隊首室に入る前の冥(くら)い気配を、扉を開けた時も引きずっていたのだろう。
日番谷が室内に足を踏み入れると同時に、その場にいた隊長全員が振り返った。
砕蜂が険しい表情で、日番谷を睨みつける。
「ここは隊首会の場だ。殺気を抑えることもできぬなら……」
気性の激しいこの女のことだ、出て行け、とでも言いたかったのかもしれない。
しかし砕蜂の最後の言葉は、
「やぁ、日番谷隊長!」
唐突に割り込んできた、男の大声で遮られた。
こんなタイミングで、こんなに能天気な声をかけてくる隊長は一人しかいない。

声の方に目をやれば、まさに予想した通りの人物が、予想した通りの笑顔で近寄ってくるのが視界に入った。
「……浮竹隊長」
なんだか一気に緊張が緩み、日番谷は早くもうんざりして見慣れた同僚を見上げる。
「菓子はいらねっスよ」
まず、牽制してみる。この男、浮竹十四郎。日番谷を見れば、例外なく菓子を押しつけて来る。
虚との戦闘中だろうが部下を説教中だろうがお構いなしなのだから、空気を読まないにもほどがある。
子供扱いが一番頭に来ると自認している日番谷にとっては、天敵に近い。

しかし日番谷は、うっかり忘れていた。
「はっはっは、そうかそうか!」
浮竹は、懐から取り出した饅頭を、日番谷の前に差しだした。人の話など聞かない男なのだ。
押しつけてくるのが悪意ならにべもなく跳ね返すところだが、善意だから扱いに困る。

日番谷は一歩退いて、浮竹を見上げた。身長差が50センチもあるのだ、あまり近すぎると首が痛い。
「人の話を聞け! 大体、なんでいつも菓子を持ってんだ」
「なんでって、君にあげるために決まってるじゃないか!」
「甘いモンは苦手だから、いらねえと何度も言ってんだろ」
浮竹は、何を言っているんだという顔をした。
「子供は菓子が好きなものじゃないか!」
子供。一瞬、腹が立つのを通り越して驚いた。踏んではいけない地雷をわざわざ全て踏む男だ。
「……」
「ははは、どうしたんだい。これはあの『甘露』の名物だよ?」
「……」
沈黙の後、日番谷は憮然とした表情のまま、浮竹から饅頭を押しつけられた。
いくら言い合ったところで、そもそも相手が聞いていないのだから無駄だ。
……どうしても、調子が狂う。そんな浮竹が、昔からどうも苦手だった。
「……浮竹隊長。あんた、なんで俺にそう構うんだ?」
「日番谷隊長のことが好きだからに決まってるだろう!」
「……。だから、なんで」
「そうだな、理由はない! あえて言えば、名前の発音が似てるからな!」
じゅうしろうと、とうしろう。似てるだろう! そう胸を張る浮竹の前で、日番谷は脱力した。
「あ、そう」
まったくもって、気が抜ける男だ。


浮竹の巨躯が隣にずれ、ようやく部屋の全貌が見渡せた。
珍しく、総隊長と日番谷以外は全員がすでに集合している。いつも欠席の更木さえも、退屈そうな顔をしながらもやってきていた。
その隣では涅マユリが、周りに全く頓着することなく、手にした小さなモニターに指を走らせている。技術開発局で目新しい発見があったのか。
狛村と白哉は既に、定位置で直立不動の体勢だ。卯ノ花は、と見ると、隊首室の窓から庭を眺めていた。
五十畳ほどの広いスペースの中で9人の客人は本来なら閑散としているのだが、一人ひとりが強烈な存在感を放っているため狭苦しくさえ見えた。

女物の派手な着物を隊首羽織の上にまとった男が、編笠の鍔を上げて日番谷を見やる。
そして、日番谷の仏頂面と手に持った饅頭を見比べて、ぷっと吹き出した。
「餌づけされてるねぇ、相変わらず」
「うるせぇ」
こいつらといると、年上には敬意を払えという祖母の教えをすぐ忘れそうになる。
日番谷は忌々しい気持ちで饅頭を見やる。生のまま袂に入れるのは嫌だし、隊首会の間中、手に持っているのも妙な具合だ。
消去法的に、口の中に饅頭を放り込む。
「もう大丈夫なのかい? 体調は」
「いつの話っスか。京楽隊長こそ」
「もう全快かい、若いってのはいいねぇ。僕らはホラ、もう足腰が痛いお年頃だから。参るよ」
大げさに肩をすくめてみせる。

女の着物に、簪を挿したキザな男。
上流貴族の出身で、苦労を知らない、女にも金にも酒にもだらしないくせに隊長を務めて長い。
努力して死神になった者たちにとっては、もっとも受け入れがたいタイプの人物だろう。
ただ、強い。強いと言えば浮竹も。
そして「決して負けられぬ」という使命を持つ死神にとって、力は全てを凌駕する。

