一護くんの足音が通りの向こうに消える。その微かな音に、わたしは耳を澄ませていた。自分でも気づかない内に、微笑んでいたらしい。そして、1メートルほどの高さの和箪笥の上に腰かけていたひとに視線を向ける。黒い着物に身を包んだ、この世のものではない姿は、窓からの月光に朧に霞んでいる。身の丈の3分の2はありそうな長刀を、右手に無造作に提げていた。銀色の髪が、幻想的に光っている。彼は一護くんが立ち去ったのを確認すると、口の前で立てていた人差し指を、そっと下におろした。 「……なぁに、笑ってんだ」 聞き慣れた高くも低くもない少年の声が、心地よく鼓膜を打つ。 「いいえ。なんでもないわ」 「なんだ黒崎の奴、鼻の下伸ばしやがって」 なぜだか機嫌が良くないようだけれど、その言い方で本気ではないのは分かる。その言葉に、笑いながら首を横に振った。わたしのような年上の女性に彼が「鼻の下を伸ばす」なんてありえないけれど、その初々しい男ぶりが微笑ましくはある。実際、一護くんと一緒に歩くのは楽しかった。そう言うと、冬獅郎くんは眉間に皺を寄せた。 日傘を傘入れに戻し、冬獅郎くんに歩みよる。彼は手に持っていた長刀を取り上げ、棚の後ろに置き直した。いつも見下ろしている彼を、見上げるのは新鮮な感じだ。 「久しぶりね、冬獅郎くん」 「久し振りってこともねぇだろ」 「三カ月ぶりくらいかしら? ……一護くんに聞かれたわ。あなたと会ってるのかって」 「頷かなかっただろうな?」 「会ってないって、言ったわ。言われたとおり」 少なくとも二年前、冬獅郎くんと一護くんが普通に顔を合わせていたのを見ている。それなのにどうして今、会っていることすら秘密にしなければいけないのか、わたしには分からなかったし、冬獅郎くんも語らない。ただ、「会っていない」と答えた時、一護くんは思いがけないくらいがっかりした顔をしていた。失望したのを隠そうとしていたのが余計、痛々しかった。嘘をついたのが心苦しく、気づけば謝っていた。 冬獅郎くんを非難するつもりだったのではなかったけれど、しばらく黙っていると、彼はバツが悪そうに後頭部を掻いた。 「そんな睨むな」 「……一護くんの前に、もう姿を見せないつもりなの?」 手を伸ばせば、冬獅郎くんにすぐ触れるくらいの距離で、立ち止る。 「もう、決まったことなんだ。それがあいつのためだと」 「……そうかしら」 なにが一護くんのためになって、何がそうでないか。それを決めるのは一護くん自身ではないだろうか、という気がした。少なくとも彼は、今の自分に納得をしていない、強い不満を持っているようだった。楽しそうに話していた「よろず屋」の仕事も、本当にやりたいことではないように聞こえていた。まるで、「核心」にいたるのを右に左に避けつつ、それでも心に留めている――。印象だが、わたしはそう受け止めていた。もっとも、わたしは一護くんのことをそれほど知らないし、具体的なことは分からない。ただ、そう感じただけだったけれど。 「何が言いたいのか、だいたい分かるから言うな」 黙っていると、そんなことを言われた。 「それに、俺たちも今、あまり頻繁に空座町に来れる状態じゃねぇんだ。……この町は今、霊的に不安定だからな」 今の冬獅郎くんの姿は、むしろ「半透明」に近いくらい後ろが透けて見える。前は普通の人と変わらないくらい輪郭もはっきりしていたし、気配もはっきりとあったのに、今にも消えてしまいそうだ。わたしは、冬獅郎くんの首に指を伸ばした。少し開いている襟元を直すのを、冬獅郎くんは黙って見下ろしていた。着方の問題というより、激しく動いた後のようだ。「死神」としての過酷な日々が、ちょっとした着物の乱れにあらわれているようで、いたわってあげたかった。 不意に、冬獅郎くんがわたしの手首を取った。あまりに自然な動きだったから、わたしは何気なく彼を見上げる。冬獅郎くんは、眉をひそめていた。 「……虚の匂いがする」 「ホロウ?」 「何かあったか?」 当然わたしは、昼間起こったことを思い起こさずにはいられなかった。……生まれて初めて、人があんな風に殺されるところを見た。あの蓮、と言う子供によれば、あれはもう「人」ではなかったのかもしれない。それでも少し前までは普通の人間として生きていたのだろうに。あんな風に、殺されていいとは到底思えなかった。「ホロウ」。わたしには何のことか分からなかったけれど、一護くんたちは確かに、その言葉を口にしていた。 