「いや、この家にこんな綺麗な大人の女性がいるのは、母さん以来だな!」
 棗さんの隣に座った親父は、ビールに顔を真っ赤にして御満悦の表情だ。お好み焼き(棗さんが加わった時点で、ネギ焼きから昇格した)がダイニングテーブルの真ん中に据えられたホットプレートで、じゅうじゅうと景気のいい音を立てていた。
「いい? ひっくり返すよ?」
 遊子は、仁王立ちでフライ返しを二つ持ち、お好み焼きを挟んで真剣な表情だ。ちなみに前回お好み焼きをした時、遊子はひっくり返すのを失敗して、親父の顔面に生焼けのお好み焼きを投げ飛ばした前科がある。結果、顔面にお好み焼きを張りつけた親父が熱さに叫びまわった(いい気味だ、)のを覚えている俺たちは、皿を持ってテーブルから速やかに避難した。
「どうしたの?」
 遊子の真向かいに座った棗さんはきょとんとした表情だ。
「危ねぇぞ! そこ、来るから!」
「ひどいよお兄ちゃん! そんなこと言うなら代わってよ!」
 泣きそうな顔でそう言われたが、俺だって自信がない。状況を理解したらしい棗さんが「ああ」と頷いて立ちあがった。
「わたしがやります」
 遊子からさっとフライ返しを受け取ると、さっと綺麗にひっくり返した。拍子抜けするくらいにあっさりと。
「おぉっ……」
「出身は関西だから」
 にこやかな棗さんの言葉に、一同は再びどよめく。
「ってことは、関西弁しゃべれるの?」
「実家に帰ったら、関西弁よ」
 夏梨の言葉に棗さんは頷いたが、この人が関西弁を話している姿が想像つかなかった。

「ますますいいねぇ。おじさん、棗ちゃんに関西弁しゃべってほしいなぁ」
「ビール、空いてますよ」
 棗さんがビールを注ぐのを見て、ますます親父は目じりを下げる。普段、ビールをついでくれる者など家族にはいないから嬉しいのだろう。おまけに相手は、和服姿で妙齢の美女だ。
「おい、親父! 棗さんから離れろ!」
「なんで? なんでだよ夏梨ちゃん」
「汚らわしいから」
「け……」
 さすがに親父が絶句した。

 それにしても、あまりに夕方の光景が棗さんにとってショックだっただろうと心配して、一人にさせまいと連れて来たのだが……正直今の態度は意外だった。彼女はあまりしゃべらず穏やかに微笑み、テンションが高い黒崎家の面々にも引くことなく笑顔でつきあっている。
つまり、普段通りに見えるんだ。怯えているようにも、動揺を引っ張っているようでもない。見た目も雰囲気も強そうには全然見えず、大和撫子の言葉が似合うはんなりした美人だが、芯は強いんだろう。
 今も笑顔で、親父や遊子、夏梨と話をしている。眉を下げっぱなしのバカ親父は放っておくにしても、遊子と夏梨もはしゃいでいる。やはり、大人の女の人が家にいる、という滅多にない状況が何となく嬉しいんだろう。

「ねぇねぇ、棗さん! 明日、星遊荘ってところにみんなで晩御飯食べに行くの! 棗さんも行こうよ」 
 だから、すっかり棗さんになついた遊子が、パンフレットを持って来たのは自然の流れだった。
「無料のチケット、6枚あるから。どうせ、余っちゃうし。行こうよ!」
 夏梨が現実的な視点から薦めたのも、
「まるで家族が一人増えたようだなぁ。娘じゃない家族が」
 と親父がさらに鼻の下を伸ばしたのも。
「調子に乗んな」
 俺はすかさず親父を蹴飛ばした。テーブル下の出来事なので傍からは見えない。
「お・ま・え・は黙ってろ!」
 親父が蹴り返す。さらに蹴飛ばしていると、衝撃でテーブルが浮いた。
「もう! お父さん、お兄ちゃん!」
 心なしか最近、親父と喧嘩をしていると遊子の視線が冷たくなった気がする。同じレベルで見られてるとしたら大いに不本意だ。俺たちは睨みあいながらも蹴り合いを止めた。


