「……隊長。日番谷隊長」
 穏やかなその声が、俺の意識に届くまでしばらく時間がかかった。ハッと気づいて顔を上げると、書類を手にした朽木が、俺の隊首席のまん前に突っ立ち、俺を見下ろしていた。
「わ、悪い。アンタが直接ここに来るのは珍しいな、朽木隊長」
「兄(けい)が人の来訪にも気づかぬのは、更に珍しい」
 嫌味のつもりではないらしく、筆を持ったまま見上げている俺を見返す無表情には、どこか興味深いものを見るような感情も絡んでいるように見える。

「いつになく松本が大人しく仕事してるんでな。近年稀に見るくらい集中できたんだよ」
 俺は、ソファの背もたれから後頭部だけのぞかせている松本を顎で差すと、ぐるんと肩を回した。
「いつもは外でサボってるか、中で騒いでるかどっちかなんだコイツは」
 朽木の副官が阿散井だと聞いた時は、貴族の部下には似合わない野良犬を掴んだものだと思ったが、教養はないが仕事ぶりは真面目らしい。意外にお買い得を見抜く目があると周囲の評判になっていたものだった。
 ため息をついた俺に持参した書類を手渡しながら、朽木は口元にあるかなしかの笑みを浮かべた。
「放っておけばよい」
「え?」
「居ても居なくても仕事をせぬのだろう。だったら兄が片づけたほうが早いのではないか」
「ンなこと……」
朽木の視線が、隊首机の脇に積み上げられた処理済みの書類の山に向けられ、俺は返す言葉を失った。確かに、それもそうだ。逃げる松本を追い掛けたり、眠る松本を起こしたりしているくらいなら、実も蓋もない言い方だが一人でやった方が早い。

 俺の心の声に気づいてかどうか、朽木は涼しい顔で言った。
「それか、兄には有能な三席がいる。すげ替えればよい話だ」
 流石に俺はそれを聞いて眉を顰める。
「……待て。本人がいるんだぞ」
「どこに」
 何を言ってんだコイツは。俺は朽木の澄ました表情と、松本の後頭部を見比べる。

 ふと、気づいた。
 松本の奴、なんで全く動いてねぇんだ? 

 嫌な予感を膨らませつつ、ソファーに歩み寄る。肩に触れたとたんに、松本の体がぐらりと揺れた。
「お、おい!」
 慌てて抱え起こす。ぐったりと力が入っていない松本の胸元から、紙の端が覗いているのに気づく。
「……なんだこれ」
 細長く短冊状に切られた紙の一分のようだ。「これが義」という四文字だけが見えている。不審に思って引き出してみた。
「『これが義骸だと気づかなかったら、あたしへの愛が足りないので反省してください』」
「松本ォ!」
 慌てて抱え起こしたりした自分が苛立たしく、ギリ、と歯を食いしばる。
「ああ、日番谷隊長」
 隊首室を飛び出そうとした時、朽木が背後から声をかけてきた。
「ルキアに会ったら、早々に切り上げて帰還せよ、と指示を頼む」
 なんで俺が。朽木ルキアは今何をしているんだ。大体、一体どこからどこに帰還するんだ。いつもならそれくらいの突っ込みは入れるが、いかんせんそんな余裕がなかった。

 すぐに、朽木が言わんとしたことは理解することになるのだが。


**

「おい、涅!」
 俺は、周りのぎょっとした視線(当然だ)をものともせず、松本の義骸を肩に引っ担いで十二番隊に駆けこんだ。
「なんだネ。騒がしいネ」
 隊首机から顔を上げた涅の前に、バーン、と義骸を投げ出す。
「なんだってこんなモン勝手に貸し出すんだ、てめぇは! ちゃんと管理しろ!」
 返事がないのでその顔を見やると、白眼向いてやがる。バカにしてんのか、ムカつく野郎だ。
「そのまま返すがネ。なんだってこんなモノを二体も勝手に借りてゆくのかネ、君たち十番隊は」
「松本と俺を同類項でくくるな」
非常に不本意だ。大体こいつと話したところで、建設的な会話が成り立つはずもない。俺は踵を返しかけて、ハタと振り返った。
「待て。二体、っつったな」
 一体は俺の目をごまかすために使ったということは、もう一体は今どこに。となると、考えるまでも及ばない。やっぱり踵を返した俺に、涅が呼びかけた。
「どこへ行くんだネ。まだ、話は終わってないヨ」
 こっちが出向いて来たのに、話が終わっていないなどとあっちがいうのは変だと思う。
「現世。あいつ、今日はシメる」
 絶対に今頃、現世で買い物三昧なのに違いない。見つけたら、$&#*@な目に合わせてやる。
「行くならついでに、この用を頼むヨ」
 涅が放った紙は宙を滑り、無言の俺の足元に落ちた。
「……拾いたまえヨ」
「断る。てめーの仕事くらいてめーでやれ」
「分かってないネ。義骸を貸した代金の代わりにしてやろうって言うんだから、ありがたく受けたまえヨ」
「松本に言え、そんなこと」
 その場を蹴って出てきて、ハタと困った。松本のことだから、小憎らしいことに完全に霊圧を消して行動しているの違いない。そうなると、あいつがいる場所を推測するしかねぇが、女物の服を売っている店を片っ端から見て回るなんて拷問以外の何物でもない。
「……しょうがねぇな。アイツらに聞いてみるか……」
 そう呟いて、俺は空座町へと向かった。




* last update:2009/5/7