「お帰りなさいませ、日番谷隊長!」
「お帰りなさいませ!」
十番隊の巨大な門前で、死覇装に襷掛けの隊士たちが一斉に頭を下げた。
「ご苦労。異常ないか」
「はい、ありません!」
日番谷は軽く頷くと、十番隊の敷地内に足を踏み入れた。

隊舎の入口の横には、第三席の久徳がつくりあげた、和洋折衷の庭が広がっている。
広さは三十畳くらい、置かれた岩といい灯篭といい和風だが、緑が多く植えられ、さながら小さな森のようだ。
隊士たちの子供が、たまにはしゃいで走り回っていたりする。
庭の真ん中には大きな池がしつらえられ、中で川魚が何匹も泳いでいた。

門からほど近い修練場は、煌々と明かりがついていた。
隊士たちの裂帛の気合いに混じり、激しく木刀で打ちあう音が聞こえてくる。
通りすがりに、日番谷はひょい、と中を覗き込んだ。百人近い隊士たちが集まり、各々練習試合の体だ。
「これは隊長、お帰りなさいませ。今日の隊首会は早かったのですね」
鍛錬上の入口で腕を組み、隊士たちを見守っていたのは、久徳だった。
300人を越える荒くれ者たちを束ねているとは思えない、まるで執事のような柔和で礼儀正しい雰囲気をもつ男だ。
「ああ。明日の朝、全員をこの修練場に集めてくれ。全員に話がある」
「は」
唐突な指示にも驚いた素振りも見せない。淡々と頷き、白髪が多く混ざる頭を下げた。
「日番谷隊長! お疲れ様です」
「ああ」
目ざとく日番谷を見つけた隊士たちが試合を中断し頭を下げる。隊士たちが手に持った木刀を、日番谷は一瞥した。
「斬魂刀でやれ」
「え……」
「明日から全隊士に常時帯刀令を出す。斬魂刀をいつも肌身離すな」
「は、はい!」
短いやり取りで、隊士たちの顔に緊張感が走る。
日番谷が隊長になってから、ただの一度も出したことがない命令だった。


修練場を後にし、渡り廊下からいつも通りの風景を見まわす。
不意に、平和な夜景に、火の海が重なった。
破面たちが瀞霊廷に攻め込んでくれば、それはただの想像ではなくなる。
―― 護りきれるのか……?
じわりと浮かんできた弱気な考えを、振り切る。
間違っても、明日の朝隊士たちの前で、隊長たる自分が動揺を見せてはならないのだ。

ため息をついた時だった。
「気持ち悪いです、隊長」
聞き慣れた声が聞こえた。

振り返ると、庭園を横切って歩み寄って来る乱菊と目が合った。
「お帰りなさい」でも「お疲れ様です」でもなく、いきなり気持ち悪いとはどういう言い草か。
日番谷の心の声を察したのか、乱菊は口をとがらせた。
「闇の中でたそがれてたじゃないですか。メランコリーな感じで」
「うるせぇ」
メランコリーの意味が分からなかったが、絶対にどうでもいい意味だ。
「ンなこと言うなら、今日の奢りはなしだ」
乱菊が渡り廊下の傍の縁石に上がると、廊下の縁に立った日番谷とほぼ目線が同じになる。
「そんな心にもない事いわないでくださいよー。ていうか、ひとつ問題が」
乱菊は、指で奥の方にある別の修練場を差した。
「ついさっき、雛森が来たんですよ。いつもの手合わせじゃないですか」
「……しょうがねぇな」
日番谷は軽く息をついた。
雛森が、十番隊……というより日番谷に手合わせを頼むようになったのは、藍染に負わされた傷が復調した、ごく最近のことだ。
必ず、日番谷専用の修練場に通すようにしていた。その理由は、今の雛森の状態を他の隊士に知られる訳にはいかない、その一点に尽きる。