 棗さんが黒崎家を辞したのは、9時を過ぎたくらいの時間だった。全員引きとめたがったが、あんなことがあった日だ。棗さんが立ち上がったタイミングで、俺が送ると切り出した。
「おい、送り狼になるんじゃねぇぞ! ま、このバカ息子にはそんな度胸ないんで、安心して送られてちょうだい」
「うるっせ!」
 バカ息子、に妙にアクセントをつけた親父を睨み返す。まあ、言われた後半の言葉は正しい。
「棗さん、送るから!」
 丁寧に皆に礼を言い、先に玄関を出た棗を、慌てて追いかける。街頭の下で追いつくと、かすかに棗さんの声がした。
―― 歌ってる?
 よく聞こえなかったが、一瞬鼻歌を歌っていたような。親父に少し飲まされていたが、全く顔色を変えていなかったのに。実は少しは酔っているのかもしれない。

「ありがとう」
 振り返った棗さんの表情がいつになく艶やかに見え、俺はわずかに狼狽した。年下、もしくは妹風の女なら身辺になぜか大勢いる。たつきのように、肩を小突きあえる友達のような女もいる。こういう形での女との付き合いは慣れている自信がある。でも、年上の女性、というと考えてみればあまり周囲にいなかった。敢えて言えば乱菊さんがそうだったが、正直あの人がたまに見せる「お色気攻撃」はどうにも苦手だった。棗さんと乱菊さんの間にはなんの共通点もなさそうだが、俺にとってみれば「免疫がない」という点で同じだった。
―― 俺、年上の女が好みなのか……?
 そんなはずはない、と心中で首を振ると、棗さんが少し悪戯っぽい視線で見上げていた。
「どうしたの?」
「い、いや」
 大人の女性は第六感とも言うべき、恐るべき勘を持つという。雑誌にあった何の根拠もなさそうな話だが、こんな時に妙に思い出す。

「本当に、楽しい家族ね」
「いや……ただ、うるせぇだけだろ」
 俺がそう返すと、棗さんは声をたてて笑った。確かに機嫌はいいのかもしれない。
「……ごめんな。さっき、明日の夜のチケット押し付けられてただろ? 用事とかあったら、いいから」
 ちらり、と棗さんが見上げて来たのを見て、付け加える。
「ま、来てほしいけど。あんな風に、みんなはしゃぐのって実は、そうねぇから。うち、母親は随分前からいねぇし」
「……そう」
 死んだとは敢えて言わなかったが、棗さんは察していたようだった。一瞬あいた沈黙に、ハッと今言った言葉の意味を考えた。
「いやっ、別に……その、代わりとか言ってるわけじゃ、ねぇから!」
 ふっ、と微かな声がして、見下ろすと棗さんは口元に手を当てていた。吹きだしたいのを堪えているように見える。どうも、フォローしようとすればするほど見当違いのことを言いそうで、俺は不本意ながら口をつぐむ。棗さんは笑いやんで、俺を見返した。
「じゃあ、喜んで。仕事があるけれど、終わったら直接向かうわ」
 そう言われて、ホッとした気持ちになったのは事実だ。送ると言った時、夏梨と遊子に、「絶対明日の約束を取り付けて来るように」と言われていたこともあるし。

 棗さんの家は、聞いたところ隣町だった。電車を使うかと思っていたが、棗さんは先に立って、駅とは違う方向に歩き出した。
「少し、歩いてもいい? わたし、夜の散歩が好きなの」
「あ、ああ。もちろん」
「夜は、涼しいわね」
 背筋をスッと伸ばして、半歩ほど先を歩いてゆく棗さんの少し後ろを、ポケットに手を突っ込んで続く。傍から見たらどんな風に見えるんだろう、とおかしくなる。和風美人にからもうとしている不良高校生か。ただ、涼しくなった風の中、かすかに天の川を見ながら歩くのは心地よかった。何時間でもこんな風に歩いていられると思うほどに。だから、「なつめ堂」と描かれた建物の前に来た時には、随分早く感じた。

