歩き慣れた道。聞き慣れた喧騒。
この道を、いつか死神に見つかるのでは、と恐れながら歩いていた日々があった。
「死神の力の人間への譲渡」という大罪を犯した当時のルキアには、いつか必ず来る審判の日がいつも、立ちはだかっていた。
それでも、高校生として友人に囲まれる、初めての生活は心弾むものでもあった。
流魂街で過ごした、過酷だった子供時代を、もう一度生き直しているような気持ちにもなった。
それはまるで、厚い雲の下で散る、淡い桜のような日々だった。ルキアは今になってそう回想していた。

そんな日々をひときわ明るく彩ってくれたのが、井上織姫だった。
まさか、瀞霊廷の上官を案内して、今や狙われる立場の彼女を再訪する日が来るとは、あの頃は夢にも思っていなかった。


人々が行きかう大通りを抜け、緑道に足を踏み入れたところで住宅街になった。
両側に植えられた桜は、道に覆いかぶさるように枝を広げ、ちらほらと花が咲きはじめている。
物珍しそうに周囲を見まわしている乱菊の先に立ち、織姫のアパートに向かっていた時だった。
角を曲がって現れた人影に、ルキアの足は一瞬止まりかけた。
「どうしたの? 朽木」
「いいえ、なんでもありません」
ルキアは笑顔を作って振り返る。その横を、笑いさざめきながら二人の女子高生が通り過ぎてゆく。

ベージュのプリーツスカート。赤いネクタイに、白いブラウス姿。
ルキア自身がかつて毎日身に着けていた、空座高校の制服だった。
長い黒髪で細身の少女と、茶色く短めの髪で、背が低い少女。
二人とも織姫とルキアの同級生だった。四人で、学校帰りにソフトクリームだの鯛焼きだの、他愛もない食べ物を買い食いしたことを思い出す。

一瞬、ルキアと茶色い髪の少女の視線がぶつかった。
しかし、少女は全くルキアに意識を払うことなく、そのまますれ違う。プリーツスカートが軽やかに、視界の隅で翻った。
当然だ、と思う。ルキアが瀞霊廷に強制送還された時点で、全ての現世の関係者から、ルキアに関する記憶は削除されている。
一瞬交差した自分たちは、まるでビリヤードの玉のように、すぐ逆方向へと跳ね飛ばされた。
その距離の遠さを、ふと思った。


「あーー!」
唐突に、周辺に響き渡った大声に、ルキアと乱菊は同時に顔を上げた。
古びたアパートの三階のベランダから、織姫が身を乗り出して大きく手を振っていた。
このタイミングの良さからすると、さっきの二人の少女を見送ったところだったのだろう。
「くっちきさーん! 乱菊さーん! 久し振り、こっちに来てたんだね!」
顔じゅうで笑いかける表情は、心の底から嬉しそうだ。
そう叫んで寄こすが早いか、ベランダから部屋に駆け戻ろうとして背中を向け……不意に姿が消えた。
「いったーい」
耳を澄ませると、小さな声が聞こえてくる。どうやら、ベランダのサッシに躓いて転んだのだろう。
変わらないな。ルキアは思わず、微笑んでいた。


***


「……あ、あたしが?」
ルキアが説明し終えた後、織姫はぽかんとして呟いた。
織姫の部屋で、ルキアと乱菊は、テーブルをはさんで織姫と向き合っていた。茶が半分ほど入ったコップの表面には、水滴が浮いている。
「そうだ。藍染の手がかかった虚が、お前を探しているという話だったが――」
口にすればするほど、こんな普通の少女に、藍染一派に狙われるような何があるのかと思えてくる。
織姫は黙り込み、テーブルの上のコップを握る手を、見下ろした。
動揺や恐怖が追いついていない表情だ。無理もない、と思う。

浦原や日番谷にさえ完全につかみ切れていない危険を、ルキアが説明できるわけもない。
だから、知る限りの、藍染が去った後の瀞霊廷の様子を語った。
その上で、虚がこの街に現れる頻度が増えていること。そして、狙いが織姫かもしれないことを、包み隠さずに伝えた。
おっとりした外見に似合わず、織姫には果敢なところがある。
ルキアが捕えられた時、一護達と共に瀞霊廷に乗り込んできた彼女に対し、隠しごとは不要だと思った。

「ねぇ、織姫」
ルキアが話し終わるまで黙って聞いていた乱菊が、織姫に向き直った。
いつも華やかな笑顔を浮かべている彼女には珍しく、深刻な顔をしている。
「浦原喜助は、あんたの力はただの治癒能力じゃないって言った。心当たりはある?」
分からない、という返事を乱菊も予想していたのではないかと思う。しかし思いがけなく、織姫は首を縦に振った。
そして、自分の両方の掌を持ち上げ、見下ろす。
「あたしの力は治癒能力じゃないの。……これは、『拒絶する力』よ。傷を直す時だって、この傷をあたしは拒絶する、って思ってるの」
「拒絶……」
どうして気づかなかったのだろう、とルキアは今さらのように思い当っていた。
織姫はいつも、口に出していたではないか。
―― 「私は、拒絶する」
と。既に起きてしまった傷という「事象」をなかったことにする、というのなら。
一体彼女は、どこまで拒絶することができるのだろう。
そもそも、「拒絶する力」と、崩玉の持つ「破壊する力」はどこか、重ならないだろうか? 不意に、背中が寒くなった。