わずかに眉をひそめたのを気づかれたのだろうか、乱菊は声をひそめた。
「総隊長に言われたんじゃないですか? 雛森とは距離を開けろって。あたしが雛森の相手、しましょうか?」
日番谷は驚いて乱菊の顔を見上げた。彼女には、総隊長からそう忠告を受けたことは話していない。
「ただの想像ですよ。隊長は顔に出すぎです」
「……。お前の勘が良すぎるんだよ」
日番谷を見返す乱菊の表情は、いつもの陽気さに似合わず暗い。というより、心配そうだった。
「まさかお前まで、総隊長と同じこと言う気じゃねぇだろうな? 今放っておいたら、雛森はどうなる」
やや言い訳じみた口調になっているのは自覚しながら、言い返す。
「雛森がどれほど不安定な状態か、知ってるだろ」
「もちろん、知ってます。でも」
日番谷と本気で議論になった時、乱菊が食いついてくることは滅多にない。
しかし今は、唇を引き結んでじっと見返して来た。
「でも、何だ」
「あたしは、隊長のことだって心配です」
その言葉の後半は、耳のすぐ近くで聞こえた。
不意に乱菊が、日番谷に正面からもたれかかるように、抱きついてきたからだ。
いつもなら、乱菊の胸に日番谷が埋もれる形になって突き飛ばすところだが、今は同じ目の高さである。
乱菊の柔らかな金髪が頬に触れ、日番谷は柄にもなく狼狽した。

「……何だよ?」
乱菊の顎が日番谷の肩に乗せられていて、その表情もうかがえない。
無理やり顔をねじ曲げると、乱菊の鋭さを増した顎の輪郭が見えた。
いつの間にこんなに痩せたんだ、とその鋭角に視線を奪われる。
「隊長が、雛森を大切に思っていることは知っています。でもその思いの深さが、あたしには心配なんです」
ようやく口を開いた乱菊の声がいつになく弱気で、日番谷は何も言わず続きを待った。
「このままじゃ隊長は、いつか必ず……」
「俺は、お前を置いて行ったりはしねぇよ」
一瞬で、乱菊の体が強張るのが分かった。彼女の体には、幼馴染を失った痛みがまだ深く、刻み込まれている。
数秒あけて、ほぅ、と力が抜ける。乱菊は日番谷から体を離した。
「こういう時に、女が本当に言ってほしい一言を言える男は、どんなに無愛想でもモテますよ」
「……どうでもいいんだよ、そんなことは」
優しいとかモテるとか、こんな非常事態に何の役に立つというのだろう。
日番谷がうんざりした顔を向けると、乱菊はいくぶんいつもの調子で、ふふっと笑い、日番谷に背を向けた。

修練場に向かって歩いて行く見慣れた背中を追いながら、ふと思う。
「このままじゃ隊長は、いつか必ず」。乱菊は本当はそのあとに、何と続けるつもりだったのだろう。


***


「えぇい!」
木刀が、激しい音を立てて交差する。
雛森はふわりと中空を舞い、日番谷の背後の地面に着地した。
お団子にまとめた後ろ髪から、一筋ぱらりとこぼれた髪を耳にはさみこむ。
無骨な木刀よりも、編み針や本を持っている方がよっぽど似合う、いつ見ても子供のような顔だ。

日番谷を見返す雛森は、息が上がっている。
「どうした、もう終わりか?」
振り返って木刀を肩に担ぎ、雛森を見やる。
その雛森の向こうには、修練場の壁に腕を組んでもたれかかる、乱菊の姿が見えた。

雛森は、キュッとまなじりを上げる。
「まだまだ! ……破道の三十三、蒼火墜!」
凛とした声が響いた。体の前にかざした両掌から、青い炎が吐きだされる瞬間。
日番谷は一足飛びで雛森の懐に飛び込んだ。

「きゃ……」
至近距離で、雛森の黒い瞳と視線がぶつかる。とっさに飛び退こうとした雛森を、さらに追う。
「氷波!」
最小限にまで詠唱を略した鬼道を放つ。と同時に、雛森の両手から迸った炎が、一気に音を立てて凍りだす。
氷は炎をあっという間に凍らせ、雛森の腕を駆け上った。
「きょ……鏡門!」
雛森は飛び下がりながら結界を張り、逃れた。

「つめた……」
雛森が呟いて、腕まで走った氷を払い落とす。
「ちょっとぉ、雛森――?」
乱菊の気が抜けた大声が修練場に響いた。
「そろそろ寒いんだけど!」


日番谷の霊圧は氷雪系、雛森は炎熱系。
だが、修練場内は、今や氷原と化していた。
確かに日番谷は隊長で、雛森は副隊長、という近くて遠い階級の差はあるが、今回はそれが問題ではない。

「やっぱり、日番谷くんはすごいね。霊圧も強いけど、戦い方に迷いがない」
そう微笑みながらも、雛森の顔色は悪い。
たった一ヶ月前、雛森が藍染に瀕死の重傷を負わされたことを思い出さないわけにはいかなかった。
「病み上がりなんだから、この辺にしとけ」
木刀を引くと、雛森が慌てたように足を前に踏み出した。
「ま、まだ大丈夫!」
「焦るなって」
そう言うと、雛森は唇を噛んだ。


