「現在、乾燥注意報が出ております。火災が発生する恐れが高く……」
日番谷を眠りから引き戻したのは、スピーカーから流れる無機質な女の声だった。
瀞霊廷では、大規模な火事の鎮火は、日番谷の仕事になっている。氷輪丸を一振りで、どうにかならない炎はないからだ。
その後の氷輪丸の機嫌の悪さには、いつも参るが……薄ぼやけた脳裏で、なんとはなしにそんなことを考えていた。

規則正しく時を刻む、時計の秒針。その音が部屋中に響き渡るくらいに、辺りは静まり返っていた。
蛇口から水が滴り落ちているシンク。受話器にかけられたキルトのカバーが取れかけた、古ぼけた電話。
ポスターをはがした跡がいくつも残る壁。そして、誰も内包しないそれらの空間が作り出す、どこか手垢染みた沈黙。

全く身に覚えがない、しかしどこか懐かしい空気が、さらに眠りに誘いこもうとする。
心地よい布団の中に再びもぐりこもうとして、ハッと我に返る。同時に、文字通り跳ね起きた。
「……戦いはどうなった?」
返事を返す者がいないのを知りながら、思わず口走っていた。
のんきに寝てる場合じゃねぇだろ、と自分を叱咤する。破面との戦いはどうなったんだ?
焦りの滲んだ視線を周囲にめぐらせる。右側の窓からは、遠くで走る電車が見えた。
空気が汚れているせいだろう、かすんで見える町並みが、地平線まで広がっている。


やや冷静さを取り戻し、覚えている最後の記憶を引っ張り出す。
あのグリムジョーとウルキオラとかいう破面が去った後、黒崎一護の部屋へと集まったんだった。
―― 「隊長、今井上を迎えにやらせましたから。我慢してくださいね」
―― 「我慢って、ガキじゃねぇんだぞ」
とは言ったものの、首を掠っていたせいで血を失いすぎた。そのうち、ぼんやりしてしまったらしい。
乱菊が織姫を迎えに一階に下りて行った足音を最後に、意識は途絶えている。

右肩に手をやってみれば、包帯どころか傷も完全に消えていた。
あんな怪我をしたのが、夢の中の出来事に思えるほどだ。
上半身を起こし、ぐるりと肩を回してみても、痛みは全くなかった。
しかし、失った血が元通りになる、ということはさすがにないのか、わずかに身体が揺れるような気がする。
―― これが井上織姫の能力か……
ただの治癒能力ではない、と浦原喜助は言っていたが、治癒能力だけとっても大したものだ。

外は、明るい。太陽が東の空にあるから、まだ午前中だろう。時計はと見れば9時を指していた。
「みっともねぇな……」
思わず自嘲が洩れた。意識を失った時には、もう周りは暗くなっていた。丸一晩、寝入っていたということか?

決して持久力がない方ではないし、打たれ弱くもない。体質としては頑丈な方だ。
でも、たとえばこういう出血多量の状態になれば、大人の死神と比べててきめんに弱るのが早い。
こればかりは体格差の問題で、鍛えようがない部分だった。しかし隊長の立場で、「仕方がない」では済まされない。

ため息をついて壁際を見やると、氷輪丸が立てかけてあるのが目に入った。
ベッド脇の小さなテーブルの上には、乱菊が手配してくれたのか、新しい死覇装と隊首羽織が畳んで置いてあった。
「に、しても……」
改めて、部屋の中を見回す。なんなんだ、この部屋は。


カーテンの色はピンク。
意味を成さないほどに透けたレースカーテンが、空間をますます異様に見せている。
しかも日番谷が寝ていたベッドは、シーツも布団も毛布までも、全てがピンク色だった。
その上に、ダメ押しと言わんばかりにディフォルメしたキャラクターがでかでかと描かれている。
絨毯がベージュなのが救いだが、ここにもピンクのハート模様が点々と散っていた。

日番谷は、なんとなく慌てて起き上がる。
こんなピンクに埋め尽くされた部屋にいたら、ピンクが伝染りそうな気がする。
布団を跳ね除けたとき、上においてあったのだろう、何かが滑り落ちる。それを空中で受け止めて見ると、それは一枚の紙だった。
止めを刺すかのように、またも紙の色はピンク色である。そこには、男の手でこう書かれていた。