乱菊は眉をひそめていたが、やがてルキアも思ったことを口にする。
「じゃあ、治療以外にその力を使ったらどうなるの?」
「想像はつく……けど」
織姫は広げていた両掌を、組み合わせる。
その表情に、「恐怖」に近い感情が見え隠れしているのにルキアは気づいた。
おそらくそれは、狙われていることに対する恐怖ではない。
織姫は言葉を探すように、自分の手を見下ろしたまま黙っていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「誰かを傷つけるのは嫌だよ。あたしは、人を護るため以外にこの力を使わないと決めてるの」
「……そうか」
ルキアは頷くことしかできなかった。
「……もう、隊長、まだ来ないのかしら。大事な話なのに」
乱菊はそう言ってため息をつき、窓の外を仰ぎ見た。


日番谷の元に残して来た一護のことを、ふと思う。
無礼を働くなよ、と釘を刺したつもりだったが、目上への礼儀を欠く一護のこと、日番谷を不愉快にさせているだろう嫌な確信があった。
ただ、ルキアから見ると、初めて互いを知ったあの二人は、意外なくらい似て見えた。
腹さえ割って話せば、きっと分かりあえるのではと思う。

「……朽木」
その時、乱菊に鋭く名を呼ばれた。ハッとして見やれば、彼女がテーブルの下に置いていた斬魂刀を掴み取ったところだった。
鋭い視線を、窓の外に向けている。
「隊長は来ないけど、虚が来たわよ。……この霊圧、破面かもね」
「……追尾されたのでしょうか。霊圧は消したはず」
「尾行はなかったと思うけどね。いずれにしろ、ばれるのは時間の問題だったってことよ」
乱菊はそう言うと、立ちあがって二人を見下ろした。
「あたしが残る。朽木、あんたは織姫連れて逃げるのよ」
「しかし、それでは……」
斬魂刀を引き抜き、ルキアは叫ぶ。既に、肌にビリビリと響くような霊圧を感じていた。
いままで、戦った虚とは比べ物にならないほど強く、凶暴な気配だ。しかも、一体ではない。
副隊長と言え、一人で立ち向かうのはあまりに危険だ。

「時間がないわ。織姫を護ることが最優先でしょ? 早く!」
ルキアの心を読んだかのように、ベランダに出た乱菊が叫び返す。柵を蹴り、宙に滑り出ようとした時だった。
「松本副隊長!」
ルキアは思わず、悲鳴のような声を上げた。いつの間に現れたのか、乱菊の髪が触れんばかりの近くに、白装束を着た見知らぬ男が迫っていたのだ。
「……見つけたぞ、井上織姫」
酷薄な声が、その薄い唇から漏れる。背後にいた織姫が、押し殺した悲鳴を上げた。

「やっぱり、織姫が目的なの? アンタら」
「答える必要はない」
男は氷のような無表情のまま、手を乱菊に向かって翳した。
掌に、力が収束してゆく。虚閃だと分かったが、避けるにも反撃するにも、その力は圧倒的すぎた。
「朽木! 織姫! 逃げな!」
乱菊が灰猫を振りかぶる。次の瞬間、その場に光が炸裂した。

「……っ!」
思わず、腕で目を庇う。しかし、予想していた爆発はいつまで経っても襲ってこなかった。
「隊長っ!」
驚きと安堵を含んだ乱菊の声に、ハッとして目を開ける。

男と乱菊の間のわずかな隙間に、日番谷がその体を割り込ませていた。
氷輪丸を引き抜き、男に向かって振りかぶっている。
男の放とうとした虚閃は、氷輪丸の霊圧とせめぎあい、その場で止まっていた。

男と日番谷の視線が、冷たく交錯する。
「……貴様は」
「十番隊隊長、日番谷冬獅郎だ」
乱菊は日番谷に近づこうとしたが、せめぎあう力の強さにその場に踏みとどまるのがやっとだ。
「たい……」
「退がれ、松本」
日番谷は短くそう言ったが、不利なのは私から見ても明らかだった。

体格は、圧倒的に破面が上。霊圧なら日番谷が上回る可能性はあったが、こんな場所で霊圧を解放すれば、周囲への被害は甚大だ。
日番谷は周りを犠牲にしてまで攻撃しようとはしない。ルキアには、なぜかそんな確信があった。

「ひつ……」
ルキアが何とか手を貸そうと、足を踏み出したとき。引き止めるように、背後から肩をつかまれた。
「井上! お前は、下がっていろ!」
「……大丈夫」
織姫の表情は、緊張している。そして、そっと指先を差し伸べた。破面が訝しげな顔をする。
彼女は、ゆっくりと力在る言葉をつむいだ。
「……『私は、拒絶する』」



* last update:2012/6/30