浮竹は、歩み寄って来る京楽を見返して口をとがらせた。
「餌づけなんかじゃないぞ!」
「冗談だよ、ジョーダン」
冗談しか言わない男と、冗談がまるで通じない男。
こんなでもこの二人は馬が合うらしく、いつも一緒にいる。
「呑気に話してる場合かよ」
日番谷はいい加減呆れ、二人に睨みつける。年を取ったから分別を弁えた大人になるとは限らない、といういい例だ。
「ま、心の準備はしたほうがいいねぇ」
日番谷の視線を受け流し、京楽が飄々と言った。
「心温まる話じゃないのは、間違いないからねぇ。ま、そんな話だったら、今ならカネを払ってでも聞きたいけどね」
京楽がそう言い終わったのとほぼ同時だった。全体の空気が、一瞬で変わった。
ぬるま湯の中に氷を落としたかのような異質な気配に、隊長たちは全員背筋を伸ばす。
そして、扉を開けて現れた総隊長を迎えた。



総隊長に会うのは、見舞いに来てくれた時以来で一週間ぶりだった。
あの時、一瞬見せた弱弱しさが嘘のように、巨大な山のような存在感で周囲を圧している。
山本元柳斎重国。総隊長の座に就いてから、優に二千年以上の時が経っているという。
もちろん最古参で、総隊長以上の寿命を保っている者も、瀞霊廷に他にいないと聞く。
顔こそ老人で頭は禿げあがり、長く伸ばした髭は真っ白になっている。
しかし、死覇装の上からでもはっきり分かるほど全身は鍛え上げられ、隊長たちを見据える眼光は狼のように鋭い。
袖から覗く腕には古傷が縦横無尽に刻まれ、頭には深い十字傷の跡がはっきりと分かる。
果てしない時間、護廷の頂点に立ち、死神を率いてきた男にはふさわしい容貌だった。

総隊長は杖で床をタン、と衝くと、隊長たちの顔をひとりひとり見据えた。
視線が日番谷の前で止まった時、その瞳のもつ暗い気配に、ぞくりとする。
今日は何か重大なことが言い渡されるに違いない、と予感するには十分な目をしていた。日番谷は視線を逸らさず、まっすぐに総隊長を見返した。
「……全員で十人か」
声を低く落とし、総隊長は呟くように言った。。
「本日緊急に集まってもろうたのは、他でもない。藍染惣右介の反乱の目的が分かった」
京楽が、ふぅ、とため息をつく。同時に、くぁ、と更木が大口を開けて欠伸をする。それに構わず、総隊長は続けた。
「傲慢な……実に無謀な計画じゃ。あの『王廷』に……『霊王』に挑もうというのだから」
その言葉が連れて来たのは、今までとは異質な沈黙だった。
皆一瞬息を飲み……そして、それとなく互いの顔をちらりと見た。同僚たちが、その言葉をどう受け止めたのか確認するように。

初めに口を開いたのは、朴訥な表情を崩さなかった狛村だった。
「霊王に挑むということは、つまり霊王を……?」
「滅(け)す。奴の狙いはそれじゃろう。霊王の座を乗っ取れば、文字通り天に立つこととなる。
藍染が瀞霊廷にいる際に目を通した書類は全て洗った。過去百年間、奴は王廷と霊王について調べ尽くしておる」
「しかし、先生。霊王を滅す、などということが可能なのですか?」
さすがの浮竹も、さっきまでの言動が嘘のように深刻な表情をしている。

霊王を殺せるのか。それは、隊長たち全員の胸をよぎった思いだっただろう。
「そもそも、王廷とは言うがどこにあんだよ? 天国みてぇなもんか」
まるで人間のような発言と共に上を見上げた更木に、砕蜂が露骨に侮蔑の視線を送った。
「馬鹿か貴様は、それでも隊長か。王廷は瀞霊廷や現世とは異なる空間に隔離され、破られたことのない強固な結界で護られている。何人たりとも侵入はできん」
「なんだァ? まるで見て来たようなこと言うじゃねぇか」
更木に言い返され、砕蜂がぐっと詰まる。

この世界の王。「霊王」はおろか、王廷を護るという結界を見た者すら、瀞霊廷にはいないと言う。
会ったことのない、記述の中だけの「世界の王」を、瀞霊廷の者たちはさまざまに想像してきた。
ある説では、人の姿であるという。またある説では、太陽のような自然現象であるという。
極端なものでは、誰かが人為的に造った「システム」を王と呼ぶのだという説さえあった。
いくら瀞霊廷にある書物を調べようとも、その謎について記されたものはないはずだ。藍染は、霊王の正体を発見したのだろうか?

