然だった。

「蓮……」
 黒髪の少年が、茶髪の少年を振り返り、眉をひそめた。白蝋のように白い肌で、黒い目が印象的だった。まるで大人のように、眉間には皺が刻まれている。しかし蓮、と呼ばれた少年は笑顔を崩さない。
「何を心配することがあるのさ、凛。見なよ」
 目の前で、男がゆっくりと立ち上がろうとしていた。しかしスーツの胸の辺りは大きく裂け、白いシャツには血がにじんでいる。しかし、自分が怪我をしているが分かっていないかような動きだった。相変わらず口元が笑っているのを見て、ゾッとする。凛、と呼ばれた黒髪の少年が、視線を険しくした。蓮が続ける。
「こいつはもう、人間じゃないんだから」
 言い終わると同時に、爆発が何度も男を襲った。その衝撃に、目を開けていられない。そして次に目を開けた時、男がいたはずの地面には、もう何もなかった。服のひときれさえも残っておらず、道路は無惨にも破壊されていた。めくれあがったアスファルトに、わずかに男の痕跡の赤が残るだけだ。
「……棗さん、見んな」
 全身を強張らせている棗さんを背中に、俺は二人の少年に向き直った。

 凛の目の前の乳白色の壁が、ゆっくりと消えるところだった。二人とも向き直り、俺を見ている。蓮はつい今しがた人を一人殺したとは思えない気軽な笑顔を向けていて、凛は生真面目な表情を崩していない。
 一体どういう力で、何者なんだ? 動揺しながらも、冷静に考えを巡らせていた。全く詳しくないが、凛が見せた力は、死神の鬼道と呼ばれる力に見た目は似ているようだった。しかしあれは、発動するには詠唱が必要だったはずだ。さらに蓮が起こしたあの爆発は、鬼道というよりも虚閃に似ていた。

「何者かって思ってるところ?」
 蓮は首をかしげて笑った。そういう風に笑うと、育ちのいい無邪気な子供のようだ。
「言っとくけど、僕は人間だよ。ちょっと普通の人間と違う力を持っちゃっただけ。……かつての君みたいにね、黒崎一護」
「俺……のこと、知ってんのか」
「この世界じゃ有名だよ、君」
 一体どこの世界だと言うのか。それに、今日はやけに他人に、フルネームで名前を呼ばれる日だ。
「僕の名前は蓮。そっちの子は凛。よろしくね」
 俺の疑念をよそに、蓮は少し頭を下げて見せた。
「……なんなんだよ、あいつは? ただの人間に見えたけど、胸に虚の穴があった。虚なのか、あいつは」
 いきなり「虚」などと言っても伝わるのか分からなかったが、蓮は当たり前のように頷いた。
「新手の破面なんだ。ヤドカリみたいな感じで、外側は人間だけど、中には破面が入ってる。霊圧は一切ないし、普通の人間として普段は生活してる」
「元に……元の人間に戻す方法はねぇのかよ?」
 聞いた時から、答えは予想してはいた。
「ないよ」
 思った通り、蓮はあっさりと首を横に振った。そして、男がいた背後をちらりと一瞥しながら続けた。
「もう人間としての魂は食われちゃってるからね。それに、何度か戦って気づいたけど、元になる人間の霊圧が強いほど、破面も強くなるみたいだ。だから君を狙ったんじゃない?」
「……俺にはもう、力はねぇよ」
「それでも、君はあの藍染を倒したんだもの。破面が欲しがるのも当然さ」
「……どこまで、知ってんだ? お前」
 あまりにすらすらと、普通の人間では知らないはずのことを口にされるのが、不気味になってくる。事もなげに蓮は答えた。
「一通りはね。歴史の授業の年表みたいに」
「どんな例えだよ」
 思わず突っ込んだが、要は表面的な知識で詳しくは知らないということだろう。
「それにしても、今の口ぶりじゃ、さっきの男だけじゃないのか?」
「どれくらいの人間が『食われて』るのかは分かんないよ。気配も人間と同じで見わけがつかないんだから」
 蓮は肩をすくめた。
「ま、隣に気をつけたほうがいいね」
「って言われてもな……」
 事態を理解するほど、これはとんでもない事態なんじゃないか? と思えてくる。街をすれ違う人々、友達、家族、もしかしたらその中の何人かが既に、破面に入れ替わっているかもしれないのだ。それに昨日大丈夫でも、今日も安全だとは限らない。
「死神は……この事態に、なにやってんだよ」
「さぁ? 死神の動向は僕にはわかんないよ、接点もないしね。でも何かするんじゃない?」
 何とも頼りない返事だった。蓮が把握していないということは、死神は空座町に現れていないということか? 涅マユリあたりが、対策を練っているところなのかもしれない。