冬獅郎くんは黙ったわたしの手を離すと、隣に滑り降りた。 「何があったにしろ、ここは安全だ。俺がいる」 「……ええ」 優しい言葉をかけられて初めて、自分が表面的には冷静を保ちながらも、内心では動揺していたことに気がつく。冬獅郎くんはさっさと家の中に入ってしまった。優しい態度を見せてすぐに、照れ隠しにいなくなってしまうのが彼らしい。もう大丈夫なのだと、彼の気配を家の中に感じて思った。 「入れよ」と部屋の中から言われて思わず笑った。物音から察するに、冷蔵庫を開けてお茶を出しているらしい。これではまるで、家の主が逆みたいだ。 「……なるほど」 わたしが話し終わった時、冬獅郎くんは机の上に頬杖をついて何か考えているようだった。二人の前に置かれたコップの中の氷が、カシッ、と微かな音を立てた。それほど、向かいあって座る部屋の中は静かだった。 「……その、男の子のことだけれど」 「なんだ」 「死神だったわ」 は、と冬獅郎くんが顔を上げた。ややおいて、ため息をついた。 「ほんと、何も隠せねぇな」 「知っていたんじゃないの? あなたは、死神の隊長さんでしょう?」 「ああ」 冬獅郎くんはあっさりと認めた。 「ただし、報告を受けたのは黒崎が襲われたことだけだ。一緒にいた女が、棗だったとは今初めて知ったが……まぁ、納得だな」 「どうして?」 「霊的に強い、とは言わないが。何か不思議な力がある女が黒崎と一緒にいたと聞いてた」 「わたしのこと……?」 正直、そう言われても全く心当たりがない。なにか特別なことを、あの時にした記憶もなかった。ただ、一護くんが身をもってわたしを攻撃から護ろうとしてくれて、その陰にいただけなのだから。 「……だから、来てくれたの?」 「まさかとは思ったがな」 「ありがとう」 「気をつけろよ。しばらく、できるだけ外出もすんな。さっきお前が言った通り、力がある奴が狙われやすい」 冬獅郎くんは、真剣な目でわたしを見つめてきた。 「で……でも。わたしには力なんてないわ」 「力があるやつが、全員それを自覚してるわけじゃねぇんだよ。お前はいい例だ」 「……分かったわ。仕事とか、約束以外は出ないようにする」 「いや、仕事も約束も出んなよ」 「それは無理よ」 わたしは首を横に振った。この店を経営している以上、買い付けに出掛けることもあるし、接客業だから人に触れない訳にはいかない。明日の約束もあるし、家にこもりきりと言うわけにもいかない。 「あのなぁ」 冬獅郎くんが身を乗り出した時だった。わたしのバッグに入れていた携帯電話が、突然鳴り響いた。 冬獅郎くんに目で断った後、取りだした電話には、見覚えがある電話番号だけが表示されていた。 「もしもし」 「あ、俺だけど。黒崎です」 改まった一護くんの声が電話から流れ出し、わたしは、冬獅郎くんと思わず顔を見合わせた。 「一護くん? どうしたの」 「あ、さっき、言い忘れたことがあって」 「どうしたの?」 一瞬の間が空き、一護くんは、言葉を継いだ。 「もしもの話だけど。冬獅郎がまた店に来たら、今日あったことを棗さんから伝えてほしい。それと、あいつに伝言があるんだ」 「……ええ。なに?」 わたしは頷くと、冬獅郎くんに電話を向けた。思いがけない展開に、冬獅郎くんは怪訝そうな表情をしながらも、一護くんの言葉を聞いている。 「井上や夏梨、遊子が襲われないように、護ってやってくれねぇか。……考えてみたけど、俺には虚と戦って勝つ力はねぇから。もう、俺にはあいつらを護れねぇんだ。もし冬獅郎たちが出て来てくれるなら、それが最善なんだ」 後半は、絞り出すように苦しげな声に変わっていた。黙って聞いていた冬獅郎くんは、一度だけ頷いた。わたしは携帯を耳に当てた。 「わかったわ。伝えておくから。……心配しないで」 「ありがとな。……それだけだ。棗さんも、もしまた会えたら冬獅郎の傍にいろよ。あいつは信頼できる」 ぶつっ、と電話が切れた。まるで、重い会話に耐えきれなくなったかのように。 「……『日番谷隊長』だっての」 ほろ苦く、冬獅郎くんが微笑んだ。一護くんが残した電話の余韻が、その場に漂っている。冬獅郎くんはわたしに視線を向けた。 「俺のこと、話してないよな? あまりにもタイミングが良すぎるぜ」 「話してないけれど……たぶん」 わたしはそこで言葉を切ると、店へ続く襖を開けた。薄暗い店内の奥まったところにある、男の子用の着物の棚を指差す。 