―― ここで待ってろ。
その紙に残されたかすかな霊圧から、その筆跡の主が一護だということは分かった。
おそらく……日番谷が寝入ってしまった後、一護は日番谷を適当な部屋に寝かせた(ここが適当かどうかは大いに疑問だが)。
そしてその後なにかが起きて、他の連中はそのまま出て行ってしまったのだろう。
起こせよ、と考えて、ため息をつく。引率の自分がいなければ、一体何をしでかすか分かったもんじゃない。

大体、こんな嫌がらせのような部屋で待てと言われても困る。
手早く死覇装に着替え、氷輪丸を掴み立ち上がる。
早足でドアに向った。バン、と遠慮も何もなくドアを開けた瞬間……固まった。


廊下に、少女がひとり、驚いた顔をで立ち尽くしていた。
ちょうど向こうからもドアを開けようとしていたらしく、右手を中途半端に上げた格好だ。
栗色の髪。大きな丸い瞳。身長は日番谷より少し高いが、子供だ。
「……黒崎一護の妹か?」
常人よりはやや強めの霊圧を感じる。外見は全く違うが、気配は一護とよく似ていた。
「……びっくりしたぁ。うん、あたし、遊子! おにいちゃんの双子の妹なの」
「悪ぃな。勝手に部屋使っちまったみたいで」
一護の部屋は他の死神たちでごった返していただろうが、女の部屋に寝かさなくてもいいだろうと思う。
うぅん、と遊子と名乗った少女は首を振った。
「おにいちゃんに、あたし達と同じくらいのお友達がいたんだね。知らなかった」
少女は元々大きな目をさらに丸くして、日番谷をまじまじと見て来た。
ふと、自分が死覇装を着ていることに気づく。現世では普通ではない格好なのだろうが、物怖じしたようには見えなかった。
―― ていうか、友達じゃねぇだろ……
そう思ったが、ここで否定して、だったらどういう関係だと聞かれても困る。
日番谷はあいまいに頷くと、するりと少女の横を通り過ぎた。

「邪魔したな」
頭は、すでに部下達や一護の気配を追いかけていた。
その時不意に、意識を引き戻される。振り返ると、少女が日番谷の袖を掴んでいた。
「駄目だよ」
日番谷が何か言う前に、少女はやたらときっぱりした声で言った。
「怪我したんでしょ? お兄ちゃんが言ってた。今も、ちょっとふらついてるよ。休んでなきゃ駄目だよ」
「どってことねぇよ」
そう言いながらも、少し驚いていた。特に自分でも、ふらついた自覚はなかったからだ。
そういえば、「クロサキ医院」という看板が家の前に出ていた。門前の小僧ならぬ、門前の少女というわけか。
「どってこと、なくない」
年齢に似つかわしくないほど、しっかりとした声で返された。日番谷が返す言葉に困ると、その瞳が急に優しくなる。
「心配しないで、あたし看護士さんみたいなこともできるから!」
「あのなぁ……」
頭に手を伸ばされそうになり、とっさに後ろに下がる。そういえば、自分の外見が十歳にも満たない子供だということを忘れていた。

力任せに振り払うつもりはないが、このまま部屋に戻されるのも困る。
困ったな。そう思って辺りを見回した時、少女の背後にある窓のところで、視線がぴたりと止まった。
「……何?」
キョトンとした少女が釣られて背後を振り返り……直後、喉の奥で悲鳴を上げた。その全身が瞬時に強張るのが、袖をつかんだ手を伝って感じられた。


どこまでもピンク色の部屋の窓に、泥を煮たようなボロボロの着物を纏った虚が、べたりと張り付いていた。
中身のない瞳が、じっと日番谷達を見つめている。
……にたり。
その顔に亀裂のような笑みが浮かぶ。と思った時には、虚は窓をそのまますり抜け、日番谷たちに向って音もなく突進してきた。

顔くらい一瞬で飲み込んでしまいそうな口、鉄色に輝く牙が一瞬のうちに閃く。
鈍い音と衝撃が、日番谷の右腕全体に響く。とっさに顔の前にかざした氷輪丸に、虚の牙が食らいついていた。
すぐ隣に、少女の顔がある。恐れるところまで思い至っていない、放心した表情を向けていた。

―― 待てよ。
ということは、この女は虚が見えるのか? 人間で虚の姿が見えるものは稀だが、黒崎一護の妹なら当然なのかもしれない。
「……目、閉じてろ」
空いている左腕を、女の顔の前にかざした。そして口の中で小さく呟く。
「縛動の二十の二……『裏鏡門』」