 背後にいる凛は、見ればどこかに電話を掛けていた。ピッ、と電話を切ると、俺たちの方に歩み寄って来る。
「110番しておいた。もうじき警察が来る。ついでに救急車も呼んでおいた」
「そんなことしなくていいのに」
「道路がこんな状態なのに、事故が起こったらどうする」
 凛はため息交じりに蓮に言い返した。後ろ姿は似ていると思ったが、正面から見ると全然顔のタイプも違う。蓮は顔の彫りが深く、それぞれのパーツが大きく、その髪や目の色ともあいまって外国人のような風貌だ。一方の蓮は鼻や口は小作りだったが、目はぐんと大きく見えた。蓮は地面に転がっていた日傘を拾った。そして、俺たちのほうへ歩み寄ってきた。
「危なかったね、お姉さん」
 そう言って、傘を棗さんに手渡した。
「送っていこうか?」
「大丈夫よ」
 棗さんは身を強張らせたまま答えたが、この状況だと当たり前だろう。とはいえ、このまま一人で帰らせるのも心もとない。
「棗さん、一緒に行こうぜ」
 さっき男がいたところを横切るのは嫌だが、さっき事故にあったらしい車を放っておくわけにもいかない。棗さんは頷くと、案外しっかりした足どりで立ち上がった。棗さんに、蓮がふと顔を近づけて、覗き込むようにした。
「それにしてもお姉さん、さっき『やめて』って言ったよね。よく、僕が攻撃したって分かったね?」
 確かに。言われて初めて、俺もそのことに気づいた。さっき蓮は掌を男に向けただけだった。元々死神だった俺には、蓮が男を攻撃したと推測はできたが、普通は何が起こったのか分からないだろう。それなのに棗さんははっきりと、蓮を見て「やめて」と言った。

「よせ、蓮。年上の女性に絡むのはお前の悪い癖だぞ」
 凛が呆れた口調で割って入った。
「そういうんじゃないんですけど……」
「とにかく、お前たちは関わるな」
 不満げな蓮をさえぎって、凛が俺たちを睨むように見た。
「この空座町は今、目をつけられている。霊圧が強い人間が多いからだ」
 言われて俺はドキリとした。二人の妹や、チャドや織姫のことが頭をよぎった。俺の表情が変わったのに気づいたのか知らないが、凛はまっすぐに俺を見た。
「もう一度言う、関わるな。今の平和を護りたいなら」
 どこまでも冷静な目をしていた。そして蓮の背中を押すように、その場を後にする。俺は腑抜けたように、二人の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 霊圧が高い人間が襲われる確率が高いなら、まっさきに石田やチャド、井上や妹たちを思い出す。石田とチャドはまだしも、井上は戦闘が苦手だ。妹たちも、霊圧はそれぞれ高いものの戦闘能力はない。あんなものに襲われたら、戦う術はないに違いない。それに、姿は町の人々なのだ。もう人間ではないと頭では理解しても、だからといって蓮のように割り切って殺せるとは思えなかった。かといって俺が護ろうにも、もうなんの力もない。
 どうしたらいいんだ? 答えなどあるはずもなく、俺は唇を噛んだ。



2012/8/27