キーン、と澄み渡った氷上の空気が、あたしは大好きだった。
手を指の先まで緊張させ、アイスリンクの上に差し伸べる。音楽が始まるまでの刹那、あたしの全身は秒針みたいに固く引き締まる。

 ミュージック・スタート。
 なめらかな音楽の一音一音に、旋律を叩きこんだ身体は勝手に踊りだす。くるくる、くるくる。まるで踊ることしかしらない人形のように。身を任せているうちに、心がすうっと無になっていく。あたしが消える、その一瞬に恍惚が訪れる。
「いいわよ、ジュン!」
 外国人の先生、アンジェリーナの声がする。
 舞う、スピンする、高くジャンプする。
 最後の旋律と共に、氷のカケラが飛び散った。シューズで氷を蹴る。ファンファーレ。
 あたしは、とっておきの笑みを顔じゅうに広げる。いつか大舞台で、観客席いっぱいの人達があたしだけを見つめる場面を思い浮かべて。
 
「さすがだな、神薙(かんなぎ)!」
「潤(じゅん)には勝てないよ〜、その滑り、ありえないから」
 仲間の惜しみない褒め言葉の波を笑顔で潜り抜け、先生の元へと向かう。その満面の笑みを見るだけで分かる。エクセレント、とその青く輝く瞳が言っている。
「だんだん良くなるわね、ジュン。次の大会が楽しみだわ」
「任せてください!」
 この東京郊外の名もなき……空座町っていう名前はあるにはあるけど……無名に近い町の、小さなスケート教室。フィギュアスケーターとして、あたしはいつか大会で優勝する夢を持っていた。いや、夢で終わらせたりなんかしない。
 何を思ったのか、金髪が美しい先生は、あたしを優しい瞳で見つめた。
「その明るさと強さが、あなたの一番の武器よ。大切にしなさいね」
「はい!」
よく意味は分からなかったけど、褒められたということだろう。あたしはぴょこんとお辞儀をする。そして笑顔の先生に送り出され、中学の制服のスカートを揺らせながら、夜道へ足を踏み出した。

 あたしの名前は、神薙潤。
 かっこいい名前だって言われるけど何のことはない。6月、JUNEに生まれたから「ジュン」。梅雨どきだから、潤いとうまく掛けたんだと笑うウチの親の職業は、両方とも漫才師。
 娘の名前にまでお笑いのセンスを持ちこむなんてどうかしてるけど、「○○師」なんて呼ばれる職人だってことは、カッコイイと思ってる。
 人を笑わせてシアワセにできる仕事なんて、最高じゃない?
 あたしは漫才師には興味ないけど、フィギュア、っていう分野で職人になりたい。
 
 耳にはでっかいヘッドフォンをつけて、試合に出る曲目を聞いていた。気づけば足で、軽くステップを踏んでいた。どこかの家の窓からは、カレーの香り。無意識のうちに笑っていた。
 お父さんとお母さんは、今頃一緒に晩御飯を作っている。妹はそろそろ、塾から戻って来てるかな。「一家団欒」なんてダサいっていう人もいるけど、あたしは結構好きだった。
 
 その時、いきなり通りを劈くような悲鳴が響き渡った。
「何?」
 声が聞こえて来たほうを反射的に見やる。でも、町を行く人達は、全然気がついている様子がなく、そのまま歩いてゆく。
 ああ……あたしは、ため息をついた。また、あれか。
 
 いきなり駆けだしたあたしを見て、周りの人たちがぎょっとした顔を向けてくるけど、気にしない。また、誰かが襲われているんだ。「この世のものじゃない」誰かが。
 
**

「助けて! お願い、誰か……」
 角を曲がったところで、向こうから駆けてくる男の子に出会った。泳ぐように両手を前に出して、全身でぜぇぜぇ喘いでいる。コート・マフラー姿のその恰好は、今の6月の季節には全くそぐわない。明らかにおかしかった。それに、足元を見ると、うっすらと透けている。
「こっちへおいで!」
 あたしは、手招きしてその子を呼び寄せた。
 
 いつからか、どうしてなのか分からない。理由なんてないのかもしれない。
 とにかくあたしはある日から、ああいう人たち……もうこの世にいないはずの、幽霊たちが見えるようになったんだ。
 