通常の「鏡門」と異なり、外側から内側へ干渉することはできるが、その逆はできない。
メジャーではないが、敵を結界の中に閉じ込めるには重宝な術だった。
しかし、ここにこのまま閉じ込めておくわけにもいかない。右手で「裏鏡門」の型を保ったまま、さらに詠唱を重ねた。
「破道の三十三、蒼下墜」
力ある言葉と同時に、結界内を青い炎がいっぱいに覆った。
中に閉じ込められていた虚が悲鳴を上げる時間もなかった。
結界を解いたとき、部屋の中にはかすかに、黒い煙が流れるのみ。
縛道と破道の術を組み合わせ、効率よく敵を倒す。年次を重ねた死神がよく使う戦い方だが、今の限定解除がかかった体にはちょうど良かった。

「……大丈夫か?」
目隠しに持っていっていた腕をどけると、放心したままの少女の顔が見えた。
思考が追いつかないまでも、もう安全だということは理解できたのだろう、その全身から唐突に力が抜ける。
「っおい?」
いきなりガックリと背中から倒れかけた体を、腕を伸ばして支える。
顔を覗きこむと、よほど怖かったのか完全に意識を手放していた。
「しょうがねぇな」
少女を担ぎ上げると、悪夢のようなピンクの部屋に戻り、ベッドの上に寝かせておいた。
通常なら、死神や虚を目撃した人間は、その部分の記憶を他の無難な記憶に入れ替えられる。
しかしこの程度なら問題ないだろう……と思った。
だいたい、記憶の入れ替えは、ごく稀にではあるが他の記憶障害も引き起こすおそれがある。


とにかく、一護や部下たちの後を追わなければ。そう考えて、窓を開け放つ。そして、窓から身を乗り出して気配を追った。
「……なんだ、こりゃ?」
すぐに眉を顰める。実際、意識を研ぎ澄ませる必要はまるでなかった。獣と人間の声が混ざったような抑揚のない野卑な声が、周囲から響く。
「死神だ」
「弱そうなガキじゃねぇか」
仮面を被った異形の者たちが、屋根から塀から空から、次々と湧き出してくる。
ざっと見たところで二十。しかし、半径1キロで把握する限り、百は下るまいと思われた。虚圏でも、これほどの密度はないだろう。

「……逸るな」
抑え込むように、ゆっくりと呟く。弾ける直前の風船のように、自分の中で力が膨らむ。
限定解除の戒めの中でもがき、牙をもたげている龍の気配。自分と一体であるはずなのに、別物のように身体の奥で蠢いている。
着物の襟元をくつろげると、胸元に黒く刻まれた水仙の紋様が覗く。と、水に溶けるように、紋様が勝手にかき消えた。
それと同時に、暴力的な力が全身を吹き荒れる。

「落ち着けって……氷輪丸!」
手に負えないとは常々思ってきたが、勝手に限定解除をやぶってしまうとは。
刀の柄をぐっと握り締め、外に吹きだそうとする力を自分の中に抑え込む。こんな現世の街中で力を解放するわけにはいかない。
「なんだ……てめぇ」
遠巻きにした虚達が、近づこうと足を踏み出して、背後に下がる。
霊圧に逆立つ髪が、背後からの冷たい龍の吐息に、揺れている。
「虚風情が氷輪丸を拝むことができるとは、ありがたいと思え」
吹きだした霊圧が、氷雪系最強の龍、氷輪丸の姿を形作っている。
1メートルはある巨大な頭部は半分透き通り、首から下の部分にかけて徐々に薄らいでいく。
白や青、藍の氷で形作られた頭部の中で、赤い瞳が爛々と輝く。その瞳に見据えられ、虚達が慌てた素振りで背後に下がった。
ごう、と嵐のような声を立て、頭だけの龍が吼えた。

……死をはらんだ沈黙。この龍が連れてくるのは、いつも同じだ。
数秒後、誰も、何も言葉を発しない。虚たちは、その場に縫いつけられたように身動きしない。
一陣の春の風が吹き抜ける。と同時に、数十を超える虚たちの身体に、一斉にひびが入った。
そのまま、まるで花びらのように細かい氷片に姿を変え、地面に散った。

美しい風景、と言えるかもしれない。でも、かすかにこみ上げた吐き気に、唇を噛んだ。
ずいぶんと戦いを重ねて慣れはしたが、この違和感は完全に消えはしない。
虚達の目には、自分は圧倒的な「死」を連れて来る存在として映っているのだろう。文字通り「死神」として。
それだけではない。この力は、敵も味方も区別しない。死神がいる中で下手に使えば、仲間をも殺しかねない。

