夜摩 妄筆


十番隊の軒下を、ひゅぅっと初夏の生温かい夜風が走り抜ける。
磨き上げられた廊下に、ぼんやりと月の形が浮かんでいる。
叢雲が月を隠し、おぼろな星影を残して周囲は闇に閉ざされた。

「曲者が十番隊舎に侵入したぞ! 草の根分けても探し出せ!」
「隊長、副隊長の居室には決して近づけてはならん!」
すでに就寝しているだろう隊首を気遣い、低めた隊士たちの声が隊舎に響く。
隊長や副隊長への敬愛の度が高いほど、きっと自分には一分の情もかけないだろうことを、黒崎一護は予感した。
「ちっくしょー。こっそり逃がしてくれねぇかな……」
穴があったら入りたい、というのは本当なんだと一護は思う。
実際のところ彼が隠れているのは、井戸の中だった。隊士に気づかれた、と思った瞬間、そこしか目につかない場所がなかったのだ。
両手で井戸のへりに掴まり、身体はもちろん井戸の中である。腕はしびれが来ているし、そう長くはもたない。

そもそも、十番隊に忍び込むつもりなど、全くなかったのだ。
十一番隊にうまい飯があると言われて、のこのこついて行った自分の考えが足りなかったのだろうが、
隊舎に入ったとたんに、更木が全力で斬りつけてくるといった展開は予想だにしていなかった。
考えるより先に身体が動き、とにかく十一番隊以外の隊に、と隣の隊舎に飛び込んだら、そこが十番隊だった。
それ以上でも、それ以下の理由でもない。

下からひやりとした風が吹きあがってきて、一護はそーっと眼下を見下ろす。
見下ろした拍子に、井戸のへりに引っかかっていた小石が、井戸の中に落ちる。
「……下に落ちる音、しねーんだけど……マジかよ」
どれだけ深いのだこの井戸は。落ちたらきっと、死ぬ。ひきつった笑いすら浮かんでこない。

十番隊の隊士につかまれば、きっと牢に放り込まれる。
そして、明日の朝、寝起きの隊長によって小言をくらい、午前中には現世へ戻れるだろうが……
それでは、遅いのだ。なにしろ、明日は朝イチに学校に行かねばならない。
出席日数が圧倒的に足りない一護にとって、最後の救済処置になりそうなテストなのだ。
なんとしても一刻も早く家に帰り、補習対策を練らないと、この調子では次の日出席できるかもおぼつかない。

1.一目散に逃げる
2.このまま腕が肉離れするまで井戸で踏ん張る
3.十番隊士を吹っ飛ばして逃げる
「1か、3か……ていうかどっちも同じか」
一護がぶっそうな考えに辿りつこうとしている時、ふと隊士たちの声が遠のいていくのに気づく。
よっしゃ、とばかりに両腕に力を込め、井戸の外に一気に飛び出した。
大まかに方角の見当をつけ、そろりそろりと歩きだす。
ひとっ飛びで逃げられそうな端まで来たら、全力で駆け出して逃げるつもりだった。

人気のないほう、人気のないほう、と忍び足で歩くうちに、和風の庭に出た。
日本庭園というほど形式ばってはいない。野の花が咲き乱れ、夜風に花の香りがする。
小さな流れの傍には苔むした背の低い石灯籠が立ち、その中にちいさな雨蛙が座っていた。
げこ、げこ、と蛙の鳴き声が響いている……が、一護が踏み入ったとたん、蛙の合唱は止んだ。

―― やべ……
庭園の奥には縁側があり、縁側の向こうには和室が続いている。その障子は少し、開いていた。
行燈のほのかな明かりに照らされて、長い影が和室の奥から、縁側に向かって伸びていた。
ゆらり、と影が揺れる。誰か分からないが、いる。一護は息を飲んだ。

「ずいぶん気が利かねぇな、黒崎一護」

高くも低くもない声が鼓膜を打ち、一護は思わず肩を揺らせた。
その声の主は、怒っていたり、呆れていたり、というわけでもないらしい。
珍しいことに、相手をからかうような声音が含まれている。