「全く、もう」
 男の子の後ろから、3メートルはある巨大な化物が迫って来る。人間のように二つ足で立ち、全身は毛むくじゃら。角は1メートル近くあって、牙を剥いている。
「センス、悪すぎ!」
 できの悪い三流映画の悪役みたいだ。あたしはヘッドフォンの音楽のボリュームを上げ、ついでに曲を変える。イキのいいロックが大音量で流れだす。あたしはロックも大好きだ。血が一気に全身をめぐりだすような感じがするから。
「なんだ、女!」
化物が、吠えた。そう、気味が悪いことにこいつら、化物のくせに人の言葉を話すんだ。あたしは無言で、スカートの腰に手をやる。そして、挟みこんだピンを素早く抜き取る。
「そんなモンで『虚』に立ち向かおうってのか?」
ん? ホロウってなんだろう。あたしは心中首をひねるが、今はそれどころじゃない。体勢を低くして、呟く。
「……奔れ。神薙」
すると、ピンは見る見る間に大きくなり、一本の長刀に姿を変えた。それと同時に、両足が光を帯びる。靴が、まるでスケートシューズみたいに変わる。スッ、と前に踏み出すと、本物のように地面の上をスイッ、と足が滑った。
「邪魔するなら、食うぞ!」
「あぁ?」
言っとくけど、あたしは明るいだけが取り柄じゃない。それじゃ、ただの「いい人」になっちゃうじゃない。
「てめぇみたいな棒きれ、食っても旨くなさそうだけどな!」
「誰が棒きれだって……?」
確かに手足ばかり長くて胸はないけど。ないけど!
そう、あたしは超ドSなの♪
「抹殺!」
叫ぶと同時に、道路の上を滑るように走る。風が耳元でヒュウッ、と鳴る。

ミュージック・スタート。
音楽が頭に高く強く響く。
「は?」
いきなり足元に滑り込んできたあたしに、化物は目を剥いた。
「サヨナラ」
あたしは下から「神薙」を斬り上げた。
悲鳴を上げた化物の身体が、砂のように崩れ落ちる。その「砂」は地面に広がると同時に、スウッと溶けた。
それと同時に、周りに暴風が拡がる。何も見えていなかった人達は風をもろにかぶって、悲鳴を上げて逃げ惑う。

「また、つまらないものを斬ってしまったわ……」
今日も、決まった。決まってしまった。あたしは優しく、男の子の前にしゃがみこんで声をかける。
「大丈夫? ぼうや」
「ぎゃあぁああ!」
「って、なんで化物に襲われた時より怯えてんの、あんた!」
首根っこを捕まえようとした、その時。あたしはある気配に気づき、ハッを顔を上げる。
「また、あいつらか……面倒ね」
そして、プルプル震えている男の子に、顔をつきつける。
「おねーさんから、お願いがあるんだけど?」
コクコク、と男の子が何度も頷く。おかしいな、やさしく言ってるはずなんだけど。
「今から、黒い着物来た人達が来るから。その人達について行ったらもう大丈夫だからね。ただ、あたしのことだけは絶対に言っちゃだめだよ。分かった?」
 それだけ言って、すぐに踵を返した。
 ヘッドフォンの音量をいじりながら、刀をまたピンの形に戻して、スカートに留めなおした。背後に、黒い影がふたつ降り立ったのに、気づかないフリをする。
 
 化物たちと前後して現れる黒い着物を着た人たちが「死神」というらしいことは、彼ら彼女らの話を盗み聞いて、なんとなく分かってる。死神って、あの「死神」なの? カマとか担いでて人の命を刈りに来るやつ? と思ったけど、深く考えないことにした。本当にしろ、イカレた人にしろ、関わり合いになりたくない人種だってことは間違いない。ただし、マトモな人間じゃない、ことは分かってる。だって、そいつらの姿も、普通の人には見えていないみたいだから。
「おい、少年! 虚に襲われたのか、大丈夫か!」
女の声にまざって、驚いたような男の声が聞こえた。
「うわ、ルキア! また、倒されてるっぽいぞ。誰だよ一体……」

 ルキア?
 その名前に、あたしは思わず振り向いた。どういう偶然だろう、あたしが次回の大会のために練習している曲の名前が「ルキア」だった。ラテン語で「光」という意味だけど……死神の癖に光だなんて、どーいうセンスなんだか。
 振り返ったついでに、ますます似つかわしくないものを目にした。オレンジ色の髪。どうでもいいけど、今日のあたしのラッキーカラー。死神にもこんな目出たい色の髪をした奴がいるのか、と思った時。
 化物がいたあたりを見下ろしていたその男が、不意に視線を上げた。あたしとそいつの視線が、20メートルほどの距離でバッチリと会う。胡散臭げに細められていた瞳が、急に見開かれた。
 ―― しまった!
気づかれた。今のは完全に気づかれた。見えちゃいけないはずなのに。あたしは慌ててその場から駆けだした。
「おい! 待てよ!」
待つもんか。元々足には自信があったから、すぐに住宅街を抜けて商店街の中に駆けこむ。しばらくして人混みの中で振り返ったけど、もう黒い着物はどこにもなかった。



* last update:2009/5/7