刀を鞘に収める。柄を握ったまま、ふぅ、と息をついた瞬間、背後に現れた気配に振り返る。
「誰だ」
「わ、私です! 日番谷隊長」
「……何だ、朽木か」
クロサキ医院の屋根の向うにルキアの姿を認め、氷輪丸の柄から手を離した。
平気で近寄って来るなど、どんな虚かと思いきや、同じ氷雪系の力を持つルキアなら耐性があるのもうなずける。

斬魂刀「袖白雪」の柄を握り締めたままの右手が、赤くなっている。
いつもきっちりと着こなしている死覇装もところどころ汚れ、着崩れていた。
ルキアはそれでも疲れを見せず、きびきびとした動作で日番谷の背後に着地した。

「一体何が起こってる。この虚はどうしたんだ」
責めるつもりで言ったわけではなかったが、ルキアは申し訳ありません、と頭を下げる。
「松本副隊長が、最近お疲れのようなので少しでも休まれたほうが良いと……」
「いや、それはいい。それより、状況を説明してくれ」
「は」
ルキアは顔を上げた。

「私はあの後、瀞霊廷にて井上織姫の保護を依頼しました。瀞霊廷でも既に保護すべきとの意見でまとまっておりまして、
すぐに対応して頂けました。京楽・浮竹両隊長が現在、現世にお越しです」
「ん? あいつらは結界を張ってたんじゃねぇのか。もう動いて大丈夫なのか……」
隊長格が離れたということは、結界の生成を越え、維持する段階に入ったということ。
500人に迫る死神を結界に割くのは痛いが、隊長格が動けるだけマシだろう。
「総隊長から日番谷隊長へ、伝言が届いています」
そう言って、ルキアは懐から、一通の封書を取りだす。
大層に何事だ。そう思いながら封書を開き、一気に読み下した。

―― 井上織姫の保護を第一目的とせよ。万一敵の手に落ちそうになった場合は、その前に殺害すべし。

「……何と書いてあるのですか」
動きを止めた日番谷を、ルキアが不安そうに見つめて来る。
「……いや、気にするほどじゃねぇ」
日番谷はそれだけ言うと、鬼道でその手紙に火をつけて燃やした。

総隊長の懸念は理解できる。
織姫の力が藍染に利用された場合、死神に大きな被害を与えかねないと分かった以上、何があっても敵の手に渡すことだけはできない。
死神全体と、人間一人の命。どちらを優先するかと迫られれば、多数を取るのはいたしかたない。
―― でも、それじゃ駄目だ。
死神の役割は、人間を護ること。死神が人間を殺す、その一線を越えることだけは許されない。それに、
―― 「大丈夫、怪我しなかった?」
初対面の自分や、破面さえも心配していた姿を思い出す。
一護が戦いに巻き込むまいとしていた気持ちが分かるようになってきている。

殺させるわけにはいかない。日番谷はルキアに向き直った。
「井上織姫はいまどこだ?」
「自室です。京楽隊長、浮竹隊長が傍におられます」
「……そうか」
あの二人ならきっと、織姫を救うため最善を尽くしてくれる。しかし万一の場合は、総隊長の裏の命令に従うだろう。
そうであれば……100%、今の自分の味方だとは言えない。どこか冷静な頭で考えた。
「井上織姫のところに急ぐぞ。……つーか、この虚どもはどっから湧いてきた?」
「はい。今より数時間前、虚圏より無数の虚が襲来しております。幸いどれも雑魚ですが、死神を見ると手当たり次第に襲ってきます」
「雑魚ばかりってのは、どうして分かる? この状態じゃ一体一体の霊圧を追いきれねぇだろう」
「先遣隊のメンバーが伝令神機で連絡を取りながら虚を撃退しておりますが、実際に戦った感触です」
「なるほどな」
日番谷は、虚の影がいくつも見える空を仰いだ。

どれほど雑魚を寄こしても、隊長格の相手にならないことくらい、藍染が一番よく分かっているはずだ。
そしてあの男は、隊長だった時代から、決して無意味な行動は起こさなかった。
逆に言えば、全ての行動に意図が必ずあるということが、弱点になりかねないほどに。
「……雑魚しかいねぇんじゃねぇ。雑魚しかいねぇ、と藍染が思わせたがってるだけだ」
「……は」
「……油断するなよ、朽木。ついて来い」
はい、とルキアが頷くのを一瞥すると、地面を蹴った。



* last update:2012/6/30



突然ですが、番外編「日番谷と遊子が二度目に会った時の話」なんてものもあります。

[2008年 12月 11日]