本当は、焦っても無理はないと日番谷も思う。
雛森の斬魂刀「飛梅」は、雛森が重傷を負って倒れた時、浅打へと姿を変えた。
普通、斬魂刀が浅打に戻るのは、持ち主の死神が命を落とした時だけのはずだ。
しかし、昏睡から目覚めた雛森がいくら呼びかけても、飛梅は一切反応しなくなっていた。

自分の斬魂刀を持つことは、死神の第一条件だ。
このままでは、休職している副隊長職への復帰はおろか、死神への復帰も不可能だった。
わざわざ、誰も来ない隊長専用の修練場に彼女を通すしかないのも、それを明るみにしないためだった。

日番谷が見る限り、霊圧の容量が下がっているわけではない。
ただ、こうやって手合わせをしてみても、鬼道のレベルから身のこなしまで、格段に弱くなっている。
飛梅が答えない理由。力が弱くなった理由。それは、雛森だけが知らない。

「……わからないの」
雛森は、脇に下ろした木刀を見つめながら呟いた。
「どうやって飛梅を呼び出してたのか。どうやって戦ってたのか。もう、思い出せないの」
長年追いかけ続けた藍染に裏切られた今、雛森は無意識のうちに戦いを拒んでいるとしか思えなかった。
「……無理すんじゃねぇよ」
本心を言えば、雛森に力を取り戻してほしくはなかった。
力を取り戻して再び戦場に立つということは、藍染と再会することでもあるからだ。

空気が重く沈んだとき、雛森の背後から、乱菊がそっと近づいてくるのが見えた。
あっ、と思った時には、雛森の死覇装の襟から、背中に氷のかけらを滑り落していた。

一拍あけて、雛森が飛び上がる。
「ひゃぁうっ !冷た! 乱菊さん、何……」
「もうその辺にしなさいよね。そんな時は、あがいたって無駄よ、うまいモン食って寝るしかない! 隊長が奢ってくれるって♪」
「二人も奢るいわれはねーが、俺もいい加減、腹減った」
そう言った時、ふと気配を感じて視線をそちらに向けた。


「誰だ。……雀部か?」
「は」
日番谷の眼前に、一番隊副隊長の雀部が、片膝をついた体勢で現れた。
「日番谷隊長。伝令に参りました」
「雀部……副隊長?」
雛森が、目を丸くする。普段の伝達なら地獄蝶を使うか、正式なものでも伝令を走らせる。
副隊長自らが伝えにくるなど、滅多にないことだった。
「何だ」
「総隊長から勅令です。出立は明日の午後。一刻の猶予もないと」
「承知したと総隊長にお伝えしてくれ」
「誰を連れて行かれますか? 総隊長権限で誰でも指名可能です。手配はこちらで致します」
「勢いがいい奴が欲しい。斑目と綾瀬川。後は現世に近い阿散井と朽木ルキアだな。松本も当然つれていく」
「かしこまりました」
来た時と同じ俊敏な動作で、雀部がその場から消えた。

「……出立?」
乱菊と雛森が同時に繰り返して、日番谷を見た。
「現世に破面が出没してるらしい。いわば、先遣隊だ。指揮は俺が執ることになった」
「隊長って、ほんとこういう場面の出番が多いですよね」
「貧乏籤だ」
「隊長が一番、どんな場面でも対応できるからですよ。信頼されてるってことです」
ため息交じりに言うと、そんな言葉を返された。
というか、あれだけ年長者がそろっていて自分が一番適任というなら、それはそれでどうなんだと思うが。
「人ごとじゃねぇぞ、松本。お前も来るんだ」
「もちろんです。お色気担当として」
「いるか! そんなモン」
正直、乱菊がもしも、ためらったなら置いて行くつもりではいた。
あちらにいる市丸の存在を、気にするなと言っても無理な話だろう。

乱菊は、そんな俺をちらりと見る。おもむろに口角を上げた。
「なーに、考えてるんですか、隊長」
「別に。言っとくが、足引っ張んなよ」
「もちろんです。破面の裏に藍染がいることは分かってますから」

「……藍染隊長?」

ぽつんと、雛森のつぶやきがその場に落ちる。
はっ、とふたりが振り返ると、思い詰めた目をした雛森と目があった。
「何か、わかったの? 居場所とか」
「……いや」
日番谷は首を振る。場所をつきとめていたとしても、同じ反応をしただろう。
「藍染の居場所についての情報はねぇよ」
「日番谷君、言ったでしょ? 藍染『隊長』って呼ばなきゃ駄目よ」
日番谷は思わず、雛森の顔をまじまじと見返した。
雛森は、日番谷を叱るような顔をしている。その表情があまりに普通で、見慣れた顔のはずなのに、一瞬ぞっとした。