「目的がそうだとして、手段は分かっているんですか?」
日番谷は、心に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「霊王を殺すのが藍染の目的だとして、そこには少なくとも壁が二つあるでしょう。
ひとつは、王廷を護る結界をどうやって壊すのか。ふたつは、壊せたとして、どうやって霊王を殺すのか。
王廷の組織など知りませんが、霊王を警備する『王属特務』くらいは知っている。その実力が、俺たちを大きく凌ぐことも」
藍染と最後に向き合った時の、狂気に満ちた目を思い出す。普段あれほど優しげで理知的な表情の男が、一瞬でここまで変われるのだと慄然とした。
ただ少なくともあの眼は、憎しみにしろ侮蔑にしろ冷笑にしろ、「自分たち死神に向けられていた」と思う。
死神を全く敵として眼中に入れず、霊王だけを狙うとは、日番谷には思えなかった。

総隊長は、このような質問が来ることは初めから予想していたのだろう。ほう、とため息のような息を漏らした。
「ひとつめの質問には、今答えよう。『王廷を護る結界』の正体は代々、総隊長にのみ口伝で伝えられてきたのじゃ。
総隊長以外には秘してきた理由はただ一つ、我ら死神にとってはあまりにも酷じゃからの。王廷にとって、結界の正体とは我ら死神なのだから」
「我らが……結界の正体?」
砕蜂が眉をひそめる。涅が一瞬考え、眼を剥いた。
「なるほど、灯台もと暗しといったところだネ。確かに王廷と、他の世界の境界には瀞霊廷しかない」
「左様。瀞霊廷に存在する全ての霊子こそが、結界の正体なのじゃ」
誰かが息を飲む。その時にはその場の全員が、総隊長が言わんとしていることを理解していた。
「そして言うまでもなく、我らの体は霊子で形づくられておる。故に、我ら自身が結界と言えるのじゃ。
王廷に侵入しようとする者は、王廷の御前に存在するこの瀞霊廷の死神を全滅させるべし。さすれば王廷への道が開かれる――これが『結界の正体』じゃよ」
「……なるほど。僕らが王廷の結界が破られたところを見たことがないのは、当たり前なわけだ。
侵入したければ実力を示せっていうことかい。力試しに使われているようで、愉快じゃあないねぇ」
京楽が顔を引きつらせて、苦笑いした。
「……藍染は結局、俺ら死神を狙ってくる、そういうことか」
確かに、藍染が自分たちに向けたあの狂気を考えれば、日番谷にもそのほうが腹に落ちるのだ。
更木が堪え切れないように笑いだす。
「ハッ! 藍染の野郎、死神を皆殺しにしようってのか。面白ぇ」
沈黙を守っていた白哉が、かずかに息を漏らす。それを捕えた更木は、ちらりと彼を見やった。
「随分静かじゃねぇか。まさかてめぇ、怖気づいてるんじゃねぇだろうな」
「狙いがどこにあろうが、我々の成すことは変わらぬ」
挑発に乗ることなく、白哉は淡々と返した。その表情は、初めから全く変わっていない。
「それに、周囲の者たちを護る方がやりやすかろうと思いますが」
狛村は、むしろさばさばした口調だ。
確かに、見たこともない王廷を護るよりは、自分や周りが殺されなければ良いほうがシンプルで、戦略も立てやすいように日番谷も思う。

今まで黙っていた卯ノ花が、不意に口を開いた。
「藍染が最後に見せたあの力――それを思えば、そのような不埒な企みを実行しようとするのはあり得ないことではないでしょう。
ただし、彼は知っているのでしょうか? 王廷の者たちの凄まじいまでの強さを。私とて、又聞きでしか聞いたことはありませんが、それが事実なら……
藍染が仮に死神を皆殺しにする実力を持っていたとしても、霊王を殺すのは別問題です」
「……四楓院夜一から聞いたか」
「はい」
「四楓院家は、王廷との交流があった唯一の貴族じゃからの」
総隊長は苦く笑った。今や、その四楓院夜一でさえ瀞霊廷から追放された身だ。
「その鍵は、浦原喜助が握っておる。正確には、あ奴が発明した『崩玉』がの。
ただしあの男は今、瀞霊廷に出入りできぬ身じゃ。何度も雀部から通達をやったが、のらりくらりと崩玉の詳細を明かそうとはせぬ。
もっとも、何度かの文書のやり取りで、崩玉の概要は見えてきておるが。一度直接、真意を正す必要があろうの」
「……崩玉」
白哉が、おそらく無意識にだろう、口の中で呟く。
朽木ルキアの中に隠され、そのために彼女は藍染に陥れられた。兄として、並みならぬ思いがあるはずだ。
「崩玉の力とは何なのですか」
砕蜂が性急に尋ねる。しかし総隊長は、ゆるく首を振っただけだった。
「まだ、調査は終わっておらぬ。結論は浦原に直接確かめた後に下せばよい」
砕蜂が、納得がいかない表情ながら黙った。日番谷は、嫌な予感が拡がるのを感じている。
総隊長以外に秘されてきた王廷の秘密をあっさりと明かした総隊長が、崩玉の正体には口を閉ざす理由は何なのか?
単純に、確度が低い段階では公開しない、というだけの話ではないように思えた。推測で話せないほど、危険だということか?

総隊長は、もう一度杖の先で床を衝き、全員の注意を集めた。
「藍染が向かった虚圏には、最強の破面、ヴァストローデが何体もおる。隊長たりとも、一対一で戦い勝利することは至難じゃ」
炯炯(けいけい)と底光りのする、総隊長の眼光が俺たちを射た。
「王廷に、藍染率いる破面を一人たりとも通してはならぬ。ここ瀞霊廷で止めねばならぬのだ。そのために、おぬしら十人には、死んでもらうぞ」



* last update:2012/6/21