「へぇ、すげぇな、ここなのか」
 あまり店の情報に詳しくなくても、ここがいわゆる「売れ筋」の通りに位置する事は分かった。すぐ近くの大通りをまっすぐに行けば有名な神社に出るし、いつも参拝客で込み合っているだろう。もっとも、大通りから少しだけ奥に入った場所にあるが、人通りはそれなりにあり、夜は静まり返る、理想的な立地だとも言えた。風流な女文字で「なつめ堂」と木製の看板が立てられ、大正時代のものなのか波打つ大きな硝子を使った引き戸には、「骨休み」と描かれた小さな札が掛けられている。
「ありがとう、送ってくれて」
 おくれ毛を耳に掻き上げ、棗さんが頭を下げた。
「いいよ、全然」
 穏やかな笑顔を棗さんが返す。俺は準備していた言葉を口にした。
「今日のことだけど。……もし、ヤバい目に遭ったら、連絡してくれ。絶対駆けつける」
 そして、準備していた、携帯の電話番号とメールアドレスを書いたメモを、棗さんは受け取った。
「ありがとう」
「いや、本当だぜ!」
 あまりにアッサリ受け取られると、逆にすぐ忘れられそうな気がして言い募る。
 棗さんを今日一日見ていて、感じたことがある。この人はどこか、普通の人間と「違う」。それも、霊的に。今の俺に、霊圧など感じることはできないが、元死神としての勘が、彼女には何かあると言っている。それが本当なら、また敵に狙われる可能性だってあるのだ。
 棗さんはそんな俺をよそに、手にしたバックからペンを取りだすと、さらさらとメモの端に電話番号とメールアドレスを走り書きした。そしてその部分を破り取ると、俺に差し出した。
「これ、わたしの連絡先よ。明日、なにかあったら」
「お、おう」
 差し出されたメモを受け取る。その指が折れそうなくらい細かった。
 もしこの人が、たった一人で虚に襲われたらと思うとぞっとした。戦うことなど、到底できそうにない。俺が護らなきゃと思う。でもその半面で、あんな敵が現れたら今の俺に勝ち目はないのは事実だった。常人にくらべて運動神経が並はずれて良かろうが、虚閃なんて撃たれたらどうしようもないのは、すでに今日はっきりしている。ただ、この人を護るために今俺ができる最善のことは、何かあったら駆けつけることしかないんだ。そう言い聞かせた。

「わかったわ」
 棗さんは頷いて、「なつめ堂」の鍵穴に、店にふさわしいアンティークな鍵を差し込んだ。カチリと鍵が合い、引き戸がカラリと開く。店の中を覗き込んだ途端、ハッと息を飲んだ。
「どうした!」
 慌てて店の中に先に入り、電気をつけた。思ったより奥行きがある店の中には、何百もの着物が整然と並べられていた。手前は女性のもの、中ほどに男性のもの、一番奥には子供用らしい着物が見える。さらに奥にはレジがあり、レジの向こうは引き戸が閉まっている。その先は、生活空間になっているらしかった。穴があくほど見まわしたが、誰もいないし、何の気配もない。
「ごめんなさい、なんでもないの。大丈夫よ」
 そっと俺の脇を抜けて、店内に入った棗さんが首を振った。もういつもの穏やかな表情に戻っている。
「送ってくれてありがとう。……お茶でもいかが?」
「い! いや、大丈夫だ」
 何が大丈夫なのか自分でも分からなかったが、この店から薫る何とも言えない女らしい薫りが妙に落ち着かなかった。それに、帰りが遅ければあの父親から何を言われるか分かったものではない。
「そう? ごめんなさいね、お構いもせずに。……おやすみなさい、また明日。連絡するわね」
ひらり、とさっき渡したメモを示してみせる。
「おう。……おやすみ」
 頷き、店を出ようとして、一度だけ振り返る。店の奥に視線を転じた。……なぜだろう、どこか既視感があるような。首をひねりながら、俺は店を後にした。


2012/8/27