「……雛森。自分がどんな目にあったか、覚えてないとか言いだすんじゃないでしょうね」
言葉を失った日番谷の前に、乱菊が出た。きつい目で、雛森を睨みつける。雛森は視線を伏せた。
「……分かっています、もちろん。でも、まだ裏切ったとは限らないでしょう? 誰かに騙されているだけかもしれないでしょ」
「……ギンに騙されたっていうつもり?」
乱菊の言葉が鋭くなる。
「あのね。ギンは瀞霊廷を裏切ったでしょうよ。間違いなく、自分の意思で。でも、それは藍染も同じはずよ」
「藍染隊長は……!」
「よせ、お前ら!」
もう聞いていられなかった。二人とも、身体を固くしてびくりと日番谷の方を見る。
「……この話はもう終わりだ。メシ食いに行くぞ」
くるりと二人に背を向ける。そうしないと、どんな顔で二人を見てしまうか分からなかった。

「ねぇ、日番谷君。――藍染隊長を、殺すの?」
背中に投げつけられた、雛森の問い。思い詰めた視線を感じる。日番谷はつかの間、唇を噛んだ。
「藍染だけは自分が殺す」そう総隊長に告げた時の生々しい感覚が蘇る。
「……死神として、ソウル・ソサエティを護る。それが俺の役割だ」
喉もとまででかかった言葉は、別の言葉に刷りかえられた。
「うん、そうだ……ね」
ちらりと振り返ると、雛森の視線は、既に日番谷に向けられていなかった。修練場の隅の、闇がわだかまっている方角を見ていた。

「行くわよ」
乱菊が、そんな雛森の肩をばん、と叩いた。
「……すみません」
日番谷の脇を通り過ぎざまに、耳元でささやかれた言葉。
黙って、首を振ることしかできなかった。
 

***



翌日。日番谷は氷輪丸を背負い、一番隊の長い廊下を歩いていた。背後には、乱菊がついている。
流魂街に戻って、祖母と澪の顔を見ていこうかと思ったが、結局やめておいた。
勘が鋭い二人のことだ、余計な心配をさせないとも限らない。
十番隊の隊士たちには今朝、藍染の裏切りと来るべき破面の襲来について、独断で全てを話した。
「必ず生き残れ」。そう告げた日番谷の言葉に、頷いた各々の精悍な表情が、部下ながらまぶしかった。


指定された一番隊の客間には、すでに他のメンバーが勢ぞろいしていた。
十一番隊の綾瀬川弓親と斑目一角。六番隊の阿散井恋次、十三番隊の朽木ルキア。
日番谷が足を踏み入れると同時に、全員一礼する。
部屋の奥には、現世への扉……穿界門がすでに出現していた。

ちらりと、周囲に意識を走らせる。
―― もう、結界を強化に当たってるか……
京楽の八番隊、浮竹の十三番隊。総勢500人ちかい死神達が、均等に瀞霊廷の周囲に配置されているのが分る。
空気の粒子が、ぐっと圧縮されるような気配を感じる。結界が、その厚みを徐々に増しているのだ。
五百人が張る結界である。仮に破面が襲ってきたところで、個体単位ではどうにもなるまい。

「……来たな、日番谷隊長」
部屋の窓際に、総隊長の姿を見つけ、日番谷は頭を下げた。
現世への出立に、総隊長が立ち会うなど前代未聞である。
「これは、初動部隊じゃ。破面の実力がいかほどのものか、探るのが今回の目的。深入りして命を落すでないぞ」
「……分かっています」

その時、唐突にの脳裏に浮かんだのは、割烹着に身をつつんだ、祖母の小さな背中だった。
きっと今頃、潤林安の小さな台所に立ち、朝食を作っているころだろう。
その立ち姿、包丁のリズミカルな音が、まるで傍にいるように浮かんだ。
そして、その周りにまとわりつく、小さな澪の姿。
例え敵がどれほど強かろうが、あの笑顔を消させはしない。


「おぬしに任せたぞ。日番谷隊長」
「はい。お任せください」
迷いは、ない。力も、充実している。
見返してきた総隊長が、満足げに頷いた。
俺は先陣を切り、穿界門の中に、足を踏み入れた。



* last update:2012/6/26