「一護くん、お店を出る前にあっちを見てたの。実質、あれは冬獅郎くんの専用棚みたいになってるんだけど……うちで買ったきものを着てた時、一護くんに会った?」 「そういえば」 冬獅郎くんはちょっと目を見開いて、頷いた。 「確かに、非番の日とか仕事上がりには普通に着てたな。黒崎に会ったこともあるはずだ」 「うちで扱うきものの系統は似てるから。なんとなく、見覚えがあったのかもね。それに、品物がちゃんと入れ替わってることにも、気づいたのかも」 実際のところは、冬獅郎くんの空気に合う柄を選んで仕入れていると言った方が正しかったけれど。 一護くんは、冬獅郎くんがわたしのお店の常連客だと知っていた。この棚に並んでいる男の子用のきものと、冬獅郎くんの私服姿を比べてみて、ここで買っているものだと思うのは当然の流れだろう。その上、男の子用のきものがそうそう売れないことは想像がつくはず――それなのに、この店にはちゃんと男子用の棚がある上に、秋用のものしか今は置いていない。品物がちゃんと回転しているということだ。 「――だから、俺が割と頻繁にこの店に来ていると?」 「事実よね」 「まぁ、な。あいつそんなに洞察力あったか? 数秒のことだろ」 「手掛かりを、ずっと探し続けていたのかも。ずっと気にかけていたら鋭敏になるものね」 「力を失った」と一護くんは言っていた。店内をぐるりと見回したのに、棚の上に腰かけていた冬獅郎くんを見ることができなかったのは、そういうことなのだろう。かつては浅くない関係だったのだろうに、片方は姿を見られて、片方は見られないなんて、なんだか切ない。 「……あいつは、一年半前、『最強の死神』だった」 不意に、ぽつんと冬獅郎くんが漏らした。 「死神の誰もが、黒崎に護られた。でもそれと引き換えに、あいつは全ての力を失った。今のあいつは『最弱の死神』どころか、死神としての力が全くない」 「そうみたいね」 わたしがそう返すと、冬獅郎くんは妙な顔をして見返して来た。 「さっきから気になってたんだが、どうやって死神かそうでないか見分けてるんだ?」 「……たとえば、あなたを見ている時に目を閉じると、いたところが赤く見えるの。他の死神さんでも同じ。一護くんも、初めて会った時に赤く見えたから。でも今は、何も見えない」 「霊絡か! ……確かに、死神の霊絡の色は赤だ」 冬獅郎くんは、わたしには分からないことを言って、ぽんと膝を打ちそうな顔をした。実際、気づいたのは冬獅郎くんに初めて会って、随分経ってからのことだった。気づいてからもしばらくは、目がおかしいのかと思っていた。でも、死神を名乗る人に何人か出会う中で、赤く見えるのが死神だけだと気づいた。一護くんに初めて会った時は、この世界に家族もいる人間なのに、死神ということがありえるのかと心中不思議に思っていた。それに、今日の一護くんと男の子たちのやり取りも、一護くんが死神だという前提で聞けば何となく理解はできるのだ。 「それなら話が早ぇ。……どう思う?」 冬獅郎くんは、どこか気だるげな視線をわたしに向けた。 「もうあいつは、十分に戦った。そして平和を手に入れた。そのままにして、必要な時は俺たち死神があいつを護ればいいという意見がある。逆に、あいつは死神であることを望んでいるから、死神に戻してやるべきだと言う意見もある。もっとも後者の場合は、戻す方法が分からねぇけど」 そのことに関して、おそらく議論はずいぶん長い間されたんだろう。読みあげるような口ぶりや、少し疲れたような態度から想像したことだけれど。 「冬獅郎くんはどちらの意見なの?」 「どちらも、だな」 と言って苦笑した。 「結局、死神に戻す方法が見つからねぇんだからどうしようもないさ。結論としては、前者だった」 「……冬獅郎くんは、それでいいと思ってるの?」 もう一度聞きなおすと、冬獅郎くんはうぅん、と口の中で唸った。やがて、独りごとのように言った。 「護りたい奴を自分の手で護れなくて、他の誰かに託すしかないなんて。……俺だったら、耐えられねぇ」 「……じゃあ、もう答えは出てるじゃない」 冬獅郎くんほど、周りの人を大切にできる人を、わたしは知らない。彼と出会ったことが、わたしの幸せだと思っている。でもその気持ちは、相手を護れなかった時、諸刃の刃となって冬獅郎くんを深く傷つける。わたしはそのことを、知ってる。 「……苦しいな」 不意に、冬獅郎くんがそう漏らした。
2012/9/8