完全にバレている、と一護は思う。となれば、もう隠れても仕方ない。
一護は大股に、縁側に向かって歩く。そして、縁側に片膝を載せ、部屋の中を覗き込んだ。


部屋の主は、そろそろ寝ようとしていたらしい。
風呂上がりらしく、いつも逆立っている銀髪は湿り気を帯び、少ししんなりと見える。
寝間着の裾が割れ、かたちのいい足が脛のあたりまで覗いている。
襟元もはだけていながら、子供子供しては見えないし、かといってだらしなくも見えないのはさすがだ。
自分にその気はまったくないが、妙な色気まで漂っているから始末が悪い。
「……気が効かないって何だよ、冬獅郎」
妙な色気の正体を、一護はすぐにつきとめる。
右手に添えていたのは、小さな杯。傍にはお銚子がひとつ転がり、ひとつは立っている。

返事の代わりに、日番谷は片方の眉を上げた。「それで?」とでも言いたそうな顔だ。
「ていうか。風呂上がりに寝酒なんて、オヤジみてぇ」
「ああ?」
少年の外見に似合わない低い声を、日番谷は発した。
「俺にそんな口効いていいと思ってんのか」
「なんでそんな上から目線なんだよ!」
思わず声が高くなり、静まり返った周辺に響き渡る。しまった、と思うよりも早く、駆け寄ってくるいくつかの足音が聞こえた。
やや開けて、襖が遠慮がちに叩かれる。
「……隊長。お休みですか?」

日番谷は無言で、一護を見返した。
銚子を一本開けているとはいえ、わずかな明かりに照らされたその顔は白く、全く酔っているように見えない。
「それで?」相変わらずその顔は、一護にそう言っている。
「すいませんでした! 隊長様にナマイキな口きいて、申し訳ございませんでした」
下唇を突き出してそう言うと、日番谷は彼には似合わず、ニヤリと笑みを浮かべた。
一護は正直なところ、日番谷が笑うのを初めて見た。
子供らしく無邪気な……ところはまるでなく、ある意味涅や更木が笑ったのと同じようなイヤな予感がする。

日番谷は襖の向こうに声をかける。
「何事だ?」
「は。夜分に申し訳ありません。隊舎に侵入した者がいると報告がありまして……」
「そいつが逃げるところはさっき見たぞ」
「は……侵入者が、ですか?」
「ああ」
なんのためらいも恥じらいもなく、サラッと嘘をつく日番谷を、一護は半ば唖然として見た。
「明日も早い。いいから、寝ろ」
「は、しかし……」
襖の向こうの隊士は、言い渋っている。ていうか、と一護は冷や汗を流しながら考える。
霊圧を殺すのが苦手なことは自覚している。何かいることに、見えなくても気づいている可能性は、かなり高い。
対する日番谷は、くいっと杯の酒を口の中に流し込んだ。
「侵入者はもういねぇっていうのに、俺の言葉が信じられねぇのか?」
ハイ信じます、と隊士は打たれたら響くように答えた。一護が一瞬カクンと首を前に倒したくらいの素早さで。

「……お前って、案外暴君なのか?」
「何がだ。お前をかばってやったじゃねぇか」
静寂が戻った後、日番谷は顎を一護に向かって軽くしゃくってみせる。こっちへ来い、という意味らしい。
「あの〜、冬獅郎、君? 帰ってよろしいでしょうか」
「だめだ」
盆の上に残っていた杯をひとつ、一護の方へ転がして寄こす。
「つきあえってことか?」
一護にしてみれば、どうしたって日番谷は口数が少ない。しかし、その妙に目力のある瞳が言葉を補ってあまりあるところは、ルキアに似ている。
「つーか俺、未成年なんだよ」
だから? という顔でまた見られて、あぁぁ、とため息が漏れる。
……まあ、ちょっとくらい、いいか。酒の匂いがばれて、越智サンにぶんなぐられない程度なら。


蛙が、夜のしじまにまた呼びかわし始める。辺りは、静かだ。
誰もが、小さな隊長を気遣い、ここには不用意に近づかないようだ。
誰もいない部屋で、杯をふたつ持っていた日番谷のことを、ふと考える。
「……何だ?」
感情の動きを読まれたか、今度は不機嫌そうな顔で睨みつけられた。
「別に」
「……」
「いや。お前も、案外……」
「案外、何だ」
「いや、別に」
すぐ隣に座った、自分より少し高い体温に、一護は自然と頬に浮かんだ笑みを掻き消した。



Fin.

*結局は、お酒につきあってほしかった。きっとそれだけ。

2011/5/2